僕は僕である彼女を愛せない 2

 「日曜の午前中に、来てくれる?」

 昭子との約束通り、誠はバッグ一つを抱えたままに再びあの店を訪れていた。午後からは、優の家に行く予定になっている。バッグの中には、あの制服と下着が入っている。何を持ってくれば分からなかったし、どうせこれは優に返さなければいけない。
 以前無理やり引き込まれた扉の前は静まり返っている。そっと扉を押すと、音楽も鳴っていない朝の店内はやけに静かだった。
「よう、また来たのか」
 出迎えてくれたのは、浩二だった。眠そうにあくびをしていたが、薄い紙切れと何やら格闘している。
「何してるんですか」
「ん? ああ、これ。仕込み表な。あー眠い」
「ああ、来たのね!まこっちゃん!」
 ぱたぱたと階段を下りる足音が聞こえてきたと思ったら、やはり昭子だった。
「ま、まこ……」
 いつの間にかおかしなあだ名をつけられていることに一歩ひいてしまう。昭子はそんな誠の様子はお構いなしに、「待ってたのよ」と笑った。こうしていると、本当に女の人にしか見えない。
「まこちゃんは顔も小さいし、まつ毛も長いから、きっと可愛くなると思うわ」
 うきうきした様子で背中を押されて、二階に向かう。浩二が何か言いたそうな顔で見てきたが、結局声をかけられることはなかった。
 通された部屋は、先日誠が入った部屋だった。部屋のレイアウトもまだ覚えているが、その時より格段に綺麗だ。
「綺麗でしょ」
 心の中を読まれたかと思って顔が引きつったが、昭子の視線は箪笥の上に飾られてある小さなネックレスにあった。緻密なデザインの赤い宝石がついているネックレスだ。
「これは?」
「私がお店を出すって決めた時にね、もらったのよ」
 誠の素人目では、それがどれほどの価値の物なのかはわからない。しかし、その雰囲気から、昭子が大事にしているものであることはすぐに分かった。
「大事な人に、もらったんですね」
「わかる?」
 昭子は悪戯っぽく笑いながら、化粧台へと誠を導く。道具の準備をする昭子に「浩二さんですか」と聞くと、大笑いされた。
「なんであいつ?」
「だって、仲良かったじゃないですか」
「ない、ない! あーおかしい!」
 昭子があまりにも笑うので、誠も立場を忘れてむっとしてしまった。
「俺、そんなに変なこと言いました?」
 ぶすくれてしまったのが分かったのだろう、昭子は手をひらひらさせると、「ごめんごめん」と謝った。
「あいつはね、確かにいい奴だけど、ただの腐れ縁よ」
「いつから一緒なんですか?」
「高校生のときから。……さ、始めるわよ」
 昭子はすっと会話を切って、かちゃかちゃと道具を取り出し始めた。誠はそれをただ眺めながら、心臓の音がうるさいなと思っていた。


 二十分ほどで、あっという間に誠は女の子になっていた。顔色は随分良くなって、目はいつもより大きくてぱっちりしている。唇もてかてかしているし、ウィッグをつけた髪はかつて経験したことがないほど長い。
「俺じゃないみたいだ」
 正直な感想を述べると、昭子は満足そうな顔をしてクロゼットから服を選んでいた。本当に、鏡の中には知らない女の子がいる。優が見たら何と言うだろうか。
「やっぱり正解だったわね。……あれ、もしかしてこれ着たいの?」
 昭子が誠の鞄の中を覗いて目をぱちくりさせた。顔が火を噴いたように熱い。
「あー、あの、それはっ」
「絶対似合うと思う!」
 昭子を見ると、目が爛々と輝いていた。まるで、着せ替え人形で遊んでいる少女のようだ。
 着慣れた制服に腕を通す。慣れているはずなのに緊張して、さらっとした着心地も初めてのような気がした。
「ばっちりね」
 その言葉一つで、果たして誠の女装は完成した。恥ずかしくてまともに鏡を見ていられない。スカート姿を他人の前で晒したのは初めてだった。いつも優の部屋でやるお遊びとはわけが違う。
「あの、ありがとうございました」
「これから、デート?」
 昭子の言葉になんと返せばいいか迷ったが、曖昧に笑ってごまかした。デートと言っても、どこへ行くわけでもない、いつものように優の家に行って、いつものように心のないセックスをする。行為の最中だけは、上辺だけでも甘い声で自分を呼んでくれる。爪を立てて体を繋いでくれる。心まで女になった気がして急に心細くなった。そんな自分が大嫌いになったのは、いつからだろうか。
「がんばってね」
 昭子の応援の言葉が逆につらかった。
「俺、もう行きますね。これ、後で返しに来ます」
「待ってるわ」
 既に日は高くなっているようだ。プリーツスカートで階段を下りると、客席には誰もいなかった。ほっとして入口へ向かうと、後ろからついてきた昭子が「ちょっと、みっちゃん!」と厨房に呼びかけている。慌てて外に出ようとしたが、腕を掴まれて阻まれた。なんて強い力だ。
「うるせーな、今頭使ってん……あ、誰その子?」
「はあ、何言ってんのよあんた」
 昭子が呆れ声を出す。うつむき加減の誠を浩二は穴が開くほど見つめて、そのまま五秒ほど制止した後、静かに――持っていたボールペンを落とした。
「ちょっと、失礼じゃない!」
「え、ちょ、なに、え……?」
 浩二はようやく表情を変えたが、まだ混乱しているようで忙しく視線を動かしていた。
「あの、俺、もう行きます」
 反応がこわくて、昭子の制止も聞かずに飛び出した。外は寒い。スカートの中に風が入り込んでくるのと、周りの視線が気になって、誠は落ち着かなく早足で歩いていた。この裏通りは昼間は静まり返っていたが、大きな通りに出ると人の姿は多くなる。ますます怖くなって、すくむ足を必死に動かす。
「おい、誠! 待てって!」
 後ろから能天気なでかい声が聞こえてきたときも、構わず歩き続けた。もしここで立ち止って、男だとばれたらどうするつもりだ。地面ばかり見つめて歩いていたら、前から歩いてきた人とぶつかりそうになって、その瞬間ぐいと腕をひかれた。
「おい、なんで、止まんねえんだよ……」
「……なんで追いかけてきたんですか」
「さっきは悪かった、気づかなかったんだ」
「分かってます。別に怒ってないですし」
 怒って飛び出したわけではない。ただ、羞恥にいたたまれなくなっただけだ。
「似合ってるよ。女にしか見えねーし、じゃなくて……」
 まだ慌てているようだった。浩二は思い出したように手にしていた紺のコートを被せてきた。
「寒いし、こんな時間に、なんだ、その……高校生が」
「あー、ハイ」
 浩二が照れたのでますます恥ずかしい。
「ありがとうございます」
 背を向けて歩き出す。と、浩二も並んで歩いて来るので、もう一度止まった。
「あの」
「ん?」
「なんでついて来るんですか」
「このまま仕込みに行くの」
「そういうの、業者に頼むんじゃないんですか」
 浩二は一拍おいて、僅かに癖のある髪を触る。
「うちはその日その日の市場に合わせて用意するからな」
 なるほど、確かに料理はうまかったなと思い出す。
「お前は、その、デート?」
 その単語を言いづらそうに言う浩二が可笑しくて、誠は思わず噴き出した。
「なんだよ」
 会ったときは仕事着だったせいか大人っぽく感じたが、歳はそれほど違わないはずだ。接していると案外子供っぽいところに気が付く。
「いえ。……そんな感じ、ですかね」
「いいよなぁ、相手がいて」
 浩二は何でもないようにそう言った。その後も何気ない会話をしながら同じ道を歩いたが、誠がなぜ女の格好をしているのか、なぜ制服を身に着けているのか、そんなことにはまったく触れなかった。話しながら、誠自身も自分の格好をしばし忘れていた。いつのまにか大股になっていることに気づいて、ぱっとスカートを抑える。
「俺、ここ曲がるんで、また」
「あ、ちょっと待て」
 浩二は思い出したように立ち止まると、鞄からメモ帳とペンを取り出してなにか走り書きした。それを一枚ちぎって渡される。
「なんですか?」
 見ると、090で始まる電話番号だった。
「何かあったら連絡してくれ」
 なんでこんなものを渡すのかと思ったが、案外世話焼きなのかもしれない。誠は「ありがとうございます」と言って、ぺこりとお辞儀をした。
「じゃーな、また」
 浩二とは手を挙げて別れた。もらった電話番号のメモをなくさないよう財布に入れて、歩き出す。小さな小道を抜けて住宅街に入ると、いきなり歩くペースが落ちてしまう。優の家の前まで来ても、なかなかインターホンを押せずにいた。怖気づいているのだ。目を瞑って深呼吸する。チャイムを鳴らすと、少ししてドアが開いた。いつまでたっても合鍵はもらえなかったし、要求もしたことはなかった。この瞬間は、期待と後悔がない交ぜになって落ち着かない。
「……綾野?」
 この男はすぐに正体に気づいた。それを嬉しいと感じている自分が気持ち悪い。
「どう、女に見える?」
 優は唾を一度飲み込んだだけで、何も言わなかった。ただ、静かに誠の手を引いて玄関の中に入れると、そのまま鍵をかけてしまう。
 いつもと少し様子が違うので不安になって、誠は優の名前を呼んだ。しかし、帰ってきたのは言葉ではなかった。
「ん……っ」
 唇を塞がれるのと同時に、性急な動きで制服の中をまさぐられる。無い胸を痛いほど弄られて、誠は不安から優を押し返した。
「ちょ、ここで、やんの……」
 優は何も言わない。両の乳首を抓られて、痛いのに感じてしまう。本当に、嫌な体だ。
「おい、ゆ、優……」
 なおも返事はなかった。その代わり、優は誠をぐるりと反転させた。バランスを崩して冷たいドアに手をつくと、抗議の言葉を発する暇もなく指を口に突っ込まれる。苦しさに眉を寄せたが、優には見えていないのだろう。唾液で濡れた中指をスカートの中に滑り込ませた。そして、誠は確信する。この男はここでセックスする気なのだ。
「優、ほんと、ここ、や……だ」
 ぐいと後孔を広げられる感覚に、誠は焦って言い返す。いつもより、ペースが速い。体を気遣うという甘さはどこにもなくて、ただ取りつかれたように行為に没頭しているような動きだった。
「優!」
「あー、だまれよ」
 低い声は熱さを孕んでいた。まるで憎い相手を殺してやろうというような、そんなセリフだった。誠が唖然としていると、熱く猛ったものが後ろに宛がわれて、たいしてほぐれていないそこに突き入れられる。
「い……っ、た、痛い、優……!」
 誠は恐怖を感じて逃げだそうともがいた。すると、ぐるりとまた立ち位置を反転させられて、世界も反転した。フローリングにうつぶせになる。頬が熱い。殴られたのだ。見上げると、今度はドア側に優が立っている。逃げ道を塞いだつもりなのだろうか。
「暴れんなよ、綾野、な、怖くないから」
 今度はやけに優しい声でそう言った。その体が覆いかぶさるように近づいてきて、フローリングに四つん這いにさせられる。ローファーをするりと脱がされて、その指で下着を膝まで下ろされた。
「ゆ、う……あ、ああああっ!」
 優しさはやはりなかった。無理やりに入り込んできた優の雄はいつも以上に猛っていて、あまりの痛さに意識が遠のく。首を振って逃げようとするが、体のどこにも力が入らない。
「綾野、可愛いよ、綾野ぉ……!」
 優の声も遠く聞こえた。腰を動かし始めると、自然と体が揺れる。意外にスムーズに動いている。出血しているのかもしれない。
「う、あ、あ、……」
 下半身はもはや感覚がなくなっていた。こんな犯され方をしたのは初めてだった。みじめさと恐怖に鼻の奥がつんとする。可愛く喘ぐなんて、そんなことできるはずがなかった。
「綾野、出すよ、中、出す……」
 頭がぼうっとする。涙は流れたのかどうか、わからない。腰を打ちつけるスピードがどんどん速くなって、誠は人形のようにがくがくと動きながら掠れた声を上げていた。
「……ん、く」
 ひときわ強く腰を押し付けながら、優は誠の中で果てた。覆いかぶさって荒い息をする優は、まるで獰猛な獣のようだ。誠は冷たいフローリングに頬をくっつけて、霞む意識と闘っていた。
「すげーよかった、綾野」
 引き抜かれる瞬間の震えは、今日はやってこなかった。その代わり、優に対しての恐怖から彼の顔を見ることができない。
「お、おれ、もう帰る、な」
 指先が冷たい。壁にもたれかかりながらなんとか立ち上がってローファーに足を突っ込む。下着を上げて、震える手で内鍵を回そうとすると、それを阻止するように腕を引かれた。いつもなら、優は自分を引き留めることなど無いはずなのに。
「中、上がって行けよ」
 ぶるりと、確かに体が震えた。その優しげな声も怖かった。もう、教室の隅で読書をする彼の姿はどこにもいない。
「なあ、綾野」
 恐る恐る優の顔を見る。しかし、そのぎらぎらして濁ったような瞳と目があった瞬間、誠が鳴らしたのと同じ軽快なチャイムが家中に響いた。
『優さん、いますか』
 薄いドア越しに聞こえたのは、女の声。優の表情が途端に硬くなるのに気づく。――あれ、これは、なんだ?
『優さん』
 聞き覚えのある声だった。可愛らしい声。嬉しそうな声。
『いないなら、入っちゃいますよー』
 嬉しそうな声とともに、聞こえた。――鍵を回す音。
 カタリとやけに軽い音がして、扉が開く。僅かに傾いた日が差し込む。
「え、なに、……誰?」
 その瞬間の女の顔を、優の顔を、誠はスローモーションのように記憶した。
「優さん、なに、これ……」
 女のひきつる笑顔に、優の青ざめた表情。掴まれた腕を振りほどいて、誠は女の脇をすり抜けた。
「……あいつは、妹で」
 弁明する優の声が遠く聞こえて、そのうちドアが閉まる音がして、もう何も聞こえなくなった。アパートの門を抜けて、それでも止まらずに歩いて、そのうち小石に躓いて転んだ。乱れた制服を隠してくれるコートがありがたかった。誠は混乱した頭のまま、笑っていた。笑うしかなかった。なんて滑稽なんだろう。あの女は、優のサークルの後輩で、以前優に告白した。彼女に勝ったつもりで、本当は負けていたのだ。
「……いもーと」
 立ち上がる気力も起きずに、誠は込み上げる涙を必死にこらえた。こらえきれなかった雫が少しだけ頬を伝う。

 ――あの子は、合鍵を持っていた。



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