花火の最後


 今年も真夏が過ぎようとしている。
 地元の河川敷で行われる花火大会は、規模は小さく花火の数は少ないものの、毎年都会から帰省してきた人々や学生の姿で変わらぬ活気を見せている。川では灯篭が流され、その幻想的な明かりと屋台の賑わいが独特な空気を作り出し、八時から始まる打ち上げ花火に誰もが見とれるのだ。
 藤塚慶介もまた、盆時期に合わせて帰省してきたうちの一人であった。といっても、もう明日には飛行機に乗って東京に向かわなくてはならない。大学四年生は絶賛就職活動中で、もはや一時も無駄にはできない状況だった。慶介が金と時間に無理を言ってこの花火を見に来たのには理由があった。いや、理由とは呼べないかもしれない。実際、慶介をここまで連れてこさせたのはそんな理屈からではなかった。いわば、衝動と呼ぶにふさわしいものだったのだ。彼は大学生になってから毎年、必ずこの花火大会を見に来ていたが、それはこの雰囲気を楽しむためでも、花火の儚さに目を奪われに来たわけでもなかった。
 高校三年生の夏休みの終わり、ちょうど花火が終わるときだった。そのときどうしても口に出せなかった言葉が、今でも心の奥でくすぶっているのだ。
 もちろん、その人物がまたこの花火を見に来る保障などない。それでも、慶介は足を運んだ。あの日のつかの間の夢の続きが見れる気がしたからかもしれない。今年は、今年こそは、と、彼の姿を探しながら花火を見て、結局会えなかったことに切なさと安心を感じて、夏がまためぐる。そんなことをずっと繰り返していた。
 今年で終わりにしよう、と慶介は決心していた。今年も会えなかったら、若気の至りとして、綺麗な思い出としてあの日の出来事にそっと蓋をしよう。
 花火が始まった。彼は――あの日、隣で同じ空を見上げていた彼は――、いない。



 受験勉強の息抜きにと、何となく気が進まなかった慶介を花火大会へ誘ったのは、当時同じクラスだったある男だった。蔵原幸樹は、クラスでは秀才として名が通っていた背の高い男だ。実質、慶介とはそれほど交流があるわけではなかったが、慶介のほうは彼のことを常に意識していた。いつも友達とふざけているような男なのにもかかわらず、どんなに慶介が必死に勉強しても、彼にだけは敵わなかったのだ。そして、突然の花火の誘いだった。
「俺のダチみんな彼女持ちでさ、な、いいだろ?」
 彼の誘い文句は巧みだった。祭りに一緒に遊びに行くような仲の友達のいなかった慶介は、うまい断り方も知らず、結局はOKを彼に与えていた。
「去年は来なかったんだ」
 当日、夕方七時過ぎに落ち合った慶介と幸樹は、買ったおにぎりをかじりながら河川敷に向かっていた。華やかな浴衣姿の女の子が行き交うなか、道路は人で熱気と活気に満ち溢れていた。
「去年は家にいたよ。俺の家のベランダからも見えるんだ、花火」
「いいね、家で見れて。近いの?」
「まあ。ガッコからは遠いけどね」
「へえ。俺んちは隣の家が邪魔で見れねーんだよな」
 幸樹の会話の運び方がうまいのか、二人で歩くことに不思議と苦は感じなかった。むしろ、こんなに人とスムーズに会話したことがあったかというほどだ。
「あ、あそこのタコヤキ屋。ソースとマヨネーズセルフだからさ、いっぱいかけれんだぜ」
 幸樹はよく笑う男だ。些細なことでも、慶介に比べれば豊かな表情で感情を表現する。クラスメイトに好かれる理由が分かった気がした。しかし、そういえばこの男は特定のグループを組んではいなかったな、と考える。幸樹はその間にタコヤキを買ってきて、慶介に向かって自慢げに突き出した。
「わ、カロリーやばそう」
 思わず本音を漏らしてしまった。ソースが見えなくなるほどのマヨネーズがてかてか光っている。
「ほら、食えよ」
 パックごと差し出されたがとりあえず一つだけ口に放り込む。タコヤキの味というよりソースとマヨネーズの味が口いっぱいに広がった。
「あれ、一個でいいのか?」
 慶介が苦笑しながらもういいのジェスチャーをすると、幸樹は特に気にする様子もなく、そうかと呟いて自分もをそれを食べ始めたのだった。
 夜露でぬれていない芝生を探して座り込む。上を見上げると、夜空が紺と黒のグラデーションに染まっていた。何もさえぎるものが無いここの空は、まるで手が届くような錯覚を起こさせる。いつも見ていた空とは違い、慶介の目には全てが特別に見えた。
「始まった」
 呟いたのは幸樹だった。ひゅるる、と花火が登って行く音、そして破裂。大輪の花火が、空をオレンジ色に染めた。
「すごい……」
 毎年家でこの花火は見ていたはずだった。しかし、今年はいつもとは違った。花火を見るためだけに集まったこの多くの人物の中に、自分もいる。隣に幸樹がいたからかもしれない。屋台と灯篭の光が視界の端に見えていたからかもしれない。ともかく形容できない高揚感が、慶介を包み込んでいた。
「すげーよな」
 赤や緑、青の花火、ススキのように尾をひく花火、連発してあがる花火。それらはリアルな音と光を伴って、視界を明るく照らす。慶介も幸樹も、それ以上のことは何も言えなかった。
 いつのまにか花火はクライマックスを迎えていた。一発目に打ちあがった大輪の花火がまた空に散る。そのとき、その場の静寂を幸樹の声が割いた。
「俺さ、」
 慶介は一拍遅れて、幸樹のほうを見た。幸樹は花火を見ていた。慶介も花火に目を戻す。
「お前が好きなんだ」
「……」
 言葉が出なかった。幸樹のほうをむくことはできなかったのに、見ているはずの花火の音がやけに遠く響いて、
「ごめん」
 幸樹のその落ち着いた声が、はっきりと慶介の耳に残った。
 いつのまにか花火は終わっていた――慶介一人を、乾いた芝生に残したままで。



 慶介は、広い空に色とりどりの花火が消えていく様を、ぼんやりと眺めていた。あのあと、幸樹とは一言も会話を交わさなかった。そのころの自分が何を考えていたかは覚えていないが、それは拒否の感情からではなかった。言うなれば、戸惑いだったのかもしれない。あんなに素直に好意を表現されたことは無かった。あのときの幸樹はどんな顔をしていたのだろう。見ていれば、何か変わっただろうか。返事をしていれば、何か変わっただろうか。
「最後か……」
 大きな花火が次々と上がっては消えていく。慶介は、幸樹の顔を思い浮かべた。
 ――俺は、嫌じゃなかった。少なくとも、あの時間、俺は幸せだったんだ。
 最後の花火が華々しく散ると、一瞬の静寂を保っていた会場がざわめき始める。
 今度は取り残されまいと、慶介は立ち上がった。振り向いて、息を呑む。
「……」
 慶介は息をゆっくり吐き出した。この思いを、心から喉を伝って、声に。
「俺は、――」
 花火の余韻が、二人の時ををあの頃に戻していた。

END

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