冬のバス停 1


 セーターの上からブレザーを着て、紺色のマフラーを適当に巻きつけて、スニーカーをの後ろを履きつぶして、玄関を飛び出す。履き慣れたスニーカーは、降り積もった新雪の上に新たな足跡をどんどん増やしていく。
 ほとんど、いつもの朝の光景と変わりはない。ただ少し違うのは、いつもよりその時間が五分ほど遅かったことだけだ。
 夏木優也は、通学するために乗り込むバス停までの距離を、全力で走っていた。進学校である赤船高校の三年生は、一月の下旬に差し掛かった今、ほとんどの生徒が二次対策に励んでいる。優也もその一人だ。ほぼ希望制なので出席など細かいところまでは気にしないのだが、遅れるのは何となく嫌だった。遅れるくらいなら全部休んでしまったほうがましだ――そう思う割には、一度も休んだことは無いのだが。
 かじかんだ手で鞄の取っ手を握り直すと、さらに走るスピードをあげる。細い道路を抜けて右折すると、木や塀がなくなり、一気に開けたそこにひとつの古いバス停が見えた。看板にぼやけた字で『雪小路』と書かれている。
「あ……」
 優也はふと足を止めた。バス停が見えて安心したからではない。もちろん、忘れ物に気づいたわけでもない。
 それは、いつも誰もいないこの時間帯の小さなバス停に、先客がいたからに他ならなかった。
 バス停のすぐそばに佇む男はダークブラウンのコートを着ていて、周りの白い景色と対照的に目立っていた。走ったことと思わぬ緊張で、心臓が強く脈を打っているのがわかる。優也は、雪を踏むざくざくという音すら大きく響いているような気がして、ことさら慎重に歩き出した。横に並んでも、男はちらりともこちらを見ない。少し安心して視線を下げると、コートの下から覗く男のズボンが目に入って首をかしげた。
 緑が基調になっているチェックの柄で、どこかの制服のようにも見える。よく見ると、その手に持っているバッグも学生が主に使っているデザインだ。
 ともかく、珍しい。優也は三年間、このバスを利用してきたが、このバス停で誰かと一緒に待ったことなど一度も無いのだ。程なくしてバスが来ると、男はうっすらと肩に積もった雪を払い落としてバスに乗り込んだ。頭の上の雪は払わないのかと少し気になったが、優也も黙って後に続く。
 いつもの席に座って窓の外を眺めると、いつもと同じ風景がいつもと同じ速度で流れていた。
 ほっとしつつも、僅かな落胆を感じる。昨日と同じだ、何も変わらない。ふたつ、みっつとバス停を通り過ぎる。その間に少し学生の姿も増えて、それらは優也を含め、『赤船高校前』という看板の前に、一気に吐き出された。優也はバスが再び走り出すまで歩き出さずに立ち止まっていたが、ついにあの男が降りてくることはなかった。


***


「待てよ優也、校門まで一緒に行こうぜ」
 帰りがけに声をかけてきたのは、中学校からの腐れ縁、目黒瞬だった。ウマがあうのか、何もないときや食事のときなどは彼と一緒にいることが多い。この申し出にも特に異論はなく、思わず頷きかけて、しかし優也はあることに気がついた。
「めぐ、お前今日日直だろ。日誌は?」
 「めぐ」というのは目黒の愛称だ。いつだったか、自分の苗字が好きではないと話した彼に対して優也がつけた呼び名だった。なんだかんだで、今はこれがすっかり定着してしまっている。
「あ……」
 表情豊かな目黒は、優也の指摘に目に見えて嫌な顔をした後、Uターンして机の中からをれを取り出した。
「すっかり忘れてた」
「だと思ったよ」
 教室の中は、勉強のため残る人がちらほら見える程度だ。優也は目黒の隣の席に座ると、目黒にも座るように促した。
「待ってるからさ、書いちゃえよ」
「悪いな」
 日誌に書く『今日のできごと』の欄が、やけに長い。同じことを繰り返している毎日に、何をそんなに書くことがあるのだろう。ぼーっと眺めていると、目黒は意外にもすらすらとそこを文字で埋めていく。
「すげーな……」
 優也がポツリともらすと、目黒は書く手を止めて、「なにが?」と、怪訝そうな声を出した。
「よく、そんなに書くことあるなと思って」
 正直な感想だ。目黒はうーんと唸ったあと、芯を引っ込めたシャーペンの先で書いた文章をなぞって見せた。
「朝雪が降ってたことだろ。寒かったことだろ。弁当にハンバーグが入ってたことだろ……」
「それって、別に今日だけのことじゃないじゃん」
 優也がずばり指摘すると、目黒は胡乱気な視線をこちらに向けて、わざとらしくため息をついて見せた。
「あのなあ優也、別にいいんだよ昨日も今日も同じだってさ。何も変わらないことが幸せってもんなんだよ」
 大人ぶったその態度に少しイラついたので、目黒からシャーペンを奪って『今日のできごと』に一行書き足してやった。
「あっこら、何書いてるんだよ」
「これからお前がすること」
 "優也君にジュースをおごりました。"書き加えたところで、ふと目の前に人の気配を感じて優也は顔を上げた。そこにいたのは、恐らく今自分が座っている机の持ち主――確か、片霧ナントカ。
「あ、ごめん、席借りてた」
 すぐに立ち上がろうとするが、片霧はそれを制して、立ったまま机に両手を突いた。
「あのさ、ちょっと夏木に聞きたいことがあるんだけど」
 真剣な表情で見つめられて、優也だけでなく隣の目黒にまで無言の緊張が走った。片霧は普段は明るいお調子者でクラスの盛り上げ役だと認識している。だからこそ、このギャップに落ち着かない。
「……何?」
「あのさ、夏木の……」
 片霧はそこで言葉を切り、覚悟を決めたようにごくりとつばを飲むと、再び口を開いた。
「夏木の兄ちゃんが『SNOW』のギターだって、……ほんと?」
 思わず拍子抜けした。何を言われるかと思えば、そんなこと――……実際、優也の兄、夏木仁は『SNOW』というアマチュアバンドのギター兼ボーカルをやっている。しかし、そんなに有名なバンドでもないし、それをこの片霧の口から聞かされることになるとは、思ってもいなかった。
「優也の兄貴ってーと、仁さん?」
「そう、ジン! 俺、すっげえ好きなんだよ」
 目黒の確認に激しく同意する片霧を見て、何となく嬉しさを感じる。やりたいことを精一杯やっている兄は、優也の目標であり憧れだった。大学に進まなかった兄を母はあまりよく思っていないようだが、一度きりの人生、どうせならこうやって自分の生き方に共感してくれる人が一人でもいたほうがずっと価値があると優也は思うのだ。
「俺の兄ちゃんも音楽活動しててさ、よくいろんな曲聞かされるんだけど、あのバンドの曲はなんか、ビビビって来たんだよな」
「今度、帰ってきたら話しとくよ」
 思わずそんなことを言うと、片霧はぱっと目を輝かせて、すぐにポケットから携帯電話を取り出した。
「とりあえず、メアド! メアド、交換しよ!」
「いい、けど……」
 あまりの展開の速さについていけない。優也も鞄からそれを取り出すと、隣の目黒の表情が曇っているのに気づいて、慌てて声をかけた。
「お前も、ついでに交換しとけよ」
 しかし目黒は肩をすくめて、
「わり、今日ケータイ忘れたんだ」
 と、こともなげに答えた。嘘つくなよ、と心の中だけで罵る。
「じゃ、頼んだぞ夏木! あとでメールするから!」
 そう言いながら疾風のように去っていった片霧を呆然と見送った後、優也は携帯電話をしまって、なんとなくため息をついた。
「なんでため息?」
 目黒がにやにやと聞いてくる。
「……知ってるくせに」
 前々からテンションの高さといい、合わないと思ったことはあったが、今初めて会話らしい会話をして、確信に変わった。兄のことをほめられたせいでつい舞い上がってしまったが、アドレスを教えたのは単なる交友関係を深めるためだけでは無いだろう。
 優也は電話帳を開くと、登録されたばかりの『片霧宏夢』という文字を見つめた。
「メール、来るのかな」
「来るんじゃない」
「俺、苦手なんだよな、メール」
「知ってる」
 普段あまり使わない上に、唯一よく連絡を取り合う仲の目黒とは、通話がほとんどだ。優也は会話がちっとも進まないメールのまどろっこしさに、どうも慣れなかった。
「……兄貴、いつ帰ってくるかわかんねーのになぁ」
 目黒は、ぼそりと呟いたその言葉については何も言わなかった。書きかけの日誌を見て、咳払いをし、恐らくさっき言いたかったであろう言葉をようやく吐き出した。
「『今日のできごと』に嘘を書いてはいけません!」
 ちっとも似ていない、担任の声まねだった。笑うしかない。


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