冬真の家は、バス停から十分ほどの場所にあった。優也の家とはちょうど反対側だが、同じ町内だ。今まで冬真の存在を知らなかったのが不思議なほどだった。もしかしたら、後から転校してきたのかもしれない。 「おじゃまします……」 「誰もいないから、気にしなくていい」 「親は?」 「仕事」 冬真はやけに簡潔に答えた。だから毎日、姉の見舞いに行っているのか。そこで、冬真の恰好を見てふとある疑問が沸き起こる。 「ってか、学校は」 冬真が何年生なのか分からないが、制服を着て病院を往復するのは、少し妙な気もする。 「今春休みだし。俺、一応就職組だから」 「あ、同い年……。じゃなくて、制服、なんで着てんの」 「そりゃあ、ま、楽だから」 そんなものだろうか。そう言っている間にも、階段を上った先の突き当たりの部屋に案内される。 「俺の部屋だ。ベッド、使えよ。まだ寝てろ。今、ジャージかなんか取ってくる」 きちんと畳まれた布団をめくりあげながらそう言って、冬真は部屋を出て行った。優也は部屋を見回しながら、ブレザーのボタンを外す。特にこだわっているわけでもない、シンプルな部屋だった。しかし、その飾り気のなさが冬真らしく思えて、優也は自然にリラックスしていた。 「ほら、これ着ろ。今、暖房つけるから」 冬真に渡されたのは、ワンポイントのTシャツと上下の黒のジャージだった。ふわりと洗剤の香りがして、優也は妙に気恥ずかしくなった。 「腹減っただろ。何か作るから、待ってろよ」 「お前が作んの?」 思わず、そう聞き返していた。そのしっかりとした体躯からか、料理というイメージが結びつかない。 「悪いか?」 「いや、別に……」 「まあ、早く着替えて寝てろよ、病人」 微かに笑みを浮かべながら、冬真は部屋を後にした。あとに残った静寂のなかで響くのは、エアコンの稼動音と、布ずれの音だけだった。 「やっぱ、ちょっとでかい……」 ジャージを着ると僅かに足の裾が余って、猛烈に悔しくなる。着慣れない服の感覚に戸惑いながら、寝なれない冬真のベッドに横になった。楽な恰好で楽な体勢になったからか、気持ちよさに身を任せて目を瞑ると、すぐに睡魔はやってきた。 久しぶりの、本当に心地よい睡眠だった。 *** 夢は見なかった。優也はふと意識を浮上させると、ゆっくり瞼を持ち上げた。 「起きたか」 穏やかな声に安心する。首だけを横に向けると、椅子に座った冬真が、読んでいた小説を閉じて脇に置いたところだった。 「俺……どんくらい寝てた?」 「一時間くらいだな」 「なんか、悪い」 「別に、いい」 何か言おうとしたとき、ふと机の方から良いにおいが漂ってきた。思わずそちらに目を向けると、小さい土鍋が乗っかっている。 「あのさ、あれ……」 「あ、一応雑炊作ったんだけど、食べれるか?」 冬真は席を立つと、机の上からそれを運んできてくれる。優也は上半身を起こすと、もう一度においをかいだ。食欲は正直それほどなかったが、これなら食べられそうだ。 「冬真は?」 「俺はもうすませた」 「そーか」 優也は視線を土鍋の中に落とした。スプーンでまだ温かいそれを口へ運ぶと、野菜の甘みと塩味で、やさしい風味が口いっぱいに広がる。 「ん、まい」 思わず目を瞬かせる。ほめられた冬真は満更でもない様子だった。 「食べられる分だけでいいからな」 そう言いながら、冬真は優也の食べる様子をじっと見つめてくる。それが、妙に気になって仕方が無い。 「あのさ」 「何だ」 「そんなに見られてると、食べづらいんだけど」 たまらず指摘すると、冬真は自分がじっと見ていたことに初めて気がついたようで、慌てて顔をそらす。 「悪い」 「いーよ。それより冬真、お前さ、料理人にでもなればいいじゃん」 冗談めかして言ってみたのだが、冬真の反応は予想外のものだった。 「なりたいけど、な……」 曖昧な肯定だった。どうやら、その道も視野に入っているらしい。そういえば、冬真は就職組だと言っていた。 「冬真、就職どこなの」 「喫茶店。俺のばあちゃんがやってるから」 なるほど、そういうことかと、優也は頷いた。最終的には店を持ちたいと考えているのかもしれない。 「いいなあ」 「別に、コネだけじゃねえぞ」 冬真が眉を寄せる。慌てて優也は手を振ってそれを否定した。 「違う、そうじゃなくて、就職が」 「……優也は進学……だろうな、赤船だろ、その制服」 冬真が、たたまれた優也の制服を見ながら言う。赤船高校は地元ではわりと有名な進学校で、その生徒の八割方が大学もしくは専門学校に進んでいる。制服が仁のお下がりで済むというそれだけの理由で、優也はこの高校に入った。だから――だろうか。就職というものに、無性に強い憧れを感じるのだ。 「まあ、ね」 「まだ、授業があるのか」 冬真が淹れてくれた熱いお茶を飲みながら、優也は僅かに首を振った。 「授業じゃなくて、課外。二次試験があと二週間とちょっとだから、必要な人だけ出る」 ふうんと、冬真は頷いた。 「俺のところは、進学組と就職組に分かれてるからな」 「どこなの、その制服」 どうしても気になるので聞いておくことにする。失礼かと思ったが、冬真は特に気分を害した様子もないようで、その質問に答えた。 「奈城高校だ」 その高校名ならば、優也も聞いた覚えがあった。しかし、ここからは大分遠い所にあるはずだ。 「遠くない」 「遠いな」 「何で通ってんの」 「電車だ」 そこで一旦、会話が切れた。優也は結局ほとんど食べきった雑炊を、冬真に渡す。 「ごちそうさま。マジうまかった」 「いや、これくらい、なんでもない」 そう言う冬真の顔が綻んでいる。優也もつられて嬉しくなって、意味もないのに笑っていた。 時間は、既に三時を回ろうとしていた。 鞄の中から鈍い振動音が響いたのは、そのときだ。優也がベッドから降りようとするのを制して、冬真が鞄を布団の上に置いてくれる。 「さんきゅ」 中をまさぐって携帯電話を取り出すと、着信のようだ。二つ折りの本体を開いて――さっと、血の気が引いた。 「母さんだ」 冬真が気遣わしげな視線を向けてくる。優也は熱い唾を飲み、一瞬の迷いを振り切って通話ボタンを押した。 「……もしもし」 『優也! あんたまた学校行ってないんだって?』 覚悟はしていたつもりだったが、途端、割れんばかりに響いてきた母の声に、優也はびくりと肩を震わせた。心臓の音がうるさい。頭の芯はぼんやりするのに、思考はどんどんシャープになっていく。 「ごめん、今日は……」 『今どこにいるの? ねえ優也、正直に答えなさい』 母の、このゆっくりとした力強い口調が、優也は苦手だった。まるで逃げ道をふさがれるかのようなプレッシャーが圧し掛かってくる。 「あ……」 声が、声にならない。何を言えばいいのだろう。嘘をつけばいいのか。いや、だめだ――……。優也の鈍った思考回路は、問いの正解を導いてはくれない。 『どうなの、優也!』 もう嫌だ――優也の心の声が聞こえたのかもしれない。それまで微動だにしなかった冬真の手が動いた。素早く優也の手から携帯電話を掠め取ると、一寸の迷いもなく耳に当てる。 「もしもし」 母の困惑した声が漏れてくる。「すみません」と謝った冬真が、静かに、しかし淡々とした口調で続けた。 「熱があるようだったので、病院に連れて行って、今は俺の家で休ませてます」 冬真の声色に迷いは一滴もない。嘘はついていないし、むしろ堂々としているのだが、どこか後ろめたい気持ちになるのはなぜだろう。優也が半ば上の空でそれを考えていると、電話を終えたらしい冬真がたたんだ携帯電話を突き出してきた。 「あの、なんか……ごめん」 「お前が謝ることじゃないだろ」 「じゃあ、ありがとう」 「……ああ」 受け取った携帯電話から引き剥がした目線をそろそろと上げると、冬真は黙って頬をかいていた。この男には、助けられてばかりだ。優也は、自分に何もできないことが酷く歯がゆく感じられた。 「俺、冬真のアドレス知りたい」 ふと、思いつきで口をついたのがそんな台詞だった。言ってから照れくさくなったのだが、意外にも冬真はあっさりと承諾する。 「俺も、優也のが知りたいと思っていたところだ」 そうして、さっさと携帯電話をポケットから取り出す。あまりにあっさりした返事に、優也は一瞬きょとんとして、 「すげえ、俺ら心通じ合ってんのかも」 半分本気でそう言ってみる。 「はは、……かもな」 半分冗談でそう返ってきた。 |