僕は僕である彼女を愛せない 5

 小ぢんまりした住宅街の緩い坂を上っていくと、常時黄点滅の信号のそばにそのアパートはあった。自立しているのだろうとは思っていたが、築30年はくだらないだろうというアパートを前に少したじろいでしまう。
「ぼろい、って思ったろ」
「……少し」
「正直でよろしい。まあついてこいよ」
 鉄階段をカンカンとのぼっていく。その後に続きながら、見れば見るほど年季を感じさせる壁のひびを思考から追いやった。
「角部屋だけど、片方の窓開かないんだよなぁ」
 ぶつくさ言いながら、浩二は見るからに立てつけの悪いドアを無理やり開け、玄関に進んだ。
「あ……中は結構きれいですね」
「そうだろ」
 誠がつい漏らした本音に、浩二は笑う。入るとすぐ横に台所があって、綺麗に使っていることが一目でわかる。さすが料理長だ。
「部屋、ちょっと寒いかも。暖めるな」
 エアコンのリモコンを弄っている浩二の横をすり抜けて部屋に入ると、6畳ほどの畳部屋には卓袱台と小さいテレビ、大量にあるファイルの他は料理関係の本や正体不明の袋やら紙やらが転がっているだけだった。それでも、優の部屋より生活感がある。敷布団は押し入れの中にしまっているのだろうか。
「あの……」
 誠が所在なさげにしていると、浩二はテレビをつけてからそれをおかしそうに眺めた。
「まあ、朝飯食ってないんだろ。ちょっと待ってろ、何か作ってやるから」
 この男は、誠をどうしてここに連れてきたのか覚えているのだろうか。誠はまどろっこしさを感じつつも部屋を見回した。
「すみません、シャワー……借りていいですか」
 優にめちゃくちゃにされた体のあちこちが、精神と共に疲れ果てていた。浩二は誠の提案にやはりなにか察したようだった。詮索はせずに、「脱衣所ないからここで脱いでいけよ」とだけ言った。
 こんなに古く感じる建物でも、風呂とトイレが別だったのには驚いた。優の部屋より少し狭く、見慣れないタイルの風呂場は不思議な心地がしたが、いくらか落ち着いた。抱いてくださいと言ってここまできたのに、彼は朝食を作っているし、自分はシャワーを浴びている。まるで恋人同士のようだ。
「……おかしいな」
 自然と笑いがこみあげてきて、誠は自分とも優とも違うシャンプーの銘柄を目でなぞった。
 風呂場から出ると、台所には微かな味噌汁の匂いだけが残っていた。マットの横に、バスタオルとジャージがあり、反対側には自分が脱いだ下着が置かれている。このジャージを貸してくれるということなのだろう。足を通してみると、僅かに裾が余って閉口した。しかし彼に悪気はないはずである。
「おう、あがったか」
「……」
 小さな卓袱台に並べられた焼き魚とほうれんそうのお浸し、ご飯とみそ汁から立ち上る湯気。目に映るそれらがやけにまぶしく見えて、誠は目を細めた。
「浩二さんは、毎朝こんなに食べてるんですか?」
「こんなにって、普通だろ。まあ食えよ」
「いただきます」
 焼き魚を割って口に運ぶ。塩加減が絶妙で、文句なしにおいしかった。一口食べると、胃が動いて二口、三口と続く。しばし夢中で食べていると、浩二に見られていることに気付いてふと手を止めた。
「……なんですか」
「いやあ。どう?」
「おいしいです」
「そうか」
 そんなに物珍しいのだろうか。浩二は満足げにうなずいて、ようやく自分の食事にも手を付け始めた。黙々と食事を続けるだけの二人の空間は、以前感じたように不思議と心地よかった。いまだに湯気の立つなめこの味噌汁だけを残して平らげると、誠は正面の男に向けて頭を下げる。
「……ごめんなさい」
 誠の言葉に、浩二は僅かに表情を曇らせた。その目線は残っている味噌汁にある。
「あれ、なめこ嫌いだったか?」
「猫舌なんです。そうじゃなくて、……浩二さんは謝ったのに、俺はまだだったから」
「なんで、誠が謝るんだよ?」
「俺もつい酷いこと言ったし」
 味噌汁にようやく手を付ける。体の中がじわりと熱くなって、あの諍いがずいぶん昔のことのように感じられた。浩二はにっと笑うと、「じゃあ仲直りな」と言って、手を差し出してきた。それを握って、露わになった右手首の痕に気付いてすぐに引っ込める。無理に縛られていたせいか、明るいところで見ると痛々しい痣になっていた。 
「……あの男と会ってたのか」
 浩二は空いた皿を片しながら、何でもないように訊ねた。誠の部屋にまだ彼はいるだろうか。逃げたと知ったらどうするのだろう。考えたくなくて、誠は目を逸らした。開かないという片側の窓から見えるのは、庭に植えられた木だ。桜だろうか。咲いたらきれいなんだろうな、とぼんやり考える。
「少し――休んだ方がいい」
 ぽんと頭を撫ぜられる。残りの味噌汁を飲み干すと、確かに疲れはたまっていたらしい、一気に体が重くなった。
「何時から行くんですか? 仕込み」
「あー、ちょっと寝てからな」
 そういえばこの男も寝てないのかもしれない。何か言おうとして口を開いた瞬間、ブー、ブーと振動音が響いた。浩二は畳の上に転がしていたそれを取ると、番号を見て少し不思議そうな顔をした。「ちょっと」と言って廊下に行く。
「はい、もしもしー」
 営業用を思わせる声のトーンだった。こんなこともよくあるのだろう。何か話していたようだが、すぐに戻ってくる。その表情は固い。
「……お前にだ、電話」
 浩二が静かにそう言って、誠は一瞬意味が分からなくてぽかんとしたが、次の言葉ですべてを理解して戦慄した。
「春日井って男から」
「……なんで」
 そう考えてはっとした。そうだ、もらった電話番号のメモを財布に入れっぱなしだった。
「貸してください」
 浩二は何かを思って渡すのを渋っていたが、誠が無理やり奪ったので、後は心配そうに見てくるだけだった。やっぱりそうか、とでも言いたそうだ。
「……もしもし」
『綾野、その男誰?』
 一段と暗いトーンの声はかすれていた。嫌な予感が胸をざわつかせる。
「ただの親切な人だよ。………なんかしたら、ゆ、許さねーから」
『なに? よくわかんないけど、自分もやってんじゃん』
 優は電話の向こうで笑っていた。誠は青ざめて、「違う」とかろうじて反論する。浩二は関係ないのだ。この人に何かあってはならない。絶対にダメだ。
『――あのさあ、逃げられると思ってんの?』
 喉がひりつくような感覚がして、一瞬唾を飲み込んだ。
「っ……ごめん、帰る、から……俺どうかしてた。どうかしてたよ」
『いいよ、帰ってきてくれなくても』
「……え」
『迎えに行くから』
 そこで電話はぶつりと切れた。おかしい。優の様子がおかしい。だって、迎えに行くって、どうやって――?
「……俺、もう帰ります」
 誠は玄関に急いで靴をひっかけた。しかしそこで浩二に腕を掴まれる。
「何言われたんだ」
「べつに、なんでも……」
「帰るなら、俺もついていく」
「な、何言ってんですか」
「そいつには妹の借りがある」
「ダメです、絶対!」
 浩二の顔は見れなかったが、それだけははっきりと言うことができた。
「これは、俺とあいつの問題なんで」
 不安が爆発してしまいそうだ。片方の靴を履きつぶしてドアノブに手をかける。しかし浩二の手が腕から離れてくれない。
「あの」
「お前は、そいつが好きなのか」
 驚いて、思わず振り返った。浩二の表情は深刻で、茶化しているとか、そういう様子はちっとも感じられなかった。
「……わ、わかん、ない」
 当たり前だ、と答えたはずだった。
「それ、お前さ、」
 なぜだろう。やけに静かなその言葉の続きを聞きたくないと誠は思った。
「本当はもう……」
 鍵を片手で開けて、無理やりドアを開けた。ひやりとした空気を割るように、いつのまにか上った太陽の柔らかな光がさす。まだ湿った髪はすぐに冷たくなったが、誠はこの場から逃げなければならなかった。逃げる――。
「まだ逃げんのか!」
「っ……」
 誠は息を詰めて、動きを止めた。掴まれた腕が熱い。
「自分の問題とか言って、逃げんな。ちゃんと考えろよ! あいつのことと、あと、……俺のことも!」
 恐る恐る振り返る。浩二は真剣な表情だ。決して軽蔑しているわけでも、怒っているわけでもなかった。語気が荒いだけで怒って見えるのは少し損かもしれないと、思考の端で考える。
「悪かった。怒鳴るつもりじゃなかったんだ……とりあえず、部屋の中、戻れよ」
 確かに、この状態では二人の体でわざわざドアが閉まらないよう抑えているようなものだった。朝の凛とした冷たい空気が火照った体を冷やすのは心地が良かったが、誠は今度こそおとなしく部屋の中に戻った。考えるべきことはたくさんあるし、考えたくないこともたくさんある。ただ、逃げる場所はもうないのだ。それだけは確かだった。
「……あいつ、迎えに行く、って言ってた」
「今、電話でか?」
「…………妹さんが、この家に来たことは?」
 浩二はようやく閉まった扉の内鍵をかけ、手をさすりながら天井を仰いだ。
「ここにはあんまり。俺も帰るの遅くなるし、店の方に来ることのが多いだろ」
 そういえば、佐伯も美加のことを知っているようだった。苦手だとは言っていたが……それは言わない方がいいだろう。
「念のため、お店に、連絡してください……あいつ、何するかわかんないから」
 誠の深刻そうな様子を、浩二は茶化すことはしない。ただ黙って、かけたばかりの内鍵をもう一度開けた。
「俺、仕込みのついでに店に寄るから、見てくるわ」
 結局寝る暇はなさそうだと笑いながら、ジャケットを羽織る。そして浩二は目をうろうろさせ、キッチンの引き出しをまさぐる。やがて何かを取り出し、こちらに放った。
「え……これ」
 反射的に受け取ったのは、キーホルダーも何もついていない、シンプルな鍵だった。
「スペアで悪いな。お前はひとまず寝てろ。冷蔵庫の中のもんは、適当に食っていいから」
 浩二は誠の返事も聞かず、外へ出て行った。取り残された自分は、呆気に取られるほかない。
「……スペアキー」
 ようやく暖まってきた部屋にごろんと横になると、畳の匂いがする。思わず握りしめていた掌の体温を吸って、そのシンプルな鍵はほんのりと温かかった。



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