金曜日の秋晴れ。ひときわ澄んだ空気が早朝の金葉荘を包み込んでいる。この小さな男子寮、金葉荘は名葉大学から徒歩五分という位置にあるひっそりとした建物だ。この春からここでお世話になっている鈴木亮平は、ここで迎える初めての秋の訪れに、何かが起こるような直感に、心を躍らせていた。空気は涼やかで、窓の外を覆う霧の向こうに太陽が待っているのだと思うと、いずれやってくる晴天を感じていっそう気持ちがいい。 寮での生活に、概ね不満はなかった。寮を切り盛りする元気なおばちゃん、さくらの作る料理はおいしいし、隣室から馬鹿騒ぎが聞こえてきて寝られないというのもない。先輩たちは、――二年生の小塚を除けば――皆気さくな人たちばかりだった。友達も、人並みにはいる。 それなのに、鈴木はこのそこそこ楽しく過ぎていく日々に、どこか物足りなさを感じていた。とんでもない非日常を求めているわけではない。今、この瞬間しかできないことを、何かしたいというささやかな思いだった。 鈴木は窓を開けて、風とも言えないほどのゆるやかな冷たい空気を、暫し浴びていた。すると、どこかで「ヒュン」と、何かが空気を切る音。耳を澄ませた。もう一回、もう一回。いや、これは一定のリズムで響いているようだ。 「何の音だ? …………あ」 果たして、鈴木は音の正体を見つけた。真下だ。鈴木の部屋から見える裏庭に、人がいるのだ。霧が僅かに薄まって、そのシルエットが浮かび上がる。ひゅん、ひゅんと風を切る音。そしてぶれる影。人影は、絶えず動いていた。 「……なわとび」 瞬間、居ても立ってもいられなくなって窓を閉めると、ジャージのまま部屋を飛び出した。廊下で三年生の宮地と激突しそうになったが、するりとかわして走る。 「おはようございます!」 「お、おお……?」 朝風呂は彼の日課だ。怪訝そうな顔を尻目に階段を駆け下りて、正面玄関から裏庭へ向かう。 どこかつまらないと思っていた。物足りないと思っていた。 その足りない何かを見つけたような感覚に突き動かされて、鈴木は走っていた。裏庭に回って、少し走ると、足音に反応したその人物が軽やかな動きをぴたりと止め、こちらを向いた。目が合う。 「久世」 久世太一。その名前と顔は確かに覚えがあったが、同学年にもかかわらず、彼とはこの半年間、ほとんど口をきいたことがなかった。敵対していたとか、決してそういう理由からではない。久世は寮のどんな集まりにも顔を出さないことで有名な学生だったからだ。その気だるげな無表情からも、どこか近寄りがたいオーラを発している。そんな彼とここで会うとは。 思わず唖然としてしまったのが伝わったのか、彼も少なからず驚いているのか、はっきりとは定かでないがとにかく久世はこちらを凝視している。睨んでいるわけではないと思う――多分。 「あ……その、窓から見えたから」 焦って言い訳めいた台詞を発してしまってから、ようやく落ち着いて鈴木は「いつもここで?」と訊ねた。返事は返ってくるものか、と若干冷や冷やしたが、そこまで無精者ではないらしい。「いや」という一言が返ってくる。 「これが、あの中にあったから」 これ、とは手にした縄跳びのことらしい。久世の視線をなぞると、ボロボロのプレハブ小屋が鎮座している。何かの用具室になっているのだろうか。気になってその中を覗いてみると、(木製のドアは形ばかりで今にも壊れてしまいそうだ。開けるときにも細心の注意が必要だろう)土と埃の臭いで思わずむせた。どのくらいの間、この扉は閉ざされたままになっていたのだろうか。 「……体育用具室みたいだな」 中は予想していたよりも広かったが、床板を踏むたびに埃が舞い上がる。サッカーボールや野球ボールの類やスキー板、何に使うのかわからない器具が、雑多に詰め込まれていた。思わず躓いた段ボールの中に、なるほど、大量の縄跳びが入っている。それを一つとると、どうやら底にノートらしきものがあるのに気づいて、鈴木は拾い上げた。 「軽スポーツ……同好、会?」 題名の悪筆に目を走らせる。大分古いものなのか、ページは乾燥してぱさぱさになっている。 「あんまり漁ると、埃まみれになるぞ」 その通りだった。珍しく建設的なアドバイスをしてくれた久世は、縄跳びを再開し始めている。鈴木はノートを置いて外に出ると、新鮮な空気をたっぷり吸った。扉は換気のためにも開けておくことにしよう。 「なあ、久世、一緒にやっていいか」 「別に。やれば」 久世は相変わらずの無表情でそう答える。おそらく了承だろう。 「縄跳びなんて久しぶりだな……よし、飛ぶぞ!」 「……そんなに意気込まなくても」 いやいや、意気込みは大切だぞ。思いながら飛び始めてみると、予想以上にリズムが取れない。そういえば高校時代所属していたバレー部でも縄跳びはやらなかったな、と思い出す。実に中学以来だ。何度やってもすぐに引っかかってしまうので、終いには、 「この縄跳び、短いんじゃないか」 用具に文句をつけるなど、弘法に怒られそうな愚痴をこぼしてしまった。 「リズム感が足りないんだ」 またしても、良心的なアドバイス。自分はこの男のことを少し誤解していたのかもしれない。 「リズム感って言ったってなあ……」 「いち、に、いち、に」 久世は飛びながら、そうカウントを始めた。鈴木もそれに乗っかって飛んでみると、確かに先ほどより飛びやすい。だんだんと気分も乗ってきて、背中が汗ばんでくる。そろそろ二重跳びにでも挑戦してみようかと思った時、すっかり霧の晴れた向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。 「鈴木! ……と、久世? 何やってんだ?」 同じく一年の教育学部、阿部学だった。寮生のなかでもよく話す男で、裏表がなくはっきりきっぱりしているところに好感が持てる。 「阿部もやってみないか? 楽しいぞ」 「縄跳びか……。よし、いいぜ! 俺の運動神経舐めんなよ?」 別に競争する気はなかったのだが、彼は早くも好戦的だった。 「じゃあほら、これを使えよ」 鈴木は休憩もかねて縄跳びを阿部に託すと、僅かに濡れている芝生に座り込んだ。阿部が軽やかに縄跳びを跳びはじめる。さすがに、高校時代はサッカー部、現在は複数のスポーツ系サークルを掛け持ちしているという彼の運動能力は伊達ではなかった。久世が隣で跳びながら「リズム感が」と口をはさむこともない。 「まあ楽勝だよな」 自信ありげな様子に少し恨めしい気持ちがわいてきて、鈴木は「二重跳び、やってみろよ」とリクエストしてみる。もちろん、彼の答えは「いいぜ」だった。 最初に何回か跳んで調子を整えると、ひときわ高く跳んで縄を素早く回す……完璧だった。一回目だけは。 「ったあ!!」 彼は二回目のそれに見事に失敗し、縄を脛に強かに打ち付けた。大げさなリアクションに思わず吹き出してしまう。しかも、 「この縄、短いんじゃあ……」 阿部が自分と同じことを言い出したので、ますます面白い。 「リズム感が足りないんだ」 久世もどこか楽しげだった。 それから三人はすっかり縄跳び遊びに夢中になっていた。すっかり朝日は顔を出したが、縄を手放す気配はまだまだない。不意に、阿部が白い息を吐きながらぽつりと零す。 「なんかさ。なんか、こういうのって、いいよな」 その言葉に、鈴木も頷く。阿部の隣にしゃがみ込むと、久世もいつのまにか跳ぶのをやめていた。 「部活じゃなくて、ただ単に体動かすのって、すげー楽しい」 「ああ」 同意して、鈴木はふとあのノートのことを思い出した。「軽スポーツ同好会」――特に気にもしなかったそれが無性に気になりだして、きょとんとする阿部を置いて倉庫の中に入る。例のノートを持って戻ると、埃をぱんぱんとはらった。 「この寮に、スポーツ同好会があったらしいんだよ」 「へえ」 予想通り、阿部が興味を示した。鈴木二人にも見えるようにページをめくってみる。中身はごく普通の練習日誌のようだったが、ページが進むごとに文章は簡素化され、「3月25日 卒業式 ついにこの日が来てしまった。」と書いてあるのが最後になっている。 「随分古いな。これを見ると、無くなっちゃったってことだろ」 「そんな話は聞いたことないけどな。久世は?」 沈黙を守っている久世に話を振ってみるが、彼は僅かに首を捻っただけで、やはり有益な証言は得られなかった。 「……これ、もう一回作り直せないかな」 気づくと、鈴木はそう口にしていた。阿部が途端に顔を上げて大きくうなずく。 「それいいな、おもしろそうじゃねえか!」 目が輝いている。自分で言い出したにもかかわらず驚いて、久世に目をやった。 「俺も、やる」 「決まりだな!」 久世が自ら承諾するとは正直意外だった。同時に嬉しくなってくる。この時間が、少なからず彼にとって楽しかったということの証拠なのだろうから。 「そうと決まれば名前、名前をつけなきゃな」 「このままじゃだめなのか?」 「かっこ悪いだろー」 阿部はすぐさま却下すると、ああでもないこうでもないと考え始めた。久世はというと、同好会の外見にはとんと興味がないらしく、今更に欠伸などしている。 「あーもう別にかっこよくなくていいからさ、さっさと決めろよ、鈴木」 「ええ、俺が?」 頭を捻るのに疲れた阿部に突然指名されて、鈴木は狼狽した。自分で言うのもなんだが、センスのある名前を考え付く自信は全くない。 「ほら、なんかあるだろ」 「こ、コズミック……」 沸騰した頭で何か恐ろしいものがひねり出される直前、 「ここにいたんだ!」 誰かの大声が聞こえて、鈴木はぱっと口をつぐんだ。恥ずかしい、全部言わなくてよかった。 「悠斗」 せわしなく駆けてきたのは阿部と特に仲の良い(と鈴木は認識している)同じく一年の藤枝悠斗だ。彼は息を切らして、白い頬を僅かに赤く染めていた。 「もう、どこにもいないから探したよ! ……なんで探したんだ、なんて馬鹿なこと言わないでね」 「なんで探したんだよ」 阿部のとぼけた答えに怒るより呆れたようで、藤枝はため息をつくと、 「ごはん、もうとっくにできてるって」 と言った。もうそんな時間か。思い出したように空腹が頭をもたげてくる。 「……あのさ、藤枝。今同好会の名前を考えてるんだけど、いい案ないか?」 阿部が適任者をみつけたというように彼に尋ねた。藤枝は成績優秀で頭の回転もよさそうだが、ネーミングセンスの方はどうだろう。 「同好会の名前、ねえ……」 藤枝は何かを考えるように宙を見る。律儀に考えてくれる辺りが、彼の真面目さを物語っている。 「そうだな、……木曜会なんてどう?」 どこかで聞いたことがあるような単語だ。 「木曜会?」 反芻した阿部にしっかり冷たい視線を浴びせてから、藤枝は丁寧に説明を加えてくれた。曰く、「夏目漱石が木曜日に彼を慕う文学者たちとなんか色々話し合った会」のことらしい。なるほど。……説明が遅れたが、彼は文学部だ。 「でもさ、いまいちピンと来ないよな」 阿部がしっくりこないという風に眉を寄せる。鈴木は暫し思案して、 「金曜会、っていうのは?」 そう提案した。 「おいおい、金曜日にしただけじゃねえか」 「そうじゃなくて、ここは金葉荘だし――……それだけだけど」 「じゃあ、毎週金曜日に活動すればいい」 話を聞いていないとばかり思っていた久世が、そうぽつりと言った。 「金曜会、ね……うん、悪くないような気がしてきた」 「なにそれ、適当すぎ」 阿部の気まぐれな発言に藤枝が文句を言っているその横で、久世はこちらを向いた。 「よかった」 「何が?」 彼は心底ほっとしたという表情で、 「コズミックなんとかにならなくて」 僅かに笑った。 ――物足りないと思っていた何かが、埋まっていく感覚。思い切り息を吸い込む。 新しい秋が、やってきた。 END |