僕は僕である彼女を愛せない 3

  自分の家に帰るのは嫌だった。自分しかいない寒い部屋の中で、何度でもあのことを反芻してしまいそうだったからだ。誠はふらふらと大通りを歩いていた。あの店に向かおうとしている足を、理性で押しとどめる。恋人に捨てられたので拾ってくださいとでも言うつもりだろうか。そもそも、自分と優は恋人だったのだろうか。荒んだ心で、ふと、浩二の腕の温かさを思い出す。ひどい気分だった。

 結局、店とは一本離れた裏路地の隅に座り込んだ。建物で日が影になってちょうどいい。今は何時だろうか。携帯電話が鳴っている。見る気にもなれずに、電源を切る。たまに通る人が珍しげな視線を投げてくるが、彼らの目には女子高生がただ座り込んでいるように映っているのだろうか。そうだといい。綾野誠という馬鹿な大学生のみじめな姿は、誰にも見られることはない。


「お嬢ちゃん、大丈夫?」
 辺りが薄暗くなってきた頃、誠は声をかけられてその人物を見上げた。知らない男だった。手足が長くて、黒いスーツをノーネクタイで着こなしている。
「こんなとこにいたら冷えちゃうよ。中、入りなよ」
 ねっとりとした声だった。誠は彼に腕を取られて立ち上がった。男だと教えたら、気味悪がって逃げるだろうか。誠が口を開けて言葉を探すと、しかし割り込んできた人物に驚いて真っ白になる。
「こいつ俺の連れなんで、悪いね」
「さ……」
 佐伯、と呼ぼうとしたが、強引に腕をひかれて歩き出したせいでその言葉も引っ込んでしまった。
「振り返らないでね」
 佐伯は帽子にサングラスをつけていた。その金髪と凛とした声がなければ、おそらく誠とて気づかなかっただろう。

 無言でしばらく歩いて、見慣れた通りに出ると、佐伯は初めてこちらを向いた。
「まこっちゃん、大丈夫?」
「……」
 正直、呆気に取られていた。佐伯の手が頬に触れると、ちり、と痛みが走る。そういえば、優に殴られたのだ。これを心配されていたのかと気づいて、「大丈夫」と笑うと、佐伯はようやく安堵の表情を浮かべた。
「とりあえず、休んでいきなよ」
 結局、拾ってもらうことになってしまった。誠は情けなさに笑う気力もなくて、佐伯の後に続いて店に入る。風呂を借りて、すぐに帰るつもりだった。後で何かお礼をしよう。それで終わりだ。
「男だろ?」
 佐伯は唐突にそう聞いてきた。誠はびくりとして顔を上げたが、彼の顔は見えない。
「わかるんだよ。俺もそうだから」
 小声でそれだけ言うと、佐伯は元気な声で「ただいまー」と店内に入っていく。
「あら、サエ遅かった……まこっちゃん?」
 開店の準備をしていた昭子は、入口で立ち尽くしている誠を見て驚いたように目を瞠った。誠ははっとして、コートの合わせを深くして笑う。「がんばって」と言われた手前、こんなボロボロの姿は見せたくなかった。作り笑いは得意だ。
「今日はありがとうございました」
「その顔、どうしたの!?」
 昭子は目ざとく頬の腫れに気づいたようだった。誠は苦笑しながら、
「さっき変な人に絡まれて」
 と嘘をでっち上げた。かばってくれるつもりなのだろう、佐伯が「そうなんだよ」と乗ってきてくれる。
「俺が助けてやったんだけどさ、やっぱりあっちの通りはタチ悪いのが多いよ」
「そうなの。……可哀想」
「べつに、可哀想なんかじゃ」
 思わず大きな声が出てしまって、誠は焦った。繕うように笑うと、
「風呂、貸してくれませんか」
 そう進言する。本当は立っているのもやっとだ。何もかも流してしまいたかった。
「全然構わないわ。その代わり、上がったらちゃんと湿布するのよ」
 昭子の優しさに罪悪感が頭をもたげる。誠は階段を上がった。もう開店時間が近いのだろう。昭子はついてこない。

 この部屋に入るのは三度目だ。箪笥の上のネックレスは悲しいくらい綺麗に輝いている。化粧台に立つと、鏡にはぼろぼろに化粧の崩れた哀れな女の姿が映っていた。――いや、違う。
「……俺だ」
 ここに映っているのは、まぎれもなく綾野誠だ。みじめな、自分自身だ。
 自分のアパートよりも広く綺麗な風呂場の熱いシャワーを浴びながら、酷い心の渇きを感じて唾を飲み込んだ。恐る恐る後ろに手を当ててみると、痛みが走った。やはり傷ついてしまっているようだ。泣きたい気分だった。
「制服、返さないと、な」
 うわごとのようにつぶやく。できればしばらく優の顔は見たくない。あとで、ドアノブにでもひっかけておこう。なんにせよ、もう終わりなのだ。終わりでも、明日も大学に行かなければならない。

 風呂から出ると、誠は朝自分が着てきた服を見つけて着替えた。そうするとようやく落ち着いて、ソファに横になる。体は暖まったはずなのに、酷く寒かった。それでも、ここに優は来ない。あの後輩も来ない。それが何よりの救いだった。
「誠ー」
 心地のいい声が聞こえてきて、誠は目を開けた。いつの間に開いたのか、開いたドアから入ってきたのは浩二だった。相変わらずのスラックスに、エプロンをつけている。
「これ食え。昭子さんからの差し入れ」
 浩二が手に持ってきたのは、暖かそうなおじやだった。店ではこんなものまで出しているのか。
「いや、でも……」
「遠慮すんなよ」
 誠が言いたいことなどお見通しというように、浩二は笑った。
「……それも、今日仕入れてきたんですか?」
「おう、このキノコは今日取れたてだぜ」
 笑いながらそれをソファの脇のテーブルに置くと、浩二はポケットから何かを取り出して誠の顔へ近づける。
「なに……うわっ」
 頬に冷たいものが当たって声を上げてしまった。湿布だ。おおかた、昭子に様子を見てくるよう言われたのだろう。苦笑する。
「ありがとうございます」
 言うと、浩二はぽんぽんと誠の頭を叩いた。温かい。本当に、温かい手だった。
「お、おい……大丈夫かよ」
「え?」
 誠は、自分が泣いていることに気が付かなかった。頬に手を当てて、慌てて目を擦る。
「目に、埃、入ったみたい、で」
「誠」
「はは、変ですね……」
 ほらもう大丈夫と、顔を上げた時だった。突然唇にキスがふってきて、誠は言葉を失った。本当に一瞬触れただけだったので夢を見ているのかと思ったが、浩二の目があさっての方向を向いているので、すぐに分かった。
「浩二さん」
「ちょっと、何も言うなよ」
 そのまま優しく抱きしめられる。「だまれよ」という優の声が耳元で聞こえた気がした。違う、違うと頭の中で繰り返す。
「なんか、喋ってください」
「え、なんかって」
「なんでもいいから」
 浩二はごほんと咳払いをして、「えーそれでは、先日僕に起こった面白い話を……」と、改まった調子で切り出した。その低く優しい声を聞きながら息を吐き出す。ここにいるのは浩二だ。誠は彼の面白くない話を、時折相槌を打ちながら、最後まで聞いていた。



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