走る。走る。目の前がガタガタ揺れて、下手なカメラマンみたいに視界がブレる。 汗が全身にじわりと浮かぶ。寒いんだか熱いんだか分からない。ただ、自分の心臓だけがドクドクと高鳴っている。うるさいくらいに、それだけが頭に響いている。 走る。何でこんなに走らなきゃならないんだ。後ろを向く余裕は無い。廊下の突き当りを曲がると、階段が姿を現した。上りと下りだったら下りのほうが好きだ。余計な体力を使わなくて済むから。運動は好きじゃない。 なんだって、こんなに走らなきゃいけない。もう嫌だ。でも、あいつに捕まるのはもっと嫌だ。追いかけられたら逃げたくなるのは人間の性で、それにしてもこんなに全力疾走したのは何年ぶりだろう。しかも、こんな恰好で。スニーカーを履いてきたことだけが唯一の救いだ。 「待てよぉ、サカキくん!」 階段を一歩踏み出したとき、後ろから怒号と共に確かな気配を感じた。だめだ。追いつかれる。咄嗟の判断で、体を大きく捻る。すっかりくたびれた足を酷使して手すりを乗り越え、踊り場をショートカットする。 それでも、奴は早い。 「つかまえ、た!」 「くっそおお!」 掴まれた腕をそのままに、腹に重心を移す。自分の体が支点になって奴を引っ張ると、そのまま二人分の体重で階段を転げ落ちる。世界がぐるぐると回って、頭の中がちかちかと点滅した。 「ぐっ……」 逃げなきゃいけない。まだ、走らなきゃいけない。 ベルト通しの一つに取り付けられたしっぽが微かに視界の端に入る。汗でワイシャツがへばりついて気持ち悪いが、どうしようもない。 顔を上げる。そして、がくがくと震える足を叱咤して立ち上がると、再び走り出した。 *** どうしてこんなことになったのか。 榊理玖はその日、友人の大槻尚人と共に、都内のとある学校へ赴いていた。 私立七川学校は、近代進んで導入された小中高一貫校の一つだったが、国が進めたこの制度は難航し、膨大な敷地をそのままに、去年あっけなく廃校になった。まだ新しい校舎のグラウンドには、多くの若者が集まっている。 「大丈夫かなあ、この国は」 仮設された受付テントの列に並びながら、後ろで尚人がそうぼやく。 「国の前に自分の心配をしたらどうだ」 ため息混じりにそう返すと、尚人は眉を潜めて背中を丸めた。 「うえ、確かに……。テストって、何かなぁ。筆記テストとかだったら、俺死ぬ」 「俺だって、スポーツテストだったら、死ぬよ」 「理玖は運動オンチだもんな!」 「楽しそうに言うなよ」 大学卒業を間近に控えた十二月。国がヤケを起こしたと専らの噂である『能力判定テスト』は、その内容を一切明らかにしないまま、ついに第一回が行われようとしていた。就職難が続く現代において「適材適所の人材派遣を」というのが実施の理由らしいが、そんな訳も分からないテストで勝手に就職先を振り分けられてしまうのは正直納得できない。それに、 「俺、内定決まってるのにさあ……」 「俺もだよ」 もちろんこんな学生だってたくさんいる。正式に決まったのが十月なのだから、当たり前だ。まだ取り消しの連絡は来ていないが、一旦保留という形になっている。テストの結果とやらを考慮して決めなおすということだろうか。 「でもさ、これで成績が良かったら良い会社に入れるんだろ?」 「まあ、そういうことらしいけどな」 理玖は家に送られてきた安っぽいパンフレットを思い出す。仕組みは大雑把に説明するとこうだ。能力判定テストは全国800弱の大学全てで一斉に行われ、結果によってそれぞれの最も適切な会社に振り分けられる。事前の説明も禄に無かったからそれ以上は分からないのだが、どうやら近年の全ての人に等しく就職先を与えるというのが理念の一つのようだ。キャッチフレーズは、『明るい未来を、皆の手に』。 「左翼っぽくて嫌だな、俺は。皆に平等に仕事を与えて、それで解決できることじゃないだろ」 「サヨクってなに」 「……。尚人、共産主義って、知ってる?」 「……」 「……いい。何でもない。俺が悪かった」 わざとらしくため息をつくと、尚人は不服そうに口を尖らせている。しかし何か言う前に順番が回ってきたので、理玖はぱっと前へ向き直った。 「榊理玖。N-109番です」 受付の無表情な男性は名簿にチェックをつけたあと、白い紙袋を理玖に差し出す。受け取って前へ進むと、後ろから同じく紙袋を貰った尚人が小走りに着いてくる。それにしても、随分とむさ苦しいところだ。テストは男女別々に行われるため、この会場には女気の欠片もない。 「なー理玖、中身なんだった?」 「まだ見てない」 「スーツだぜ、これ!」 「スーツ?」 私服で来いとの指定だったのだが、これに着替えろということだろうか。スーツを着て行うテストとは一体なんだろう。面接だったらいいと理玖は思った。頭を使う方面は得意分野だ。 「それでは皆さん、今日はお集まり頂きありがとうございます」 校内放送のスピーカーから割れそうな声が聞こえてきて、ざわついていた会場がざっと静かになる。小・中・高全ての校舎で流しているのか、声が何重にもずれて聞こえる。 「これから、第一回、全国能力判定テストの説明を開始します」 隣に立っている尚人が呑気に欠伸をしている。緊張の欠片も無いやつだ。 「皆さんには、配布したスーツに着替えてもらいます。ネクタイにはそれぞれ番号が刺繍されているので、同じ番号の人を見つけて本部まで来てください」 ざわりと、ざわつきが戻ってくる。困惑の色を浮かべた喧騒だ。 「ただし、ネクタイはズボンの後ろのベルト通しに結ぶこと。ネクタイの争奪は自由ですが、仮にネクタイを奪われてしまった人は失格とみなし、そこでテストを終了します」 尚人が紙袋からネクタイを取り出す。普通のネクタイよりも随分と短いが、根元は輪になっており、なるほど、ストラップの要領で括りつけろということだろう。 「俺、78」 こちらを向いてそう言うので、理玖も自分の紙袋からネクタイを探して引っ張り出す。同じ紺色のネクタイの裏側に、66と刺繍がある。丁寧に、数字の下に下線が引いてあるから間違いない。 「時間は十二時間。一時間後の正午から今日の深夜零時までです。終了までに同じ番号の人と本部まで来るか、終了時により多くのネクタイを所持していた者にそれぞれ高い評価を与えます」 ルール説明はそれだけだった。マイクのスイッチが切れる音が大きく響いた後、困惑の雰囲気は全体に広がる。しかし、一人が戸惑いを断ち切るように着替え始めると、次々と男たちが服を脱ぎ始めた。まったく、品のない光景だと理玖はこっそり思う。プライバシーはどうなってるんだ。 「つまり……同じ番号の人を見つければいいんだよな」 ジャケットを豪快に脱ぎながら、尚人がやけに神妙な表情で確認する。理玖もそれに倣ってパーカーのチャックに手を掛けた。寒がりの理玖としては、この寒空の下で着替えをするなど考えられない拷問だったが、テストが始まる前に失格になってしまってはそれどころではない。 「ベルト通しって、これだろ。……ああ、なるほど、ただ引っ張るだけじゃ取れないようにしてるんだな」 理玖がネクタイをいち早く取り付けると、尚人がそれを見て目を瞬かせる。 「なあ、見たことねえ? この光景。アレだよ、ほら、ガキの頃よく遊んだ……」 「しっぽ取りゲーム」 こんな洒落のきいたテストなんて、あってたまるか。理玖は憤慨を通り越した嫌悪を感じて、閉口した。 「でも、さ、皆が協力し合って同じ数字の人を探しあえば、失格者なんて出ないだろ」 尚人はわざと明るい声を出してそう言ったが、そんな簡単に行くわけはないことは本人とて分かっているはずだ。理玖は何も言わなかった。 「このスーツ、ぴったりだな」 「俺のもだぜ」 ますます気味が悪い。ノーネクタイにどうも落ち着かずに、上着のボタンは外しておいた。最初からスーツを着ると分かっていたなら革靴を履いてきたのにと、理玖は舌打ちしたい気分だった。学生らしい黒と赤のスニーカーは、どう見てもスーツにミスマッチだ。 「着替えと荷物は、受付に預けてください。服装チェックも行います」 全校放送のスピーカーではなく、先ほど紙袋を貰った受付の人が、拡声器でそう叫んでいた。ばらばらになっていた人が一列に並び始める。皆が一様に同じスーツを着て、尻から紺色のネクタイをぶら下げている様は、なんとも滑稽だった。 係員がネクタイの付け根をチェックして「シッポ、オーケー」と言っていたのには笑ってしまったが、全身を無遠慮にべたべたと触ってきたのには正直うんざりした。なにも、こんな所でテロを起こすつもりなんかさらさらない。 「ケータイ取られちまった……」 同じくチェックを終えた尚人がうなだれている。 「そりゃ、一応テストだからな」 筆記用具すら没収されてしまったのには確かに首を傾げざるを得ないが、それも「平等」ということなのだろうか。それなら革靴も支給してくれよとこっそり思った。適当にその場を歩いていると、ぷつりとマイクのスイッチが入る音がする。少しの雑音の後、先ほどルール説明をした人の声が再び流れてきた。 「十分前です。実行委員会会長、安藤信夫から挨拶があります」 安藤信夫。彼の名はテレビや新聞でよく目にする。このふざけた制度を考え付いた張本人であり、その強力なバックを駆使して今回のテストを無理やり可決に持ち込んだタヌキじじいだ。不思議なことに、週刊誌や新聞でこき下ろされてもその強引さは全く変わらない。世論などあってないようなものだ、と思っているのかもしれない。 録音なのか、少しのノイズと共に、最近すっかり聞きなれた声が流れてきた。その内容を半分も真面目に聞くことができなかったのは、隣で尚人が興味深い話題を振ってきたからだ。 「この会場に、あの会長の息子がいるって噂だぜ」 安藤信夫に息子がいるということは知っていたが、まさか同級生だとは思わなかった。それにしても、 「随分若い息子だな?」 彼は今年六十歳になったと報じられていたはずだ。こんなどうでもいい話題まで覚えているのは、小さい頃から毎日、新聞を読む習慣がついているからに他ならない。思ったことをそのまま口にすると、尚人はこの先を言いたくてたまらないんだというように楽しげに口を開いた。 「奥さん、十歳下の美人妻なんだって」 なんでそんなことを知っているのかは聞かなかったが、十歳下でも五十歳だぞと心の中で突っ込みを入れる。昔は美人妻でもいずれは等しくオバサンだ。尚人は熟女好きだっただろうか。 「名前は?」 「安藤ナントカ」 「それは知ってるよ」 しかし、尚人も下の名前は知らないようで、黙って首をすくめた。取り繕うように、「でも、」と続ける。 「なんか、すっげえ変人奇人なんだって」 「……へえ」 リアクションの仕様が無い。思わず周りを見回してみたが、『変人』なんていうくくりに入れられるような人は一見見当たらない。そのうちに、どうやら会長の演説は終わりそうになっていた。 「――皆さんの若い力に期待します」 拍手はひとつも起こらなかった。正午を告げるチャイムが鳴って、誰からか一斉に走り出す。理玖は走るのが大嫌いだ。しかし今回はそんなことも言ってられない。尚人を見失わないように走って、目の前の中学校の校舎に飛び込む。後ろを振り向くと、運悪くも転んでしまった男が別の男に馬乗りにされていた。ぞっと悪寒が走って、それ以上見るのをやめる。 「おい尚人、着いてきてるか?」 「お前に言われたくねえ、よ!」 三つの校舎にばらけたとはいえ、まだ一緒に走っている男たちも多い。階段を昇って上へ上へと逃げる者、いい隠れ場所を探して教室に飛び込む者、徐々にその数は減っていく。ついに三階まで上ったとき、 「……あっ!」 叫び声と共に、ふと隣を走っていた尚人の気配が消えて、理玖は足を止めた。振り向くと、尚人の腕を掴んで捻り挙げている男と目が合う。瞬間、その目がニタアと歪んで、片手で器用に尚人のしっぽを抜き取った。何かを言う暇も無かった。尚人の顔は恐怖と苦痛に引き攣っていて、抵抗の一つも出来ないようだ。 「尚人!」 「残念、僕の数字じゃないや」 「り、理玖……」 尚人は震える声でそれだけを搾り出すと、喘ぐように口を大きく開けた。助けようにも、このままでは勝ち目は無い。頭を使え。理玖は混乱する頭を必死に整理する。 「君は、サカキ君だよね。僕、知ってるよ」 「……俺は、あんたのことは知らない」 「僕? 僕はね、安藤良。よろしくねえ、サカキ君」 ――安藤。痛みに歪む尚人の表情が僅かに変わる。こいつだ! と言わんばかりの、悔しそうな顔。変人奇人。確かに、噂どおりの人物だ。 「尚人を、放せよ。もうそれ取ったんだ、いいだろ」 言葉を選んで慎重に声にする。すると安藤は少し考える素振りを見せた後、「いいよ」と言って、尚人の腕から力を抜いた。ほっとした瞬間、尚人の表情が焦ったように鋭くなる。 ――に、げ、ろ。 そう尚人が叫ぶのと、安藤がこちらへダッシュをかけたのは、ほぼ同時のことだった。 *** だから走るのは嫌だ。口から心臓が出そうな感覚が気持ち悪い。理玖は冷静にも、そんなことを思った。 安藤からどうにか逃れてたどり着いた先は、人気のない理科室だった。ここならば大きな実験台に身を隠すことが出来る。出来てまだ間もないということが実感できるように、備え付けのシンクはピカピカだった。理科室独特の薬品の匂いも、殆どしない。 しばらく息を潜めて、追っ手が無いことに安堵した理玖は、思わず膝から崩れ落ちた。緊張の糸が切れてしまったせいだろう。こんなに走ったことなんて本当に久しぶりだ。火事場の馬鹿力というやつだな、とぼんやり思う。 そして厄介なことに、思い出したように左肩が痛み始めた。さっき思い切り打った所だ。脱臼でもしているのか、腕が上がらない。痛みで頭がぼんやりとしてきた。そういえば、尚人はどうなっただろう。しっぽを奪われれば失格だと言っていたが、それならもう危険なことは無いのかもしれない。安心している自分に思わず苦笑する。自分だって、もう一度あの男に会ったら今度こそ逃げられないだろう。 「おい、そこに誰かいんのか」 入り口から聞こえた声に、びくりと心臓が跳ねた。声の主が安藤ではないことはすぐに分かる。立ち去ってくれと願いながら、理玖は息を殺した。見つかったら逃げられない。足が全く言うことをきかないのだ。 しかし願いとは裏腹に、何かを感じ取ったらしい男がこちらへ真っ直ぐ向かってくる。せめてもの抵抗に、傍らの椅子の足を掴むが、如何せん片手が使えないので、圧倒的不利に変わりは無い。 互いに息を潜めたまま、静かに対峙する。すると、男が軽く目を瞠った。 「……お前」 理玖も同じだった。リアクションする気力と体力が残っていなかっただけで、今自分と目が合っている男に、確かに見覚えがある。 二宮久二。彼は、理玖の通っていた大学の中でも有名人だった。180センチを超える長身がそうさせていたのかもしれない。サークルには入っていなかったようだが、どこかで鍛えたかのようなしなやかな筋肉がついている。 「始めに言っとくが、俺は99だ」 覗きこんでくる無表情がつむいだその言葉に、理玖は息を呑んだ。このタイミングでそれを言うことに、何の意味があるだろう。温和に済めばいいが――さっきの安藤の姿を思い出す。この男も、理玖が用無しと知るやいなや、しっぽ取りに目的を移行させたとしたら。 ゆっくりと、立てた膝に力を込める。もちろん、この状況でいきなり飛び出してもつかまることは目に見えているので、あくまでチャンスを待つのだ。 「お前、榊だろ」 「……俺の名前、よく知ってたね、合わせ目さん」 ぴくりと、久二の顔が反応した。「合わせ目」というのは、「二宮久二」を数字に当てはめると2992になる……それだけの、くだらないふたつ名だ。誰が考えたのか知らないが、それを久二が好いていないことは知っていた。 「ただ、俺は66。残念だったな」 「……」 黙りこんだ久二の目が鋭い。理玖がひねった左腕になるべく体重をかけないように姿勢を変えると、久二の手がさっと伸びてきて肩を掴まれた。そのまま壁に押し付けられる。 「っ……」 左肩に衝撃が走って、思わず顔を歪ませた。 「シッポ、取られてえか」 「そりゃあ、穏やかじゃないね」 本気でまずいと思った、そのときだった。静かだが、確かに人の足音が聞こえた。その一瞬、久二の集中が途切れた隙に足に力を込めて駆け出すが、あと一歩と言うところで左腕を掴まれてしまう。 「待てよ」 そこを負傷しているということが分かっているのだろう。しかし絶望的な状況とは裏腹に、思考はぐるぐると動くのをやめようとしない。理玖は覚悟を決めて腕の力を抜き、逆に久二に詰め寄る。そして背伸びするように顔を近づけると、 「な――」 自分の唇を久二のそこに押し付け、力いっぱい噛んでやった。 「……クソ野郎」 腕を掴む久二の力がふと緩む。捨て台詞は聞こえただろうか。 「榊!」 制止の声などもちろん聞かずに走り出す。まだ走ることが出来たのかと、自分でも不思議なくらいだ。教室を出る瞬間、小柄な男にぶつかったが、立ち止まっている暇は無い。一気に廊下を駆け抜ける。 口の中に唾液と混ざった血の味がいつまでも残っていて、それが理玖の煮えきった頭をいくらか冷静にさせた。 |