――クリスマスの夜には、瓶や缶に入れた美味しいクッキーをテーブルに並べて、家族でゆったりディナーを楽しむのです。24日のお昼にはほとんどのお店が閉まってしまいます。だから私たちは、キリストのお生まれになった様子を思い描いて、静かな夜を――。 大学で同じ学科のドイツ人留学生が、やけに流暢な日本語でそんなことを話していた。キリストの降誕祭、聖誕祭、聖夜。そんな言葉で表される神聖なビッグ・イベントだ。ドイツではどうだか知らないが、とにかく日本には静かな夜を、なんていう風習はない。……そうだ、今宵はイベントなのだ。日本中の企業と言う企業がこぞってその行事に向けて全力を注ぐ。お菓子メーカー、ツアー会社、デパート、レストラン……。 そしてこの商店街のちょうど真ん中に位置する家庭風居酒屋『すゞね』も、その一つだった。 「いらっしゃいませぇ」 「どうぞ寄っていってくださいー」 積もることの無い雪がちらつくその日、田村綾斗(たむらあやと)はぴらぴらの真っ赤なコスチュームに身を包みながら、小さな宣伝紙を配っていた。 「サンタさんだあ!」 小さな少年がそう叫んだ。暗くなり始めたアーケードを横断して、綾斗のほうへ寄ってくる。 「プレゼントちょうだあい」 両手をちょこんと突き出して、このおねだりである。綾斗は中腰になって、苦笑を浮かべながら少年に向き直った。 「えっと……ごめんねぇ、お兄ちゃんプレゼント持ってないんだよ」 「ええー」 あからさまに落胆の表情を浮かべる少年の頭に、ぽんと白く細い手が乗っかった。 「ほらぼく、飴食べる?」 「春音さん」 声の主を見ると、居酒屋の女主人、鈴音(すずね)の一人娘、春音(はるね)だ。この時間帯は綾斗と二人で店の呼び込みの担当をしていたのだが、その手のひらの飴は一体何処から出したのだろう。 「ありがとう!」 少年は飴を三つばかり受け取ると、慌てた様子で後ろからやってきた母親に飛びついた。 「ごめんなさい、ありがとうございます」 「いーえ。『すゞね』をどうぞご贔屓にぃ」 ひらひらと親子に手を振りながら、宣伝をすることも忘れない。いやはや、彼女の商売根性には頭が下がる。 「……春音さん、アメ、常備してるんですか?」 「今日はクリスマスでしょ。こんなことくらい想定済みよ」 春音は綾斗と同じく真っ赤なサンタ服のポケットに手を突っ込むと、飴を一つ取り出した。片手で短めのスカートから覗く生足をさすりながら、それを綾斗の胸に押し付ける。 「あんたにもあげるわ」 「あ、どうも……」 ピンクの包み紙に包まれたイチゴ飴だ。綾斗はそれをポケットに突っ込みながら、思い出したようにチラシ配りを再開する。 「寒くないですか、足」 「寒いに決まってるじゃない」 春音も通行人に愛想を振りまきながら、きっぱりと答えた。赤くなっている膝小僧を見るとこっちまで寒さが伝染してくるようだ。 「あー、もう五時でしょ。綾斗君、六時まで休憩して、あとご飯も食べちゃってね」 「春音さんは……」 「呼び込みの女の子がいなくなってどーすんの。……まったく、バイトが男だけってのはどう考えても失敗よね」 ぶつくさ言いながら、春音は白いため息をついた。『すゞね』の従業員は鈴音と春音だけで、ほかには綾斗を含めた男のバイトが四人だけという少人数経営なのだ。いつもならそれほど困らないが、土日の他にこのようなイベントがある時には、てんてこ舞いになってしまうのは確かだ。 「タツも休憩だから、六時なったらその服着せて連れてきてね」 タツ――梶辰雄(かじたつお)は、綾斗の幼馴染で、この春音の弟……つまり、鈴音の一人息子だ。綾斗と同じ大学に通っているためバイトの扱いではあるが、家業の手伝いと言った方がいいかもしれない。幼い頃からよく手伝わされてきたせいか、今では鈴音不在のときに厨房を任されることもある。 その彼にこのサンタ服を渡せということなのだろう。 「やっぱり着まわしなんですね、この服」 ぼそりと呟くと、春音の目が一瞬だけ鋭く光った。 「……去年のやつ、ストーブで焦がしてくれたのは誰だったかしら」 「……タツですよ」 「なんであんたが着てたのにタツのせいなのよ」 「……休憩してきます」 綾斗はそそくさと背を向けると、熱気が篭る店内に足を踏み入れる。酒と美味しそうな肉の匂いと団体客の騒ぎ声のなか、厨房を通って最奥の暖簾をくぐると、靴を脱いで四畳半の小さな部屋へ続く小階段を登った。 「綾、おつかれー」 開きっぱなしの引き戸の奥から声がした。靴を脱いで上がると、やはり辰雄だ。畳の上に胡坐をかきながら片手を上げている。 綾斗は丸テーブルを挟んで座り込むと、上半身を動かしてかなり渋い引き戸を力づくで閉めた。しかしどこか歪んでいるのか、かたかたと音が鳴っている。 「あー、寒かったー」 のそのそとストーブの前に移動して、手をすり合わせながら息を吐く。そして吸い込んだとき、ふと肉の匂いを嗅ぎ付けて、綾斗の視線はテーブルの上へと滑った。 「ああ、これ母さんからのねぎらい」 皿を覆い隠すスーパーの特売チラシを取り除くと、茶碗に盛られた白いご飯のほかに、つやつやと照りを出す肉料理が姿を現す。店のメニューには無い料理だ。 「おおっ」 「ささやかだけどさ、クリスマスパーティーしよーぜ」 辰雄はそう言って脇に置いた紙袋からお洒落な包み紙に包まれた瓶を一本と、ガラスのコップ二つを――おそらく店のものだろう。半透明で店名があしらわれている――取り出した。 「お、何それ、シャンパン?」 「ブッブー。ジンジャーでっす」 なんだ、と肩を落とす綾斗に笑いながら、辰雄はその蓋をいとも簡単に開けて、コップに並々と注いだ。 「まあま、勤務中なんだから」 コップを受け取って短く乾杯をすませて、一気に飲み込む。生ぬるいところが何ともいえないが、乾燥していた喉は潤った。 「じゃ、いただきまーす!」 白いご飯とこってりのおかずにかぶりつく。香ばしさと鶏肉のうまみが口中に広がる。『すゞね』の良さは、なんといってもこの料理の上手さにあるのだ。綾斗もよく食べさせてもらうが、何度食べても頬に沁みる美味しさだ。 「んー、うまい」 夢中で肉と米とに齧り付いていたが、ふと正面からの視線を感じて綾斗は顔を上げた。 「なに」 「べーつに」 辰雄はわざとらしく立ち上がると、背を向けて立て付けの悪い小窓の鍵を閉める。しんと、部屋が静まり返った。なるほど、先程から聞こえていた音はこの窓が原因だったのか。 「去年のこと、覚えてるか?」 辰雄は綾斗の隣に来て、どっかりと腰を下ろした。ストーブの熱が彼の体で遮られ、ぶるりと体が震える。 「去年?」 「去年のクリスマス。綾がやっぱりサンタ担当で……」 辰雄が楽しげに笑う。一方綾斗はちょうど一年前のことを思い出して、自然と苦い顔になった。 「お前のせいで、危うく火事になるとこだったんだぞ」 軽く頭を叩いて辰雄を諌めると、綾斗は残りの米粒を箸で掻き込んだ。 「綾が力抜くからだよ」 「抜かしたのは誰だ」 米を口内で咀嚼しながら横目で辰雄をじっとりと睨む。すると辰雄はあからさまに目を逸らして、ストーブの設定を弄りだした。 そう、去年のクリスマスも、この狭い部屋で二人きりだった。ちょうど今と立ち位置が逆で、綾斗がストーブ側に座っていて、辰雄と会話していたのだ。会話していた、はずだった。 「いいじゃん良かったんなら」 綾斗は辰雄の言葉にフンと鼻を鳴らすと、コップに注がれたジンジャーエールに口をつける。 「そういう問題じゃないし。第一、俺は怒られた」 「俺も怒られたよ」 あの時――何のきっかけだったかは忘れた――突然、辰雄がキスをしてきた。それはたまにあることで、綾斗自身その行為が嫌いではなかったし、その時も辰雄の好きにさせようと思った。ただ、やけに興奮した辰雄が綾斗の下半身を撫で始めたせいで、余計に頭がぼうっとなり、気がつけば彼にすっかり押し倒されてしまっていたのだ。……つきっぱなしのストーブに寄りかかるようにして。 「俺、あんなに怒ってる春音さん初めて見た」 焦げたなんだと大騒ぎして気が動転した綾斗と辰雄がどたばたと暴れたせいか、春音がこの部屋に様子を見に来た。そして背中の一部分の生地が溶けて固まってしまっているサンタ服を見て、激怒したのだ。 「あんたら、遊んでんじゃないわよぉ!」 辰雄が春音の真似をして拳骨を振り上げる。お世辞でも似てるとは言いがたいが、その時のことを鮮明に思い出してしまって、綾斗はしかめっ面で閉口した。 「ま、そんなこともありましたということで」 「タツは慣れてるからいいだろうけどさ」 耐性がない分自分は不利だ。綾斗は壁にかかった時計を仰ぎ見た。既に六時の十分前をさしている。 「あ、もう着替えなきゃ。また怒られるぞ」 言いながらボタンに手を掛けた綾斗は、腕に何か固いものが当たって、ふとその動きを止めた。ポケットを探ると、丸いものが入っている。そうだ、春音に貰ったイチゴの飴だ。 「ほら、クリスマスプレゼント」 それを包みごと辰雄の手にぽんと乗せる。辰雄は一瞬驚いたようにその小さい飴を見つめたが、 「さんきゅう」 すぐに口に放り込んだ。そのまましばらくもごもごやって、一言、「甘い」という感想をもらす。 「俺の上着は……」 綾斗は自分の着替えを探してきょろきょろと辺りを見回した。すると、辰雄の肩越しに見慣れたリュックが見える。 「タツ、そっちにある俺のリュック取って」 「ん」 辰雄は案外素直に返事をすると上半身を捻り、後ろにあるリュックを持ち上げた。 「ありが……」 しかし、辰雄は礼を最後まで言わせなかった。ぐい、と頭を引き寄せられたと思ったときには、もう遅い。柔らかいものが唇を塞いで、緩んだ口のすき間から甘い唾液とともに辰雄の舌が入り込んできた。 「……ふ、っ」 まだ大きさを保ったままの飴が二人の口の中を往復する。甘ったるい匂いが鼻腔をつく。やがて、微かな余韻を残して、ゆっくりと唇は離れていった。飴は辰雄の口の中だ。 「俺からのクリスマスプレゼントな」 「……ばかやろ」 濡れた口の端を手で拭いながら、綾斗は悪態をついた。まだ心臓は早鐘を打っているし、思考も気持ちよさに負けてぼやけてしまっている。辰雄の手が肩に伸びてきて、そっと押し倒されるが、抵抗する暇がなかった。いつもしてやられてばかりで、いい加減腹が立つ。 「おい、タツ……」 「俺、この恰好してる綾見ると、襲いたくなっちゃうんだよね」 照明のおかげで逆光になった辰雄の表情はよく見えないが、その双眸はいつもにましてぎらりと光っている。射すくめられて、綾斗はそれをじっと見つめ返すことしか出来ない。 「やろーぜ」 「……タツ」 だんだん、流されたいという衝動が湧き上がってくる。気持ちいことを、このまま、時間なんて気にせずに――……時間? 「待った!」 綾斗がはっと我に返って叫んだのと、渋い引き戸がガタガタと物凄い音を立て始めたのは、ほぼ一緒のことだった。すぐにバシンと戸が勢いよく開いて、綾斗は恐る恐る仰向けになったまま戸口のほうを見上げる。 「…………」 予想通り、寒さか怒りで顔を真っ赤にした春音が、わなわなと震えてそこに立っていた。さっと血の気が引く。慌てる暇も無かった。容赦なく振り上がる拳を黙って見つめる。 痛みに備えて口を閉じると、舌先に残るイチゴの甘さが一層強くなった。 いつの間にか重なった手のひらに力が篭る。 「あんたら……っ、サカってんじゃ、ないわよ!!」 そして間もなく――、二人にとって最も有難くないクリスマスプレゼントが、降ってきた。 |