真冬の曇った空、薄暗い部屋に窓から入る雪明り。エアコンで暖まった部屋は、さらに熱を帯びていた。 「……あ、っ……ぅ……」 薄い肉付きの体同士がぶつかる生の音。それと僅かなねちねちとした水音が響くだけで、その部屋はひたすら静かだ。 「あ……ぁ……」 「あー、イイ、いいよ、綾野……はっ、やべ……」 綾野誠は、身にまとっているミニスカートを片手でぐっと握った。今、自分を犯している彼からは、自分はどう見えているのだろう。彼が求める"彼女"の姿は、その目に映っているのだろうか。ぼんやりした頭の中から悲しみを追いやって、裏返った声でしきりに喘いでみせる。誠自身は半勃ちのままだったが、この男はセックスの中で、ただの一度もこれに触れたことはない。それが、すべてだった。 「……っ、いく、ぜ……!」 「……あ、あっ!」 熱い精液が体内に注ぎ込まれていくのを感じて、いつもこの瞬間血の気が引く。この時間が終わってしまったら、誠は彼の――春日井優の彼女でいられなくなってしまうのだ。燃えるように熱かった体は急激にその熱を忘れて、優が満足して性器を取り出す、その瞬間に身震いする。 「あー……」 優は満足げにベッドに転がった。誠は素早く立ち上がると、よろめく体を壁に預けながら歩き出す。 「シャワー、借りる」 「おー」 優は生返事で応じた。こちらを向こうともしなかったが、誠にはそのほうが都合が良い。情事が終わって白けた空気の中、決して小さくはない男が女子高生の制服を着て隣にいる。ジョークにでもしなければ耐えられないような事実だ。優も、誠も傍から見たらさぞや滑稽だろう。 熱いシャワーを浴びて、後ろも洗い流す。自分のそこに指を突っ込んで中身を掻き出すなんてことはできないが、このときが一番みじめで、消えてなくなりたくなる瞬間だった。実際、涙を零したことは一度もないけれど。 いつものように、この部屋に来た時の格好に着替える。頭は濡れたままだが、じきに乾くだろう。誠は女物の下着と優の姉の物だという学生服をトートバッグに放り込んだ。汚れた女物の服を洗うのは、誠の役目だった。怠い体を引きずって優の寝るベッドに移動すると、転がったままの優に告げる。 「俺、帰るから」 「なあ綾野」 「……なに」 誠と呼ばれていたのは、まだ友達でいた時だった。今は、名字でしか自分を呼ばない。徹底的に誠とのセックスから「男」を消し去るためなのだろう。 優はようやく起き上がって誠を見た。その目が何かたくらむように細くなって、口元も歪む。 「あれ、やっぱり似合ってるよ」 「……あ、そう」 「もっと、ちゃんとやったほうがいいよ」 「は?」 「髪とか、メイクとか。そしたらもっと可愛くなるって」 顔色はあまりよくないのに、目だけが爛々と輝いている。その様子に恐怖すら感じる一方で、高校時代の彼を思い出して少し懐かしく思った。相反する感情に答えは出ない。 「…………俺は、」 「な、次はそうしろよ! もっと気持ちよくなるって」 優は誠の言葉を遮るように続けた。この有無を言わさぬ強引さは、最近になってよく出てくるようになった。自分の方が優位にあるという自覚がそうさせているのだろうか。 「な、好きなんだろ? 俺と付き合いたいんだろ?」 「……また、明日」 返事はせずに、誠は足早でその部屋を去った。日を増すごとに、優の要求がエスカレートしている。「お前が男だって意識すると萎える」という、たった一言ではじまった女装だった。それが、髪を伸ばせ、下着も女物をつけろ、香水をつけろ、ときて、今度はメイクだ。今にペニスを切り落とせとまで言われそうな気がして、誠は薄く笑った。 春日井優が好きだった。高校二年で同じクラスになって、そのころからずっと見ていた。優はいつも教室の隅の席で本を読んでいる静かな男で、周りからは根暗と言われて疎まれていたが、誠はその凛とした様子にあこがれさえ抱いていた。彼と同じ大学に進んだのは偶然だったが、そこで友人の座に滑り込むことができたのは誠の努力だった。偶然を装って話しかけ、食事を共にして、以前からの雰囲気の変わりように戸惑いつつも、やはり彼から目が離せなかった。それだけで一年が過ぎていった。 しかし二年の秋に、変化は訪れた。優が同じサークルの後輩から告白されたことを打ち明けたのだ。誠は動転した。もう何年も片思いを続けてきた男が、たった数時間の付き合いの女に取られてしまう。そして、言うつもりのなかった言葉が、つい口から零れ出た。 「その子じゃなくて、俺と、付き合ってよ」 驚いたように目を丸くしてから、優はいつもとは少し違う硬い表情をして、「いいよ」と言った。ざわりと胸が波立つ音がした。――その選択が正しかったのかは、今でもよくわからない。 とにかく、誠は優の恋人になった。おかしな形に歪んだ関係は、それを疑問に思う前に、体を重ねることによって遠くへ追いやってしまう。おそらく、最も醜くて、最も曖昧な関係だ。 「寒いな」 アパートの門を抜けると、冬の冷気が濡れた頭を冷やす。マフラーの端を見つめながら、誠は家路をたどった。その途中でふと立ち止まる。細い道を右折してずっと歩いていくと、いつしか住宅街を抜けてビルの立ち並ぶ通りに出た。さらに歩いていくと、繁華街に出る。夜のネオンが次々とあたりを照らし始めていた。時計を見ると、六時だった。いつの間に暗くなったのだろう。明かりに誘われるようにふらふらと歩いていく。都心から外れてはいるが、この辺りも立派な夜の街だった。まだ宵の口であるせいか、勧誘の人の姿はまばらだ。今日が水曜日だったせいもあるだろう。 脇道に逸れると、一気に華やいだ雰囲気は落ち着きのあるものに変わる。具体的にどこに行こうという気はなかった。明るい通りを歩けば少し気晴らしになるかと思ったのだ。しかし、昼間とは全く違うその通りにだんだんと不安になる。おとなしく帰ればよかったと後悔した。 「そこの兄ちゃん!」 すぐ後ろから声をかけられて、誠はびくりとして振り返った。手にしていたバッグが落ちて、中身が飛び出す。女物の学生服と、靴下、下着。焦って鞄に突っ込み、走り去ろうとして――大きな手に捕まった。一瞬優を思い出して、パニックになる。 「おい、暴れんな!」 「はなせ、はなせって!」 男の腕はびくともしなかった。それどころか、強引に後ろに引かれてたたらを踏む。 「落ち着け、な?」 その胸に抱え込まれて、逆に放心した。誠より少し背の高い男だった。優よりも目つきがやわらかで、男臭い。白いシャツにスラックスという格好は営業用を思わせて、誠はへなへなと男から離れた。警察というわけではなさそうだ。 「すみません、騒いじゃって」 「いや、それはいいけどよ……あんた」 「……なんですか」 警察に突き出されるだろうかと、他人事のように考えていたら、前髪の毛先を少し触られた。反射的に身を引いてしまう。 「うちで乾かしていきな。その頭じゃ、家帰る前に風邪ひく」 「いいです、もう乾いてますから」 「別に取って食おうってわけじゃねえよ。新手の商法でもないから、安心しな」 男が苦笑しながら茶化すように言ったその言葉に、こちらも少し子どもじみた反応をしてしまったと反省する。こちらが迷惑をかけてしまった手前、厚意を断る方が失礼になるような気がした。 「まだ準備中なんだけど」 そう言って、男はくるりと後ろを振り向いた。どうやら誠と男が揉めたのは「うち」のすぐ前だったらしい。石段を二段ほど登って、準備中のプレートがかかるノブを回すと、木製の洒落たドアが音を立てて開いた。 「いらっしゃいませぇ! ごめんなさい、まだ準備中……って、なんだ、みっちゃんか」 「……おまえ、その態度の変化どうにかしろよな」 間接照明のみの店内は暗かったが、お酒を出す店ならばそんなものだ。そういえば店名がどこにも書かれていなかったが、いったいここは何なのだろうか。居酒屋のようにも見えるが、落ち着いた店内には仕切りなどは一切見られない。壁側がソファ席になったテーブル席三つと、あとは長いカウンターだけだ。 「あれ、後ろの人誰?」 第一声で明るい声を上げた男が疑問符を浮かべて近づいてくる。シャツに蝶ネクタイ、ジャケットという恭しい格好をしているので店員だろう。髪が明るくて、表情も明るい。目が合ったので、誠は少し頭を下げた。 「店長奥にいる? こいつ風呂に入れてやってほしいんだけど」 「あの、風呂ならさっき、……」 何となく気まずくて言葉が続かなかった。男は気づいているのかいないのか、店の奥にその人物を呼びに行く。金髪にじっと見られていることに気づいて、どうにも居心地が悪かった。 「俺、佐伯。あんたは?」 不審者にしか見えないだろうに、佐伯は丁寧に自己紹介をした後、僅かに小首を傾げた。 「綾野、です」 とってつけたような丁寧語にも佐伯は気にしていない様子だった。もともと表情豊かな男なのだろう、人懐っこい笑顔を浮かべて、「アヤノって名前?」と聞いてきた。 「いや、名字。名前は誠」 「女みてーな名字なんだな」 悪気はないのだろう。脳内に再生された優の声を誠は無視した。作り笑いを浮かべる。すると、事務所なのだろうか、店の二階から怒号が聞こえてきた。 「だから、ノブオじゃなくてアキコって呼べっていってんでしょーが!!」 「こんな粗暴な女がいるか! まだうちのラッキーの方がましだ!」 「ひどい! 犬と一緒にするなんて!!」 「一緒なんかじゃねーよ! ラッキーはお前より可愛気があるって言ってんだ!!」 喧嘩の他に、物を投げているのか、尋常ではない音が聞こえてくる。心配になって佐伯を見ると、呆れたようにカウンター席に腰かけていた。 「また始まったよ。今に収まるから、待ってな」 彼の言うとおり、しばらくすると声も物音も収まって、代わりにどたどたと階段を下りてくる足音が聞こえてきた。 「ごめんねぇ、お聞き苦しいものを聞かせちゃったわぁ」 さっきの会話から行くと、この人物はノブオ? アキコ? ……どうやらそのあたり複雑なようだが、しかし、その髪、顔歩き方まで、どう見ても女性にしか見えない。唖然としていると、彼……彼女は、「緊張しちゃってる?」と聞いてきた。いや、緊張しているわけではない。ただ、訳が分からないだけで。 「私、昭子っていいます。この店のママって言えばわかりやすいかな」 放心状態の誠をみかねた佐伯が脇腹をつついてきたので、ようやく我に返る。 「あ……俺、綾野誠です。ここ、看板出てないみたいでしたけど」 「それが店名なのよ」 「え?」 昭子は蠱惑的に微笑むと、「看板のない店」と言った。 「"名無し"って巷では呼ばれているけど」 佐伯が補足する。そんな穴場のような店だったのか。 「あの、さっきの人は……」 そういった瞬間、誠はしまったと内心思った。昭子のこめかみに青筋が浮かぶのがよく分かる。 「あの腐れ外道は、一応うちの料理人。まあデリカシーのなさで言ったら火星級よ」 火星級がいったいどれほどのものなのかわからなかったが、誠は曖昧に頷いておいた。言い争い直後で気が立っているのかもしれない。 「お風呂は上にあるから、使ってらっしゃい。具合が悪いようだったら、休んで行ってもいいし」 「……俺、今どんな顔してますか」 苦笑すると、昭子は少し考えて、 「失恋したような顔ね」 と言った。苦笑が引きつって乾いた笑いがこぼれる。 「当たらずとも遠からず、ってかんじです」 恋の成就を夢に見て、醒めた瞬間現実に突き落とされる。それを失恋と呼ぶのならば、そうなのだろう。誠は笑顔を引っ込めて、今昭子が降りてきた階段を上った。これは鉄製のしっかりとしたつくりで、手すりの柵には蔓が巻き付いている。掃除も行き届いているのか、趣があってインテリアの一部になっていた。 「来たか」 二階には部屋が二つあって、その一つの隙間からさっきの男が顔を出していた。手招きされて、入った瞬間固まってしまう。 「悪いな、汚くて」 汚いというか、明らかに先ほどの乱闘のせいで汚くなってしまったという感じだ。割れた花瓶や飛び散った筆記用具、くたくたになった枕に、破れたシーツ、おまけにダーツの矢が壁に刺さっている! 当の男は、手のもげたクマの人形を縫っているところだった。料理人というくらいだ、手先も器用なのだろう。慣れた手つきに感心して見ていると、「名前は?」と聞いてきた。 「綾野誠です」 三度目の自己紹介だった。 「アヤノ、ね。……あれ、なんかどっかで聞いたような」 「はあ」 「仕事は?」 「まだ大学生なんで」 「はあ、なるほどね。俺は三里浩二。ここの料理人やってる。少数精鋭でよ、もう一人ボーイがいるんだけど今日は休みだ」 「あの、三里さん」 「あー、みっちゃんでいいって、堅苦しいから」 「じゃあ浩二さん」 「んー……ま、いいか」 みっちゃんなんて、絶対呼びたくない。誠の提案を浩二は承諾して、誠に「お前はなんて呼ばれたい?」と聞いてきた。もう会うこともない男のはずなのに、どうしてそんなことを聞いてくるのだろう。 「……名字では呼ばれたくないです」 真面目に答えてしまう自分にも腹が立つ。しかしその理由を浩二は聞いてはこなかった。それなりに察しがいいのか、単に気にならなかっただけか。 「よし、誠、そこらへんにタオルあるから、まあ適当に入ってこいよ」 「ありがとうございます」 シャワーなら既に浴びてきた。だが、外気に当ったせいで体がすっかり冷えてしまっているのも事実だった。誠は壁際に積んであるタオルを一枚借りると、二度目のシャワーに向かった。 ほどよいだるさと共に浴室から出ると、部屋には浩二の姿はなかった。廊下に出ると、微かに階下からジャズの音楽が流れている。なるほど、開店の時間になったのだ。出ていくかどうか迷ったが、親切に部屋のコンセントにドライヤーがセットしてあるのに気づいて、頭を乾かしてから階段をそろりそろりと降りる。 「あら、上がったのね。折角だから何か食べていきなさい。サービスするから」 昭子は赤い唇を人差し指で強調すると、奥の厨房に何か指示した。客はソファー席に二人いて、どちらも40代半ばあたりの中年だった。佐伯は彼らにべったりとくっついたまま甘えた調子で何か言っている。誠はそちらが気になったのもあり、カウンターに腰を下ろすのをためらっていた。 「あの、あまり気を使っていただかなくても大丈夫ですから」 「あら、ご飯だけじゃないわよ? もちろん、飲んでもらうわ!」 「え……」 昭子は楽しんでいるようだった。誠はあまり酒が強い方ではないのだが、こういう場合は「飲まないほうが失礼」というものだろう。一品目の酢豚を運んできた浩二がにやりと笑う。 「つぶれないようにな」 恨めしそうに見ると、声を落として、 「荷物は俺が預かってるから、帰るとき言って」 と、囁いた。誠ははっとして立ち上がりかけて、よろよろとまた椅子に座り込む。浩二はバッグの中身を見ているのだ。「俺が預かっている」と強調したのは配慮の賜物だろう。女装癖のある変態だと思われただろうか。考えて、いや、と否定した。昭子ももとは男性だし、そういうことに偏見はないのかもしれない。それにしても、少しばかり引っかかる。 「あの、昭子さん」 厨房へと消えていく浩二の背中を追いながら、誠はそう切り出した。昭子はサワーの注がれたジョッキを誠の前に置くと、かわいらしい笑顔を浮かべる。 「もしかして、気になる?」 「えっ?」 誠がぱっと顔を向けると、昭子は後ろのソファー席を指差した。そこでは、佐伯が男相手にべたべたと触れ合っている。一瞬浩二を見ていたことを言われたのかと思って取り乱してしまったが、どうやら違うらしい。思わずほっとした。 「変な店につかまったと思ってるでしょ」 「いや、えと……」 「べつに、やらしい店じゃないのよ」 昭子はからからと笑った。そういう意味じゃないと慌てて否定するが、昭子はまだ笑っている。 「サエは、もともと男の人が好きなの。ひどい男に引っかかってぼろぼろだったあの子を拾ってきたのが浩二だったのよねえ」 「それで、そのまま雇ってるんですか」 「あれでいい子なのよ、とっても」 昭子は楽しげに笑う佐伯を見ていたが、誠はそんな昭子を見ていた。とても大事にしているのだろう。家族を慈しむような、そんな目だった。うらやましいと、無意識に思ってしまう。 「あなたも、そんなとこ?」 誠は曖昧に笑った。ひどい男に引っかかっていると、傍からはそう見えるのだろうか。少なくとも、まだ自分はぼろぼろではないし、拾ってもらったわけでもない。もうこの人たちに会うことも、この店に来ることもないのだろう。 それならば、と、少しばかり欲が出た。 「昭子さん、お願いがあるんです」 誠は昭子の顔をまじまじと見た。元がいいのもあるのだろうが、整った綺麗な眉、パッチリ二重の大きな瞳、長い睫、つやつやの唇。可愛いかんざしのついた綺麗な髪。すべてが調和して、不思議な魅力を作り出している。こんな風に自分も変わることができたら、優は満足するのだろうか。満足してしまったら、どうなるのだろうか――。 「……俺を、女の子みたいに、かわいく、してくれませんか」 声は少し小さくなった。昭子はさすがに驚いていたが、返事はあっさりとしていた。グロスでつやつやなその唇を釣り上げて、 「――いいわよ」 微笑んだ。 |