307号室の招かれざる客


 シャワーは思い切り熱いのが好きだ。肌がちりちり焼けそうなぎりぎりの温度に設定して、豪快に頭から浴びるのだ。すぐに骨の芯まで熱が伝わって、浴室から出るときには決まって心地よい気だるさに包まれている。ついでに言うと、その後ベッドに飛び込むのも至福の瞬間だ。夏でも冬でも、それは変わらない。
「……ふぅ」
 息をついて目を開けると、妹尾真広(せのおまひろ)は、いつものように蛇口をキュ、と強くひねった。シャワーのノズルから途切れた雫がぽたぽたと垂れ落ちる。
 安い1Kアパートには、脱衣所なんていう高尚なものはない。浴室から出た途端ひたりと触れた冷たい空気にしばし熱い体を預けながらも、用意していたバスタオルで全身を拭いた。下着と通気性の悪いジャージのズボンを履くと、先ほどのタオルを頭にかけてわしわしと擦った。上着をしばらく着ないのも、熱の余韻を味わうための自分ルールだ。
 テレビの横のデジタル時計を見ると、八時を回ったところだった。
「まだ……早いか」
 今日は、高校生の弟の和樹が尋ねてくる予定になっている。明日の大学受験のために泊まりに来るのだそうだ。話では十時頃になると言っていた。真広は安心してベッドへ向かう。しかし、今にもダイヴしようとしたとき、ガンガンと鉄製のアパートのドアを激しく叩く音が聞こえて、微かなまどろみの中にいた意識はすっかり呼び覚まされてしまっていた。
 おそらく和樹だろう。何度もドアを叩く乱暴な音に近所迷惑を察知して、真広は慌てて玄関へ戻り、ドアを開いた。外の空気が火照った頬をツンと刺激する。
「早かった、な……あれ」
 まさに、あれ、というべき状況だった。そのドアの向こうにいるべき人物は、真広より若干背丈の低いやせっぽちの受験生のはずだ。それなのに、なんだ。そこにいたのは、真広の思考を数秒ストップさせるのに十分な予想外の男だった。自分よりがっしりとした体躯、そして、僅かに見上げなければならない背丈の差。
「誰だ、お前」
 じろりと睨まれ、半歩後ずさる。いやいや、あんたこそ誰ですか。真広はスランプに陥りそうな思考回路を何とか繋ぎとめた。
「あの、どちら様でしょう」
「お前、一人か」
 会話が成立していない。男はさらに目つきを鋭くしたかと思うと、ずいと一歩前に出て玄関に入ると、素早くドアを閉めた。
「え、ちょ、あの」
 困惑する真広を押しのけて、強引に靴を脱ぐと、一歩、また一歩と進んでくる。そこで真広は気がついた。
 ――強烈な酒の匂い。
「アイツ、今度はこんな若い奴を……くそ!」
 男は真広をねめつけながら大きく舌打ちした。部屋の明かりで男の顔がはっきりと照らされる。体型とバランスの取れた男らしい顔つきだが、その頬にははっきりとした赤みが差している。相当酔っているのだろう。よく見ると足元がふらついている。
「だからあんた、誰!」
 ずいずいと進んでくる男に真広はすっかり困惑してそう叫んだ。すると、男の進行がぴたりと止まる。
「俺は浩二。アイツから聞いてないか?」
 男は自嘲気味に笑いながら突きつけるようにそう尋ねた。
「あいつって、誰だよ」
 ようやく一息ついて逆に質問するが、浩二と名乗った男は途端に表情を一変させた。
「とぼけんじゃねぇよ!」
 その腕が大きく振れたので、真広は反射的に目を閉じた。殴られると思ったのだ。
「んっ……!」
 しかし、振ってきたのは固い拳ではなく、柔らかくかさついた唇だった。思わず目を見開くと、浩二の顔があまりに近くにあった。押し返そうとした手に力が入らない。浩二の舌が真広の口腔に侵入して、好き勝手に蹂躙し始めたからだ。
「……ん……ぅ」
 頭がぼんやりとしてきた。浩二の唾液は確かに酒の匂いがしたが、しばらく口付けているうちにお互いのそれが混ざり合って分からなくなる。頭がぼんやりとしてきて、思考が鈍る。鼻で息をしようとすると、小さく声が漏れてしまう。
「……っは、」
 ようやくキスから解放されたと思ったら、ぐるんと視界が揺れた。天井を遮るようにして浩二が現れる。自分はベッドに押し倒されたのだ――そう自覚するまでには、少々時間が必要だった。
「お前、すげえ下手だな」
 何が――とは言われなくても分かっている。カッとして、馬鹿にするように笑う浩二を睨むと、思い出したように抵抗を試みる。しかし、押しのけようとした両腕はいとも簡単に掴まれ、そのままベッドに強く押し付けられてしまった。焦燥が脳髄へ駆け上って、冷静な判断が出来なくなる。
「はな、せよっ!」
「あーうるせえ、黙れよ」
「っ……」
 出掛かった制止の言葉を喉に詰まらせたのは、浩二の片手が真広の下半身に伸びたからだ。柔軟な素材のジャージの上から、真広のそれを強く握りこまれる。声が出ない。
「なあ、見せ付けてやろうぜ、アイツによ」
 誰なんだとも、聞けなかった。「アイツ」のことを真広は知らない。まさか和樹のことではないだろう。
「……何、する気」
 声が掠れた。唾を飲み込もうとしたが、口の中はちっとも湿っていない。浩二は鷹揚な笑みを浮かべ、ジャージを真広の下着ごと、乱暴に足首まで下ろした。何か言う暇も無い。
「何だよ、やめろって言ってるわりに、コーフンしてんじゃねえか」
 浩二は既に半勃ちになった真広のものを見て、嘲るように笑う。さっきのキスのせいだ――と、真広は思った。あんなに濃厚なのは、もう何年もしていない。おとなしく眠っていた獣をいきなり起こされた気分だ。体中が欲望をむき出しにして唸っている。
「うるさい、はなせ、でてけ……!」
 羞恥を押し込め、自分自身をも落ち着けるように静かに要求する。浩二はフンと口の端を吊り上げて笑っただけで、その双眸はぎらぎらと輝いている。やめる気は毛頭ないといった風な様子だ。
「そんなに吼えんなよ。お互い楽しもうぜ」
「あっ……」
 浩二が首筋に吸い付いてくる。途端、背筋から全身にかけて、ぞくぞくとした快感が駆け抜けた。それは足首で滞留して、もどかしさと共に下半身に伝わる。
「……、は……っ」
 浩二の唇がゆっくりと乳首の突起まで降りてくる。真広の腕を掴んでいない方の手は下のほうへ下ろされ、むき出しになった真広のものをやんわりと扱き始める。
「……う、ぁ……」
 それは既に硬い熱を持ち始めていた。浩二の指使いは巧みだった。おまけに、普段は何も感じることのない胸の突起を執拗に舐められて、快感を覚えている。真広は己の体の正直さに嫌気が差して、それでもやめてほしいと言えなくなっている自分自身に情けなくなった。こんな、誰かも分からないような変態野郎に――。
「出すなら言えよ」
 浩二は真広の突起を口に含んだまま、上目遣いでそう言った。声音は、情事の色を含んでいる。この男も、自分と同じように興奮しているのだろうか。閉じた目の上に片腕を被せ、視界を暗転させて快感を追うことだけに集中する。濡れた水音がいやらしい音を立てている。呼吸が浅くなる。鼓動の早さが聞こえていなければいい。
「……あ、も、でる……っ」
 小さな声は、狭い部屋に意外と大きく響いた。羞恥を感じる隙もなく、真広は浩二の手に追い立てられ、あっけなく果てた。
「……っは、あ……」
 どくどくと心臓の音が響く。絶頂の後の気だるさがやってきた。腰が重い。目を覆っていた腕を外すと、一気に入り込んできた光に目を細めた。
「濃いな」
 その声にはっとして浩二を見ると、彼は手のひらの上で真広の出したものを無表情に観察していた。
「なにしてんだよ!」
 咄嗟に羞恥心が沸いてきて浩二に向かって叫ぶ。浩二は怒っているとも笑っているともつかない表情で、
「おい、うつ伏せになれ」
 と、命令した。
「は、なんで」
 当然の反応だ……そのはずだった。しかし浩二はその反応が気に食わなかったのか、小さく舌打ちすると、真広の腰の辺りを掴んでぐい、と無理やり反転させた。顔が見えなくなり、恐怖が増す。真広が首を後ろへ捻ろうとしたとき、浩二の指が真広の後孔を撫でた。ぬるりと濡れた感覚がして、真広は恐怖に全身を引きつらせた。
「な、なに……」
「なんだ、ここは初めてかよ」
 浩二が笑ったのが分かる。確認したくも無いが、さっき自分が出した精液を塗りたくられているのだろう。その指がずるりと中へ進入してきて、真広は思わずシーツをきつく握った。この状態で暴れられるほど、体力も気力も残っていない。
「まあ、相手がタダシもんな」
 一瞬その呟きを流しかけて――それがイコール「アイツ」なのだということに気づく。どこかで聞いたことのある名前だが、すぐには思い当たる節が無い。それよりも目の前の男から与えられる刺激についていくのが精一杯で、頭を回転させる隙も無かった。
「く、ぅ……」
 最初は浅い場所にいた指も、じわじわと動き回る範囲を広げていく。今までの粗暴な態度や動作とは違って、執拗で丁寧な動きだ。ぬるぬると出し入れされるうちに、快感を覚えるポイントが分かってくる。声を上げないように歯を食いしばるのに必死だった。
「やっぱ、顔見せろ」
 浩二はそう言って再び真広を仰向けにする。もう、この男のなすがままだった。これで終わりかと淡い期待を抱いたが、浩二の指は真広の後ろへ入ったままだ。そこで何が行われているのか、今度は僅かだが確認できる。あまりに恥ずかしくて、真広は自由になった腕で顔を覆い隠した。
「おい、手、どけろよ」
 指はしっかりと動かしながら、浩二は真広の腕を顔から引き剥がした。声には怒気を含んでいたが、顔を見ると、怒っているというよりは真剣と言ったほうが正しいような表情だった。眼差しが熱い。
「……あぁっ」
 びりびりと衝撃が走って、真広は思わず背中を仰け反らせた。油断していたからか、声を抑えられない。羞恥で目をきつく瞑って首だけ横に向けると、浩二の指の動きが止まった。そのまま、引き抜かれる。
「……っ、う……」
 その刺激に体を震わせる。恐る恐る目を開けると、浩二が豪快に服を脱ぎ始めていた。
「お前、こっちのほうが素質あるんじゃねーの」
 意地の悪い笑みを浮かべる。これから、何をする気なのだろう。思考はぼんやりと鈍ったままだ。
「タダシにゃもったいねえな」
 浩二は興奮気味に囁いて、自分のジーンズのベルトに手を掛けた。相変わらず肝心のタダシ君が、誰なのかわからないが、もはや説得する気も失せてしまっていた。
「アイツと同じ大学なんだろ」
 しかし真広はその言葉に引っかかりを感じて、ぼんやりしていた思考が一気に鮮明になる。まさかと思いつつも、伺うように浩二の目を見返した。
「タダシ……戸川、正?」
 その名前はするりと口からこぼれてきた。浩二は、今更何をと言うように眉根を寄せている。
「……あ」
 真広はようやくことの顛末を悟って、声を上げた。
 浩二という、この見ず知らずの男と自分は本当に初対面だ。
 そして、恐らく彼と只ならぬ関係にある「タダシ」――戸川正は、真広の隣人……308号室の、住人だ。
 気づいたはいいものの、このことをどう伝えればいいのだろう。真広が口をぱくぱくと開閉しているうちに、浩二は自分の服を全て取り去っていた。両足をぐいと持ち上げられる。浩二のものがちらりと見えて、焦りはさらに広がった。冗談じゃない、こんなもの入るわけが無い。
「あ、ちょっと、待って……こ、浩二!」
 名前を呼ぶと、動きを一時停止させた浩二に睨まれる。
「隣の、部屋!」
「あ?」
「戸川さんは、隣の部屋、だって!」
「……」
 浩二は真広の言葉をじっくり反芻しているようだった。表情も体勢も変えずに、部屋の中をじろじろと眺める。やがて表情に明らかな渋みが加わった。
「あー……」
 少しの間考えるような仕草をした後、やめるのかと思ったら、浩二は自分の熱い塊を掴んで真広の後孔に押し付けてきた。
「っ!」
 腰が引けてしまうのを、浩二が押さえつける。この期に及んで、まだ続けようというのか。
「なんか、もうどうでも良くなってきた」
「え……?」
 浩二が低い声で呟いた言葉は聞き捨てならないものだ。しかし熱を帯びた瞳で射すくめられると、その熱さが自分にまで伝わってくるような気がして、言葉が出てこない。
「他のことはどうでもいいから、今はお前とやりたい」
 言っていることは滅茶苦茶なのに、真剣に堂々と言われると、それが正しいことのように思えてしまう。
「そん、な……んんっ」
 反論を許さないかのように素早く浩二は唇を重ねてきた。熱い舌がねっとりと入り込んでくる。このキスはだめだ。余計な考えを遮断される。うっとりと瞼が落ちてきたころ、浩二が入り口に宛がっていたものをぐいと押し付けてきた。
「……っ、ふっ……」
 入ってくる質量に息を詰める。慣らされているといっても、指とではその大きさは比べ物にならない。唇を離した浩二の顔を縋るように見つめる。浩二はその唇を耳元へ寄せると、囁くように声を響かせた。
「力抜け。全部俺に任せろ」
 強張っていた体から、本当に力が抜ける。痛みにぎゅっと目を瞑ると、宥めるように優しいキスが降ってきた。もう何も考えられない。
「……動かすぞ」
「う……ぁ、あ」
 ゆっくりと浩二が体を揺らし始める。真広はシーツを掴むと、その律動に合わせて浅い呼吸を繰り返した。だんだんと痛みが麻痺してきて、その代わりに腿の裏へもどかしい感覚が走る。切なさにも似た甘い痺れが背筋を震わせる。
「……ん、あ、あ……っ」
「……やべ、イイよ、おまえ」
 浩二の興奮した声と共に、腰を打ち付けるスピードが速くなる。
「名前は」
「な、に」
「おまえの、名前」
 深い挿入を繰り返すなかで、浩二は荒く息を吐きながらそう聞いた。
「ま、真広っ……」
 喘ぐように口にすると、浩二の顔がほんの少し綻ぶ。
「可愛い名前、だ……真広」
「う……ぁ、こう、じっ」
 律動が更に激しくなり、浩二が低く何かを呟いた。そしてひときわ奥まで突き上げると、真広に覆いかぶさるように唇を重ねる。中がどくどくと脈打って、熱いものが広がった。
「……ん、」
 浩二の口付けは、ねっとりと深いがどこか優しい。舌を絡めているうちに思考が鈍麻していくのに、それが心地よいのだ。全て忘れて、この男に全てを委ねてしまいたいという欲望に駆られる。
「真広」
「……なに」
「すっげえ良かった」
 浩二は真広の肩口へ顔を埋めるようにして呼吸を繰り返している。顔を見せてくれればいいのにと、真広は頭の片隅で思った。
「俺も……」
 その言葉に嘘は無い。浩二は真広の体内から自身を引き抜きながら、「だろうよ」と、やけに自信に満ちた表情を浮かべた。その自信はどこから来るのだろう……経験か。
「あちぃ」
 浩二はベッドに腰掛けるように向きを変えた。こめかみの辺りに汗が浮かんでいる。真広も、気を緩めると後ろから浩二のものが出てきそうな気がして、ゆっくりと体勢を変えた。
「シャワー、浴びる?」
「ああ――」
 浩二もさっぱりしたいのだろう。一も二も無く頷くと、立ち上がった。そして、自然な動作で真広に手を差し伸べてくる。
「ほら」
「え、なに?」
「シャワー、行くんだろ」
 エスコートしてやる、ということだろうか。真広が言われるがまま浩二の手を握ると、ぐ、と引っ張り上げられる。足がまだ引きつっているようで、力が上手く入らずにたたらを踏むと、浩二の腕に抱きすくめられた。そのまま支えになって歩いてくれる。
「あ、ありがと」
 浴室を開けると、そこにはまだ先ほどのシャワーの余韻が残っていた。湯気は消えていたが、小さい鏡は曇っていて使い物になりそうにない。
「狭いな」
 そう言って後ろから浩二が入ってくる。何か変だと思ったときにはもう遅かった。どうやらエスコートは、シャワー終了まで続くらしい。
 真広は追い返すことも諦めて、シャワーの蛇口を捻った。せめてもの抵抗心で、いつもの熱い温度に調節する。たちまち狭い浴室には白い湯気が立ち込めた。浩二が背後で一言、
「熱くねえか」
 と零したことにいたく満足する。ここからでは見えないが、恐らく渋面を作っていることだろう。真広は本人に気づかれないように想像を膨らませると、それがおかしくて少し笑った。






「あー、皮膚がいてえ」
 シャワーを浴びた後、浩二が赤くなった肌をタオルでごしごし擦りながら悪態をつく。真広も放り出されていた下着とジャージを身に付けると、その様子を横目で見る。
「敏感肌なんじゃないのか」
「お前がおかしいんだ」
 眉間に皺を寄せながら口を尖らせる様はやけに幼く見えて、自分より高いその頭を撫でてやりたいという衝動に駆られる。真広は胸の疼きを誤魔化すように、ぐしゃぐしゃに皺のよったシーツの上にダイヴした。
「あー……気持ちいい」
 念願の心地よさをしばし味わっていると、ぎし、とスプリングが沈んだ。浩二がベッドに腰を下ろしたらしい。
「……謝ったほうが、いいか?」
 そして、唐突にそう訊ねてきた。真広は布団を束の間の枕代わりにして顔を埋めたまま、苦笑する。
「何を?」
「全体的に」
 浩二は反省しているのか後悔しているのか、殊勝な態度だ。どうやら酒は大分抜けたらしい。真広は黙ってかぶりを振った。
「……いいよ。謝るくらいなら、やるなって話だ」
「そうか」
 安心したのか、浩二がふうと息をつく。
「真広」
「ん」
「また来る」
 断定形なところが、この男らしい。真広はごろりと寝返りを打って、浩二のほうを向いた。
「酔っ払いは門前払いだからな」
 浩二はばつの悪そうな顔で真広の頭をぽんと叩く。
「……それは、悪かったよ」
 叩かれたことで髪の先の水が跳ねるのを見て、そういえば浩二は隣人のタダシ君と付き合っていたのではないかと思い出す。
「戸川さん、いいの?」
「あ? ああ、関係ない」
 浩二が天井を仰ぎながら興味なさ気に言うものだから、真広のほうが逆に気を遣ってしまう。
「関係ないって……。お前と、付き合ってたんだろ?」
「付き合う?」
「違うのか?」
 質問を疑問系で返されて、拍子抜けする。浩二はまだ濡れている髪を卸し立ての白いタオルでがしがしと拭きながら、フンと鼻で笑った。
「なんか勘違いしてるみたいだから言っとくけど」
「お前も十分勘違いしてたけどな」
 すかさず入れた真広の横槍を聞き流して、浩二は続ける。
「アイツ、俺の弟だから」
「は? ……あ、え、それって、近親ナントカって……」
「バカか、そうじゃねぇだろ」
 ばしりと頭を叩かれて、真広は理不尽な仕打ちに顔を顰めた。ようやく起き上がって、浩二の隣に腰を沈める。
「……え、どういうこと」
「アイツとは何もねえよ」
 浩二は早口でそう告げると、真広の肩に手を回して引き寄せた。同じボディソープの匂いがして、どきりと心臓が跳ねる。
「……じゃあ、なんであんなに飲んでたの」
「今朝、アイツと喧嘩になってな、ちょっと荒れてたんだ」
 ぶっきらぼうに言う。背中に回った手は離す気は無いらしく、しっかりと力の篭ったままだ。
「お前は、本当にタダシとは何もないんだな?」
 逆に、そんなことを訊いてくる。真広は困ったように笑いながら否定した。
「無いって。挨拶したくらい」
「なら、いい」
 沈黙が流れる。真広は浩二の肩越しに、壁際のデジタル時計にぼんやりと目をやった。どうも、落ち着かない。互いに服を着ているのに、最初に押し倒されたときの何倍も恥ずかしいのはどうしてだろう。
 浩二の首が眼前にあって、ふと唇を寄せてみる。ほんの悪戯心だ。浩二は僅かに肩を震わせて、真広を見つめた。やがて触れるだけのキスをすると、お互いに目を見合わせる。そして、口付けをより深いものへと変えようとした――その時、だった。
 やけに間延びした呼び鈴が部屋中に響いて、慌てた二人の額が見事にぶつかった。
「ってえ!」
「和樹だ!」
 殆ど同時に叫んで、真広は適当なティーシャツを被ると、浩二にベッドを整えるよう指示する。焦って、テーブルに積んであったCDの山を崩してしまうが、気にしている暇は無かった。急いで狭い玄関へ行き、ドアを開けると、そこには予想通り、学生服を来た弟がデイパックを肩に掛けて立っていた。
「……久しぶり、よく来たな」
「なに、兄ちゃん、誰か来てんの?」
「うん、ちょっと友達が。まあ気にすんなよ」
 作り笑いで誤魔化すが、さすが我が弟、何かに勘付いてか訝しげな表情だ。
「ま、いいけど……。なんかこの部屋、蒸し暑くない?」
「あ、ああ、今風呂入った所だから、多分それで」
 部屋の奥へ和樹を案内すると、浩二はベッドメイキングも綺麗に済ませていて、崩れたCDの山を積み上げるのに取り掛かっているところだった。
「あ、えっと、こいつ俺の弟の和樹な」
「あ、ども」
 和樹がぺこりと頭を下げる。見ると、浩二は気持ち悪いほど人のいい笑みを浮かべている。
「俺は真広の友達の浩二。よろしくな」
 爽やかに握手なんぞ求めたりしている浩二に本当に気持ち悪さを覚えて、真広は綺麗になったベッドサイドに腰掛けた。
「あ、そういえば、兄ちゃん」
「メシならないぞ」
「違うよ。今さ、そこでホモとすれ違ったー」
 さっと、血の気が引く。無論、自分たちのことではないだろう。しかし、どこか後ろめたい。和樹の顔をまともに見れなくて浩二に目を向けると、狼狽とは違う怒気がその表情に込められていた。そうだ、浩二の弟のことかもしれないのだ。隣人にそんな性癖があったとは甚だ驚きだが――今では笑うことも出来やしない。
「真広、また来る」
「へ?」
「……絶対また来るから、逃げんなよ」
 浩二は無駄に低く艶めいた声でそう宣言すると、さっと立ち上がって玄関へ向かって走り出した。積み上げ直した机の上のCDが再び崩れるのと、鉄製のドアが重い音を立てて閉まったのは、ほぼ同時のことだった。
「あ……」
 取り残された真広は呆然とそれを見つめているだけだ。和樹がいよいよ不審の眼差しを向けてくる。
「……兄ちゃん、逃げてんの?」
「いや……あはは」
 真広は崩れたCDの山の前に行くと、三度目の正直とばかりに積み上げ始める。触れられたくないと悟ったのか、和樹もそれ以上聞き出そうとはしなかった。
 ――逃げんなよ、か……。
 逃げるつもりは無い。責任をとれという気も無いが、浩二を受け入れたのは他でもない、自分だ。真広はそう考えたところで彼とのキスを思い出してしまい、慌ててかき消すようにぶんぶんと首を振った。和樹のため息が横から聞こえた。開いた参考書を眺めながら、こちらに視線をよこしている。
「な、なんでもないから、気にせずに」
「……平積みになってるよ」
 机を見下ろすと、CDが敷き詰められたように並んでいる。真広は今度こそどっぷりとため息をつくと、浩二に心の中だけで、小さく悪態をついた。
 ――やっぱり責任、取ってもらうかな。

END


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