僕は僕である彼女を愛せない 4

 次の日、誠は菓子折りを持って再び店を訪れた。大学はずる休みしてしまった。携帯電話の電源を一日ぶりに入れると、着信履歴とメールが20件ずつ来ていた。ずらりと並ぶ「優」の文字に吐き気がして、結局一つも開かないまま消してしまう。店を控えめに開けると、今日は誰の出迎えもなかった。不用心だと思い中に入ると、やはり静まり返っている。照明はついているので、厨房か二階にいるのだろう。
「あの、誰かいますか」
 声をかけると、少しして厨房からひょっこりと金髪が姿を現した。佐伯だ。安心して店内に入る。
「おはよー、まこっちゃん」
「おはよう。昭子さんたちは?」
「昭子さんはまだ来てないよ。みっちゃんは、二階で――今、妹が来てるから接待中」
 佐伯はつまらなそうに言う。どうやら、浩二には妹がいるらしい。
「妹に接待?」
「まこっちゃんが帰った後来たんだけど、なんかずっと泣いてて大変だったよ。それで、お泊りコース」
 言いながら、一つそこで大きな欠伸をする。カウンターの席に座るよう誠に勧めてから、自分も隣に座った。そして、真面目な表情になって顔を覗き込まれる。
「今日は昨日よりは大丈夫そうだね。顔色」
「ああ、うん。昨日はありがとな、佐伯」
「気にしない気にしない。俺もそれで拾われたたちだからさあ」
 佐伯はけらけらと無邪気な顔で笑った。人に好かれる裏表のない笑みだ。
「俺さ、高校のときせんせーとできちゃってんのばれて、退学くらったんだよね」
 彼はおもむろにそう話し始めた。昔を懐かしむような口調だが、歳は誠と同じくらいだろう。黙っていると、佐伯は続ける。
「その後すっかり擦れちゃって、ウリで稼いでたんだけど……あーいうのって、恨み買いやすいから」
「……それで、ここに拾ってもらったの」
 そんな過去があるとは全く見えない明るさに、誠は佐伯の心の強さを感じた。自分とは大違いだ。
「俺は、だめだな」
 ぼそりとつぶやく。佐伯が何も言わずにこちらを見てきた。
「……合鍵を貰えなかったんだ」
 そうだ、あの鍵のまわる音を、誠は聞いたことがなかった。優は女が好きなのだ。
「恋人だと思ってたやつに、彼女がいて。その子は合鍵をもってて。俺はあいつに好かれようと女のカッコまでして、」
 笑おうとして、いくらか腫れの引いた頬が痛んだ気がした。
「好きだったんだろ」
 佐伯は真面目な表情のまま、そう言った。
「だったら、ツライのは当たり前だよ」
「……ありがとうな」
 いい奴だと昭子が言ったのは、本当に本当だ。この店には、優しさがあふれている。でも、もう来てはいけない気がした。この優しさに甘えすぎてはいけない。
「あ、メシごちそうしてくれたお礼っていうか、まあいろいろのお礼に、これどうぞ」
「えっそんなあ、気にしなくてもいいのに!」
 言いながらも、佐伯の目は菓子の包装にくぎ付けになっている。
「昭子さん来る前に開けちゃ駄目かなあ」
 その様子が面白くて眺めていると、二階から話し声が聞こえてきた。次いで、階段を下りる音。佐伯が急に縮こまったので、
「どうしたの」
 と聞くと、
「俺あの子苦手なんだあ」
 こっそり耳打ちしてきた。あの子、とは浩二の妹のことだろう。確かに、男と女の声だ。浩二の声が聞こえてきてどきっとした。どんな顔をすればわからない。こう気恥ずかしいのは久しぶりだ。
 しかし、降りてきた二人を見て違和感を感じるより先に――表情がすっと消えた。正確には、どんな顔もできなかったのだ。
「ああ、来てたのか、誠」
「……」
「あれ、新しい人が……綾野さん?」
「……こんにちは」
 名前も覚えていない後輩。優に告白した忌々しい女。――合鍵を持っている、女。
「あれ、知り合い?」
 浩二が不思議そうに二人を交互に見る。
「あー、えっと、妹の美加だ」
 美加。その甘ったるい声を覚えている。『優さん』と呼んだ彼女。目があった瞬間の、笑顔が凍り付いた顔。
「私もう行くね。お兄ちゃん、話聞いてくれてありがと」
 目の前がスローモーションになる。一瞬だけ、彼女と視線が絡み合った。怒るでも悲しむでもない、凛とした瞳だった。泣きはらしたのが一目でわかる、女の武器。
「……まこっちゃん?」
 佐伯の声にはっとして振り返る。どんな表情をしていいかわからない。言葉も何も出てこない。何も言えないでいると、佐伯はただ眉をひそめた。
「誠、美加と知り合いだったんだな」
「……友人の、サークルの、後輩で」
 さすがに何か言わないとと思い言葉をひねり出したが、声は酷く掠れていた。笑わなければ。笑わなければと暗示をかけて、唇を無理やり引き上げる。
「まさか、浩二さんの妹だったとは、思いませんでしたよ」
 うまく笑えただろうか。浩二はそうかと言って、階段の手すりにもたれかかった。
「あいつ、昨日誠が帰ったのと入れ違いに来て、来るなり泣きついてきたんだよ」
「……へえ」
「なんでも、彼氏に二股かけられてたって」
 ああ、もう、やめてくれ。頭ががんがんと痛み出す。それを、浩二の口から、言わないでほしい。言わないでほしいのに、浩二はそんなことに気づきもしない。当たり前だ、彼は彼女の兄なのだから。
「相手は高校生だったらしい。あいつ、いつも報告に来てさ、この間は合鍵貰ったってはしゃいでたのに……」
 浩二は外を眺めながら忌々しく吐き捨てた。妹思いのいい兄なのだ。それなのに、こんなにぐるぐると気持ち悪い。隣で佐伯が何か察したらしい、腕を掴まれる。
「しかも、その二人が玄関先でヤってたって……くそ、想像するだけで吐き気がする! どんな神経してるんだよ、そいつ」
 やめてくれ、やめてくれ。もう自分がどんな顔をしているのかわからない。ただ、浩二はそこで誠を向くと、何かに気付いたかのようにはっと口をつぐんだ。
「あ、こういう話、駄目だったか? 悪い」
「い、いや……」
 佐伯が、小声で「大丈夫?」と訊ねてきた。答える余裕もないまま、誠の視界はゆらゆら揺れた。
「せめて彼氏の名前が分かればいいんだけど、あいつ頑固だからな。一発殴ってやりてえのに……!」
 ああ、殴られるべきは俺だ。浩二はふと思いついたように、「お前、心当たりないか?」と言った。
「美加の先輩と友達だって言って……あれ?」
 途中で何かに勘付いたらしい、浩二はふと考え込んだ。
「なあ誠。お前、昨日女の格好して行ったよな」
「……それがどうか、しましたか」
 浩二の目つきが変わる。昨日とは全く違う、寝ていないせいか充血した瞳。
「黒のセミロングで、A校の制服で」
「あーほら、そろそろ昭子さんくるんじゃねえ?」
 わざとらしく佐伯が立ち上がる。しかし、浩二はそれには耳を貸さずに、一歩こちらに近づいてきた。
「男の家に行って、それで、美加と知り合いで」
「おい、みっちゃん、ちょっと落ち着けよ」
 佐伯の言葉は届いていないだろう。浩二は決定的な言葉を言おうとしている。誠は立ち上がった。その言葉だけは、浩二の口から聞きたくなかった。
「俺……ですよ」
「まこっちゃん!」
 手が細かく震えている。どこか遠くから自分を操作しているような現実感のない空間だ。浩二の硬い表情が目に入る。
「俺の友達が、あなたの妹と付き合ってた。俺は昨日あいつの家に行って、確かに玄関でやりましたよ。すげー気持ちよかった。まあ途中で邪魔され、ッ……」
 頬を叩かれた。昨日湿布を張ってくれた男が、その場所をまた叩く。まるで茶番のような現実を笑うと、今度は襟を掴まれた。
「お前のこと、いい奴だと思ってたよ」
 見たことのない怖い顔で、浩二は誠を睨んだ。誠はそれをただじっと見ていた。
「みっちゃん、やめろよ!」
 佐伯が浩二の腕を抑えるが、まるで効果はないようだった。左の頬が痛い。痛い。
「殴って、ください。あいつの分も」
 それで踏ん切りがつくと思った。しかし、浩二は唇を噛んで苦い顔をすると、ぱっと掴んでいた襟を離す。誠はへなへなと力が抜けて、その場に座り込んだ。
「もう、二度と来んじゃねえ」
 捨て台詞を残すと、二階へ上がって行ってしまう。佐伯が気遣わしげに声をかけてくれるが、それもあまり頭には入らなかった。
「なんか、みっちゃん絶対勘違いしてる。まこっちゃんもあんな言い方するし」
 二階へ行こうとする佐伯を、誠は止めた。困惑した表情で見てくる。ああ、この子を困らせたいわけじゃないのに。
「全部ほんとのことだし。いいんだ、気にしてないよ、大丈夫」
「まこっちゃん……」
「昭子さんによろしくな」
 左頬は痛むし、胸も痛いし、どこもかしこも痛くて、最悪な気分だった。それでも、佐伯の気遣いの気持ちが嬉しい。きっと、罰が当たったのだ。自分だけが優しい場所に逃げようとした罰。
「また、来るよな!」
 佐伯の言葉に、誠は返事をしなかった。笑って手を振って、店を出る。途端に笑顔は消えて、ふらふらと家路をたどり始めた。昨日ここへ向かっているときより、酷い気分だ。浩二の幻滅した顔が頭から消えない。
「いって……」
 罰が当たった。もう一度繰り返して、まだ日は高いのに、家に帰るというのはなんだか変な感じだった。大学を休まなければよかった。家が近くなってくると、余計にその気持ちは強くなる。アパートの鉄製階段を上って、いつものように自分の部屋へ帰る。――はずだった。
「綾野」
 びく、と体が震えて、誠は立ち止った。どうして、部屋の前に、あいつが。あいつがいるんだ。
「どこ行ってたのさ。ケータイ切ってるし、ずっと探してたんだけど」
 誠は言葉が出ずに後ずさりした。心臓がバクバクなっている。
「綾野、俺、お前だけなんだよ」
 優は病人のように白い顔をしていた。目は濁っている。犯罪者のようだと反射的に思った。誠はふるふると首を振る。違う。何かが違う。
「優」
「なあ、今日は女のカッコしねえの? 可愛かったじゃん、あれ、女の子みたいで」
「優、俺、今日は、」
 背が高いだけで自分よりも痩せているこの白い男に、どうして逆らえないのだろう。力は、こっちのほうが強いはずだ。まさか、女装をしているうちに心まで女になったわけではあるまい。
「なあ、綾野もやりたいだろ。気持ちいいだろ、俺とやろーよ。お前が一番イイんだよ」
 誠はもう一歩後ずさった。逃げようとして、腕を掴まれる。
「……なあ、やめようぜ、もう」
「は?」
 誠は優の顔を見て切り出した。その表情が消える瞬間、腹に拳が飛んでくる。
「ぅ……ぐ、」
「なに、もっかい言ってみてよ?」
「俺は、お前の、セックスの道具じゃない」
「何勘違いしてるか知らないけどさ」 
 すると、今度はやさしい声と手つきで、誠の肩を撫でる。ぞわりと鳥肌が立った。
「あいつとは一回寝ただけだよ。綾野の方がよかったんだよ、やっぱり」
 嘘だ、と直感した。一回寝ただけの相手に、どうして合鍵を渡す必要があるというのだろう。
「綾野。俺、痛いことしたくないんだよ」
 言いながら優がポケットから取り出したのは、小さなサバイバルナイフだった。近づけられて、本能的な恐怖に身震いする。
「とりあえず、部屋に入ろうよ」
 従うほかなかった。後ろからぴたりと優にくっつかれて、震える手で鍵を回す。入ると、後ろ手に鍵を閉め、優は嬉しそうに笑った。
「玄関が嫌だったんだよな。ちゃんと今日は、ベッドでするから」
「で、も、今日は女の服、無いし」
「制服はどうしたの?」
「クリーニングに、出してる」
 それは嘘だった。正直、もう女装などしたくなかったのだ。本物は今紙袋に入ったまま、クロゼットの奥に隠してある。優はふうんと言って、誠の部屋を見回している。
「じゃあしょうがないな。ただ、暴れられないように縛っとかないと」
 優の言葉にぞっとする。誠は先にシャワーを浴びたいと言ったが、許してもらえなかった。かちゃかちゃとジーンズのベルトを外し、誠の手首をひとくくりにして後ろ手に縛る。今度は誠のチノパンのベルトも外されて、今度は足を括られた。ミミズのように這うことしかできなくなり、いよいよ恐怖を感じる。今だけ耐えればどうにかなる気がして、誠は黙っていた。
 尻を突き出す格好を取らされ、優のものを舐めさせられる。そのうち大きくなった優のものを挿入された。誠はほとんど悲鳴に近い声を上げていたが、シーツを噛んでやり過ごした。まだ癒えていない傷が擦れて、気を失うほどの痛みだった。気持ち良さなど、微塵も感じない。しかし優は熱に浮かされたように誠を犯し続けた。


 いつのまにか日が落ちていて、ほとんど気絶するように寝た誠は、夜中に目を覚ました。優は寝ている。それを見て、誠は逃げ出すことを決意していた。激しい運動に、ベルトは緩んでほとんど取れかかっていた。急いではずして、足元にくしゃくしゃになっているズボンをはき、外に出る。鍵は持ってきたが、朝起きた優が怒ることは間違いない。しかし、とにかく逃げなくてはと言う気持ちでいっぱいだった誠は、そんなことを考えている暇はなかった。財布一つ持たずに飛び出してしまった。
「……、くそ」
 しかし、思ったより足元がおぼつかない。長い時間拘束されたせいで筋肉が固まっているうえ、無理やり犯されたが痕があちこちに残っている。腹も左頬も痛いし、一歩一歩を踏み出すのがやっとの状態だった。
「……どこ、行くつもりなんだ、俺」
 勝手にあの店を目指している自分に、本当に嫌気がさす。二度と来るなと、言われたばかりだ。合鍵すらもらえないままずっと恋人を気取っていた、間抜けな男。冗談なのに泣けてきて、繁華街に入ったころには疲れ果ててネオンが目に痛かった。適当に小道に入ってただ歩く。ここはどこなのだろう。優は上半身は脱がせないので薄手のTシャツにパーカーという格好だったが、それでも入り込む冷気がどんどん体温を奪っていく。
「財布くらい、持ってくればよかったな」
 このままではどの店にも入れない。友達に連絡しようにも、携帯電話もない状態では到底無理だった。仕方なくどこか休める場所を探すことにする。
 歩き回って、繁華街の外れの小さな休憩所の中に入った。トイレとベンチがあるだけの待合室のようなところだ。それでも、外よりはましだった。ひっそりと静まり返るそこに腰を下ろすと、横になる。時折足音が聞こえたが、声をかけられることはなかった。
「君」
 ゆすり起こされたころは、もう明け方だった。誠は起き上がってぼうっとした頭で自分を起こした人物を見上げる。顔はよく見えなかった。
「……はい」
「帰るところないの?」
「……」
「僕と一緒に来ない?」
 彼の手が誠の肩に触れる。瞬間、ぞわりと肌が粟立って、誠は立ち上がった。
「あ、すみません……」
「なに、こわいの?」
 怖い。誠はふらつく足で休憩所を出ると、振り返らずに走った。帰ろう。優がいても、酷いことをされても、それは優だ。耐えられる。
 ――耐えるって、なんだ。
 誠は笑った。なんで耐えなきゃいけないんだ。何かがおかしい。好きなはずなのに、ようやく自分を見てくれたはずなのに。
「誠!」
 声が聞こえて、誠は足を止めた。自分のことを誠と呼ぶのは、あの男以外にない。
「浩二さん……」
 彼は仕事着のまま走って、誠の前で止まった。
「悪かった!」
 そして、頭を下げる。誠は驚いて、半歩下がった。
「なに、なんで謝るんですか」
「お前に酷いこと言った。頭に血が上ってたんだ」
「気にしなくてもいいですよ。本当のことだから」
 誠は薄く笑った。顔を上げた浩二と目が合う。彼は少し困惑したような顔を見せると、手を誠の前に突き出した。
「これ……お前のだろ」
 見ると、シルバーのシンプルな鍵だ。唯一自分が家から持ち出したものなのに、いつの間に落としてしまったのだろう。
「ありがとう、ございます……」
 それを受け取りながら、誠はじわりと視界が歪むのを感じる。
「誠……?」
「……俺も、合鍵がほしかったんだ」
 つぶやきながら、一気に納得した。それが彼女と自分との決定的な違いなのだ。信頼。愛情。そういうものが少しでも欲しかったのだ。
 泣いて慰めてもらおうだなんて最悪だ。目を伏せると、少し気持ちの整理がついてきた。
「浩二さん、俺を抱いてくれませんか」
「は……」
 浩二のあまりに深刻な表情に誠は笑った。知っている。それが自分にとってどれだけ切実なことなのか、同時にこの男にとってどれだけ無茶なことなのか。
「なんて顔してるんですか。……ただ、ちょっと言ってみただけですよ」
「試して、みるか?」
 その答えを誠は待っていたのかもしれない。浩二は誠の手を控えめにとると、意志を持って歩き出す。誠の歩き方がぎこちないのをすぐ察したのだろう、歩くペースを合わせてくれた。
 一緒に歩きながら互いに無言だったが、優しすぎる、と誠はぼんやり考えていた。



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