毎週水曜日の昼休みは、野崎と飯田と一緒に大学食堂に行く。いつもは寮の弁当をもらって飯をすませる面々だが、水曜日のそれはいつのまにか習慣になっていることだった。理由は簡単、「たまには寮以外の飯が食いたい」。もちろんそんなことを言い出したのは西山なのだが(ちなみにさくらの作る料理は絶品だ、念のため)――今日は飯田が学生委員会の会議で不在だということで、二人でメニューを吟味していた。 ちらりと横を見る。一年前の一件があってから、野崎のことになると過保護どころではない構いぶりだと飯田同様自覚しているのだが、西山にとって彼はただの庇護の対象ではない。一緒にいると、楽しい。やはりそれは大事な要素だ。 「……ぁー」 「野崎、眠そうだな?」 食事の乗ったトレーを持ちながら欠伸をする野崎を見て何気なく尋ねると、うん、と生返事が返ってくる。食堂は昼時の活気で賑わっているが、その中から空いている席を見つけて野崎を座らせると、自分はその向かいに腰を下ろした。飯田がするようにきちんと手を合わせてから湧いてきた食欲を隠すことなく食事に取りかかる。 「……西山って昼はよく食べるよな」 感心しているのか呆れているのかわからない声で野崎がつぶやく。今日のメニューは、メインのカツ丼をはじめ、サラダ、きんぴらごぼう、湯豆腐、豆乳のジュースだ。因みに野崎は290円の醤油ラーメン。なかなか食べ始めないのは、黙々と上がる湯気に怖気づいてのことだろう。彼は猫舌なのだ。 「俺は朝食わない分、昼で補ってんの」 主張してみると、野崎は間髪入れず、 「朝食わないと太るらしいぜ」 ……それは聞き捨てならない。 「お前、俺のこの体のどこを見てふとっ」 「あーハイハイ悪かったよ、わかったから食べながら喋るな」 体型についての論議を交わす気はもとよりなかったらしい。さっさと白旗をあげると、野崎はレンゲと箸を駆使してラーメンを食べ始めた。が、すぐに止まる。 「まあ、確かにチョイスはヘルシー志向だもんな」 それだけ言いたかったらしい。 「麺、伸びるぞ」 「分かってるけど、一気に啜ると口ん中火傷するんだ。……これって、葛藤だよな」 などとぶつぶつ言いながら再び食べ始める。西山も休むことなく箸を進めて、暫し無言が続いた。男同士の食事などだいたいこんなものである。いつだったか、飯田が「女の子ってなんで食べながらあんなに盛り上がってんだろうな」とぼやいていたことがあったが、簡単だ。男と違い、女子にとってランチタイムはお喋りのための時間なのだ。 「ごちそーさん」 ぱん、と手を合わせて箸を置く。突然声を出したので驚いたのか、野崎がぱっと顔を上げた。 「早っ。ちゃんと噛んでるか?」 「野崎は噛みすぎ」 「だから、一気に啜ると……」 「あーハイハイわかったよ、わかったから早く食べろ」 さっき言われたことを真似てあしらうと、野崎は不満げに眉をひそめていたが、黙って箸を動かし始めた。このままでは本当に食べ終わらないと思ったのだろう。 「さてと……」 西山は携帯電話をいじる傍ら、正面をちらりと見た。自覚しているのかはわからないが、野崎は食べるスピードがなかなかに遅い。話しているときにはぴたりと箸を止めてしまうからだろうか。まあたしかに食べながら喋るなんて品のないことをしているのは西山くらいのものだが、それにしても遅い。メニューがラーメンであることを差し引いても、だ。ちょうど真ん中くらいの飯田がいない日は、こんな風に顕著に表れる。 「俺、トレー返しに行ってくるな」 「おう」 野崎の生返事を聞きながら、ポケットから取り出したミントガムを口に入れて、席を立つ。談笑のざわめきの中を進んで返却口に向かうと、後ろから「ちーちゃん」。……嫌な予感がした。 「ちーちゃん!」 もう一度。西山は逃げられないことを悟ってトレーを返すと、ことさらゆっくり振り返った。 「……なに?」 長い茶髪に、下品にならないほどのぱっちりアイメイク。変わったのは、緩いパーマがストレートになっていたことくらいだろう。先日派手に喧嘩した挙句に振った元カノ――佐々木理香は、印象の強い瞳で毅然とこちらを睨みつけている。 「あたしに、何か言うことないの」 「髪、似合ってるよ」 「……嘘ばっかり」 理香は軽くため息をつくと、今度は悄然という様子で目をそらした。こういう歯に衣着せぬところは結構好きだったな、と思い出す。 「あのあと、よく考えたらね、冗談だと思ったの。ちーちゃん、女の子好きでしょ」 ああ、そのことかと合点がいった。彼女を振ったとき、通りすがりの野崎に少しばかり協力してもらったのだ。通りすがり、とは言うが野崎限定の手段だったけども。 「あれは……」 「いいの、言わなくても。さっき二人見てて、付き合ってないって、すぐわかったから」 見られていたのは気が付かなかった。先ほどまでの行動を思い起こすが、確かにどう見てもただの友達同士にしか見えなかっただろう。しかし嘘を見抜いて糾弾しに来たにしては、彼女の表情は穏やかだった。 「悪かったよ」 「ちーちゃんが謝ることないよ。だってそういうのって、どうしようもないから」 「どうしようもない?」 妙に聞き分けがいいことに、逆に不安になる。一発叩かれても文句は言えないくらいには思っていたのだが。 「あたしもそうだったもん。……経済システムの子でしょ、あの子。野崎君だっけ?」 「あれ、知ってたっけ」 理香は「よく話してたじゃない」と口をとがらせると、続けた。 「……ちーちゃんの本命が彼だっていうの、なんかわかる気がする。普通っぽいのが逆に納得っていうか……」 ようやく違和感の正体が分かった。嘘がばれたのは本当だが、どうやら妙な方向に修正がかかってしまったらしい。 「あのさ、理香……」 「振られても絶対慰めてあげないからね」 そう意地悪く言い残して、理香は踵を返した。その姿は行き交う人の波にまぎれてすぐに見えなくなる。 「……ま、いいか」 ややこしいことになってしまったが、野崎に迷惑がかかることはないだろう。西山は一人でうんうんと頷いて席に戻る。野崎はようやく食べ終わるところらしかった。スープを飲む手を止めて、顔を上げる。 「遅かったな」 「ああ、そこで……」 言いかけて、やめる。言うことのメリットは何一つない。 「……そこで?」 「なんでもない。外いこうぜ、外。ここ空気こもってて嫌だあ」 「駄々っ子みたいに言うなよな。ちょと待て」 野崎は「ごちそうさま」と言って立ち上がると、西山と同じようにポケットからガムを一つ取り出し、口に放り込んだ。西山は、彼がトレーを返却するまでおとなしくテーブルの傍で待っていたが、理香にまだ見張られているような気がして落ち着かない。きょろきょろしていると、そのうち野崎が帰ってきた。 「よし、行くか」 ふわり、甘い柑橘系の匂いが漂ってきた。そういえば、野崎はミント味が駄目なんだっけ。 *** 広い階段を下りて外に出ると、まだ気温はそう高くないものの気持ちのいい風が穏やかに吹いていた。八分咲きの桜の木陰にあるベンチに腰を下ろす。野崎も隣に座った。 「気持ちいいな」 「ん」 野崎は目を瞑って空を仰いでいた。気持ちよさそうに呼吸しているところを見ると、このまま寝てしまいそうだ。思えば、食堂で落ち合った時からずっと眠そうだった。寝不足だろうか。 ――ちーちゃんの本命が彼だっていうの、なんかわかる気がする。 ふと理香の言葉を思い出す。「普通っぽいのが逆に納得っていうか……」何が納得だ。普通なんて人間、いないだろ。今更反論しても無駄だが、西山は野崎を見ながらそう思った。 食べるのが遅いところとか。ミントが駄目なところとか。ぼんやりしてるけど妙に鋭かったり、かと思えば自分のことには無頓着なところとか。穏やかだけどちゃんと芯があるところとか。 「……うん」 満足した。唾を飲みこむと、スーっと喉が心地よく刺激される。隣をみると、野崎は本格的に昼寝を始めてしまったらしい。口が半開きだ。 「本命、ねぇ……」 理香は、自分をさんざん振り回した男が叶わない恋をしていると知って、いい気味だと思っただろうか。反応を返さない隣人を、再び見る。じっと見る。 まつ毛が、結構長い。 「……」 やばいかも。と思った時にはもう遅かった。そっと口づけて、呼吸を遮る。唇は柔らかい。昼の日差しが影を作って、野崎の顔に落ちている。彼の瞼がぴくりと痙攣して、ゆっくりと開く。 「……っ、ん」 まるで白雪姫だ。思いながら、寝ぼけついでの可愛い抵抗には知らないふりをして、野崎の口の中に舌を差し入れた。瞬間、どきりとする。 ――甘い。 そして、甘い微睡の前にやってきたのは、……一瞬の隙をついた見事な一撃だった。 「ぐっ……!」 「な……に、やってんだよ!」 拳が脇腹だったあたりに野崎の優しさを感じるが、本人は混乱と羞恥とで顔を真っ赤にさせている。呼吸口を塞がれて思うように息ができなかったせいもあるだろう。 「やーごめん、つい」 「つい、ってなんだ、ついって」 怒っている口ぶり(怒ってはいるだろうが、本気の本気ではないことぐらいわかる)で、野崎は息を整えている。ちょっと惜しかったなと思いながら、はたと違和感に気づいて西山は自分の心臓に手を当ててみた。 鼓動が早い。 「まさか、彼女振る練習とか言うんじゃないだろうな」 「……」 「西山?」 「あ、ああ、ないない、ちょっと、甘いのかなーって」 「甘い?」 「野崎、甘いガム噛んでるだろ?」 初めて入った彼の口内は、予想通り甘かった。妙に動揺しているのは、その甘さに、急に現実感が増したからかもしれない。 「よくわかんねーし」 「まあ一回俺のテクを味わってみろよ。ちょっと、腰ぬかすぜ?」 「はいはい、そうですね」 野崎はいとも簡単に流して見せると、さすがに昼寝の続きをする気は失せたのか立ち上がった。 「そろそろ行こうぜ。次別棟だろ」 「そーだな」 いつもと変わりない野崎に、どこか物足りないような気持ちになる。その燻りを持て余しながら歩いていると、野崎は知り合いらしい男子学生とあいさつを交わしている。寮にいると大学での交友関係がいまいち見えないが、こうして普通に話す友人はいるのだ。その中には、結構仲のいい奴もいるだろう。同じ学科の飯田はそれも大体把握しているのだろうが、学科が別である西山はそうもいかない。 ああ、この感情は知っている。 「なー」 「なんだよ?」 「今話してたあいつと、キスする?」 「は?」 我ながら馬鹿な質問をしたと思う。しかし、野崎は今度こそ訳が分からないという風な顔をしながら、 「しねーよ、バカじゃねーの」 しれっと続けた。本日二度目の衝撃。その常識の綻びに、果たして彼は気づいているのだろうか。 「……おお……うん、バカかも」 妙に嬉しくなってきて、西山は野崎の首に腕を回した。野崎が迷惑そうな顔をしているのが後ろからでもよくわかる。 「重い」 「うん」 「動けん」 「うん」 「はーなーれーろー」 「やーだー」 うん、悪くない。悪くないな。 「飯田はどこだ、こいつ押し付けてやる」 「えー野崎ひっどーい」 彼がいい加減にしろと言い出すまで、恐らくあと十数秒。 よし、それまで、このランチタイムの戯れを存分に楽しもうじゃないか。 END |