しっぽ取りゲエム 中編


 榊理玖。トップの成績で合格したN大の特待生として、彼は有名だった。特に良い噂も悪い噂も無く、特待生にしては珍しくも「ごく普通」の学生だったのだろう。しかし順位を縦に並べるとだいたい底の方にいる久二にしてみれば、頭のいい理玖はおよそ近寄りがたい人種に振り分けられるのだ。
 ついに会話をしたことは一度も無かったが、二年生のとき、深夜のコンビニでアルバイトをする彼の姿を見かけたことがある。理玖は酔っ払いの男になにやら因縁をつけられて絡まれていた。恐らくその事件が無ければ気づきもしなかっただろう。久二はほんの好奇心で、どうなるかと成り行きを見守ったのだ。彼は最後まで人のいい笑みを崩さなかったが、その目だけは恐ろしいほど冷え切っていた。軟弱とばかり思っていたガリ勉男が意外と根性のある奴かもしれないと感じたのはそのときだ。
 ……そして、それが気のせいではなかったと分かったのがたった今。
「榊……ですよね。今の」
 久二が理科室の入り口を呆然と見つめていると、トイレに行っていたはずの川田幸彦が表情を曇らせながら戻ってきた。その言葉にようやく我に返って、黒い机に備え付けられているシンクに唾を吐き出す。案の定、血の塊が出てきた。思い切りかまれた下唇がズクズクと痛んでいる。
「二宮さん? ……まさか、アイツが何か」
「なんでもねぇ」
 噛み付かれたなどという失態を、軽く口に出すのは憚られた。久二の様子に気づいているのかいないのか、川田は黙って入り口のドアを閉める。
「……榊理玖。授業料全額免除の、特待生でしたよね」
「知ってんのか」
「俺、あいつ苦手です。勉強できるし顔もいいけど、性格きついらしいし」
 なるほど、確かにいい性格をしているようだった。しかも、負傷している肩を庇いながら息を切らしてこちらを睨む恰好は驚くほど様になっている。咄嗟にその顔を張り倒すことが出来なかったのは、ほんの一瞬彼に見とれてしまったからだった。それこそ屈辱的で認めたくないことだが、在学中はさぞ女にもてただろう。
「始まってまだそんなにたってないはずなのに、ボロボロだったぜ」
「……榊が何をしたかは知りませんけど。なんか、愉快犯が出てきてるらしいですよ」
「愉快犯?」
 川田はさっきよりも更に眉間の皺を増やして、忌々しそうに口を開く。
「つまり、数字合わせなんてまどろっこしいことはハナから諦めて、しっぽ集めに専念するんです。しかも、わざわざエリート志向のおぼっちゃんを狙って」
 この試験で重要視されるのは、同じ数字を持つ者を見つけることの他に、しっぽを多く集めた者というのがある。いったい誰のための配慮なのか知らないが、実行委員会もよくそんなルールを採用したものだ。探し人が見つからないことに煮えを切らした多くの人がその救済策に齧りつくことになるのだろう。
「……そのほうが堅実なんだろうな」
 誰に言うでもなく呟く。しかし、その言葉に秘められた諦念に川田は気づかなかったようだ。
「あんな奴が上流社会に出たら、日本が終わります」
 そう断言する。
「会ったのか」
 久二の問いかけに川田は一瞬たじろいで、俯いた。少しだけ考え込む仕草をする。
「知らない奴が襲われてるとこを見ただけです。……あいつ、榊の行き先を聞いてた」
「誰だ?」
「……気になるんですか」
 川田は恨めしそうにそう呟いた。久二が沈黙を通していると、やおら顔を上げる。真剣な表情だった。
「安藤会長の息子。……安藤良」
 さて、どうするべきか。久二は思案して、腕を組んだ。脳裏には理玖の姿が浮かんでいる。あの目。あの目をもう一度見たい。
 無意識に唇を舐めると、乾きかけていた傷が開いて、じんわりと血の味がした。



***



「さっきはよくもやってくれたよねぇ。背中、すっごく痛いんだけど」
「奇遇だな。俺も痛い」
 なんでこうも、運が無いのか。理玖はほとんど棒のようになっている足を一歩後退させて、逃げるタイミングを図っていた。
 久二からどうにか逃れて、とにかく隠れ場所を探そうと歩いているところを見つかってしまった。まだ距離はあるが、理玖を見て安藤はにたりと微笑むと、皺一つ無いスーツのポケットから何かを取り出す。
「逃げようとしても無駄だよ。サカキ君のせいでさ、お目付け役に見つかっちゃったからぁ」
 何の勘かざっと鳥肌が立って後ろを振り向くと、物々しい大男が二人並んでいた。自分と同じくスーツを着てはいるが、ネクタイをきちんと締めている。その時点でこのテストの参加者でないことが分かった。サングラスの向こうに表情は見えない。映画みたいだと、呑気にもそんなことを思う。さすが、会長様の大事な息子は扱いが違うようだ。
「ルール違反じゃないのか、これ」
「だって、ゲームにチートは付き物じゃない?」
 安藤は笑顔を崩さない。手にしたものを軽く振ると、カチリと音がして銀の刃がむき出しになる。折りたたみナイフだ。こんなものを振り回されたりしたら、ひとたまりも無い。今まで普通の生活をしてきた理玖はもちろん戦闘訓練など受けたことはないし、こんな状況に耐性も無いのだ。
 しかしそれでも、なけなしのプライドが邪魔をして、彼の前に膝を折って取りすがろうという気はちっとも起こらなかった。理玖は内心ばくばくと鳴る鼓動をどうにか無視しながら、唇の端をあげる。さぞや余裕の無い笑みになっただろう。酔っ払いのオヤジに絡まれたときとは訳が違う。
「……見逃してくれる条件は?」
「なにそれ。キミさぁ、そんなにエリートになりたいの?」
「生憎、うちは貧乏なんでね」
 たっぷりと皮肉を込めて言ってやる。安藤は「ふうん……」と興味なさげに頷いて、しばし思案した。こんなに堂々と廊下を占領しているのに、時折ばたばたと音が聞こえるほかは誰の姿も見えない。さすがにこんな状況でのこのこと姿を現すほどの馬鹿はいないということだろうか。気味の悪さを感じて、思わず眉を顰めた。
「そうだ、いいこと思いついた」
 安藤の目が眇められる。遊ばせて、ワックスで固めているであろう髪を揺らして、冷たく笑った。
「口でシてくれたら、見逃してあげるよ」
「……は」
 予想外の提案に思考が停止する。その間に安藤はすぐ近くまで寄ってきたが、如何せん、後ろにSP紛いの男たちがいるせいで後ずさることも出来ない。一歩も動けないうちに、安藤が目の前まで迫る。
「嫌ならもらうよ、そのシッポ」
 ひやりと、喉にナイフが突きつけられる。目は安藤から外すことができないのに、意識は首の神経に集中していて、唾を飲み込むことすら出来ない。――吐き気がする。
「……わかった」
 理玖は唾を飲む代わりに大きく息を吸った。少なくとも彼が目の前の「お楽しみ」を手に入れるまで、しっぽを奪われるということは無いだろう。
「ただ、ここじゃ人が来る。……それくらいは譲歩してくれてもいいだろ」
「いいよ。じゃあ、あっちに行こうか」
 安藤はくるりと向きを変えて歩き始める。理玖は逃げる暇も無く、後ろの男二人にがっちりと腕を取られたまま、まるで囚人のように無理やり歩かされた。
「良さんに何かしようとか考えるなよ。俺はお前を殺したくない」
 右腕を取っていた男に、ぼそりと低い声で囁かれる。前をぶらぶらと歩く安藤の猫背を見つめながら、くそったれと心の中で吐き捨てた。
 先ほど飛び出した理科室を通り過ぎる。ちらりと見えた室内には、もう誰の姿も無いようだった。そのまま突き当りまで進み、階段傍のトイレへと誘導される。
「じゃあ、君たちはここで待っててね。誰も入れないように」
 格子状のタイルがひんやりとした印象を与えるトイレは、やはり新しかった。小窓から真昼の光が差し込んでいる。太陽の位置が下がってきたから、三時頃だろうか。
「綺麗だね」
 急に安藤に話しかけられて、理玖ははっと安藤に視線を戻した。
「この学校、実際に使われたのは五年くらいだからな」
 実際、このトイレの壁を見ても、いたずら書きどころか傷さえ見つけるのは困難だ。小窓のすりガラスを開けて飛び出したらこの男から逃げられるのではないかと、非現実的なことを思う。とにかく、会話だ。会話をして時間稼ぎをするしかない。
「そうじゃなくて、サカキくん」
 安藤はそこで言葉を切ると、値踏みするように理玖をまじまじと見つめる。静寂も手伝って、居心地が悪い。
「……何だよ」
 やっとのことで切り返すと、安藤は再び弓のように目を細めた。素早い動きで理玖の腕を取る。
「綺麗な顔してるなって、思ってたんだよ、ずっと!」
 思わず手を振りほどこうとしたが、ぴくりとも動かない。信じられない強さで掴まれている。
「……なんで知ってるんだ、俺のこと」
 感情を殺しながらそう問うと、安藤の表情がほんの一瞬だけ消える。
「君は知らないかもしれないけど、僕は知ってるんだ」
「は……」
 答えになってない。しかしそれ以上会話を続ける気はないらしく、安藤は片手で弄んでいたナイフを逆手に持つと、ためらい無く理玖の首に当てる。フリではない、本当に当たっているのだ。このまま力を入れて横に引けば、この男は簡単に自分を殺すことが出来るだろう。そのリアルな想像が、理玖の口から余計な言葉を奪った。
「しゃがんで」
 有無を言わさない、無機質な声だった。追いかけられたときとは違う、得体の知れない恐怖が背中を伝う。久二のような、感情むき出しの言葉は計りやすいのに、この男にはそんな小細工が通用しないのだ。
「しゃがめって言ってるだろ!」
 理玖が従わなかったのが頭にきたのか、今度は癇癪を起こしたように叫んだ。腕を掴んでいた手を理玖の頭に移動させ、無理やり力を掛けられる。勢いよく膝をついたのと同時に、ぴりと頬に痛みが走る。どうやら刃先が擦れてしまったらしい。血が出ているのかは分からない。確かめようと上げた手を掴まれたせいだ。
「ごめんね、痛かった?」
 その声音は、さっきの激昂が嘘かというような白々しいほど優しい。思わず下から睨みつけると、何が楽しいのか彼はにこにこと笑いながら理玖の頬に触れる。小さく電流が走ったから、やはり切れているのだろう。
「サカキくんが言うとおりにしないからだよ」
 安藤は切り口を指でなぞった後、それを口に含んだ。背筋が寒くなる。
「さ、はじめよう」
 まるで、手術台の上にいるような気分だった。逃げられないと悟る。
「……本当に、やるのか」
「あ、そっかあ、はじめてなんだもんね」
 安藤は理玖の確認を、行為に対しての不安と解釈したらしい。くすくす笑って、片手でジャケットの内ポケットから青いネクタイを取り出す。安藤のものかと思ったが、彼のしっぽは両足の間からちらついている。その番号までは読み取れないが、偽物ではないだろう。
 と、すると――。
「それ……」
「手を後ろに回して」
 またあの命令口調。さすがに理玖も馬鹿ではない。大人しく後ろに回すと、取り出したネクタイで両腕を硬く縛り上げられる。隙を見て頭突きをしてやろうかと思ったが、放したと思っていたナイフは安藤の口に咥えられていた。すぐ近くにその切っ先があることに気づいて、思わず息を飲む。
「何怯えてるのさ」
 あざ笑うようなその台詞が頭にきたが、こんなところで冷静さを失っていてはいけない。ともかく、こうなってしまってはさっさと終わらせてしまうしかない。
「それで……俺はどうすればいいんだ」
「簡単だよ。僕を気持ちよくさせればいい」
 安藤は上機嫌だった。理玖が言うとおりにしているせいかもしれない。片手で自分のズボンのファスナーを下げ、腰を露わにする。下着の上から見ただけで、既にそこが固く立ち上がっているのが分かった。興奮しているのだ。その事実が恐怖を煽る。安藤は理玖の反応を楽しそうに見て、下着の中から自身を取り出した。何ともいえない雄の匂いが鼻を突いて、理玖は思わず目を逸らした。
「ほら、早くしないと日が暮れちゃうよ」
「……くそ!」
 やるしかない。恐る恐る唇を先端に寄せると、首に当てられたナイフが震える。今の自分は何て無様な恰好をしていることだろう。頭の中に、いつか尚人から借りたAVのワンシーンが浮かぶ。彼女はどうやっていただろう。ああだめだ、思い出せない。
「もっと奥まで咥えて!」
「ん……ぐ!」
 頭を引き寄せられて、亀頭が喉の奥に当たる。苦しくて頭を引こうとするが許されない。懇願するように見上げると、安藤は興奮した表情で笑った。
「唇で吸いながら扱くんだよ。歯は立てちゃいけない」
「う……ん」
 言われたとおり、唇で固い芯を扱くと、それの硬度が増していくのが分かった。溜まった唾液を飲み込みたくなくて口の中に溜めていると、口の端から零れ落ちる。不快だ。安藤の気持ちよさそうな表情と反比例して、屈辱と吐き気がこみ上げてくる。
「ん、上手くなってきた……もっと激しく」
 理玖はただ必死に感情を押し殺しながら行為に専念した。だんだん顎が疲れてきたが、動きを休めることはできない。絶頂が近いのか、次第に安藤が腰を動かし出す。容赦なく喉を突かれて生理的な涙が浮かんだ。ただじっと目を瞑って耐える。
「あ、あ……!」
「っ!」
 高い声と共に安藤は達した。男性の種付け本能とでも言うのだろうか。ひときわ奥まで突っ込まれて、理玖は暴れ出したい気分だった。熱い液体が口内に広がって、そのねっとりとした感触が理玖をどうしようもなく絶望的な気分にさせる。
「……全部飲むんだよ」
 幾分掠れた安藤の言葉を聞いている暇はなかった。口を蹂躙していた物体がなくなった途端、理玖は激しく咳き込んでいた。耐え切れずに青臭い白濁を吐き出す。
「飲んでって言ったよね?」
 その言葉にはっと気づいて顔を上げる。安藤は無表情のまま、首に当てたナイフに力を込めた。
 ぎりぎりか、或いは少し切れていたかもしれない。
「……まあ、初めてだし、しょうがないよね。気持ちよかったし、約束だから終わりにしてあげるよ」
 安藤は気が変わったように機嫌よくそう話すと、固結びになっていた理玖の戒めをナイフで切り解いた。ようやく解放された腕を動かすと、変な筋肉を使っていたのか攣れて痛い。安藤はいつの間にかすっかり身支度を済ませて、トイレの出口の前に立っていた。
「……これは、いいのかよ」
 切られたしっぽを持って立ち上がりながら問うと、安藤は振り返って鼻で笑う。
「あげるよ、ソレ。きっと本望だからね」
 ばたん、と大きな音を立てて安藤はドアの向こうに消えた。その前に一発殴ればよかったと激しく後悔する。そして去り際の台詞が気になって、理玖は手の中のしっぽに視線を落とした。
「78……」
 咄嗟に口を閉じた。言いようの無い怒りがこみ上げてきたからだ。
 78は、尚人の番号。あの時に奪ったものに間違いない。
「くっそお!」
 声は人気の無いトイレに反響する。残滓から目を背けるようにして理玖もドアへと向かうと、大げさな音を出して廊下に出た。
 ―― 一瞬、だった。行く先に黒い影が現れるなど、予想すらしていなかったのだ。頭を何かで殴られたのかもしれない。があんと骨が振動した。平衡感覚がない。自分が倒れていると知ったのが二秒後。それが安藤に着いていた男の一人だったことにはその後気づいた。
「うっ……ぐ」
「お前、良さんに逆らったんだろ」
「な、んの……」
 今度は腹を蹴られる。一人なら逃げられるはずだ。そう頭では分かっているのに、ぐったりとした体は言うことを聞いてくれない。喉がからからに渇いている。口を漱ぎたい。
「しらばっくれるなよ。死にたいか」
 逆光とサングラスで男の顔は殆ど見えない。しかし理玖は虫の息で必死に睨み付けた。答えはない。どうしてこんな得体の知れない男に自分の命の選択を迫られなきゃいけないんだ。
 理玖は上半身を起こした。殆ど気力だった。頭も痛いし、吐き気もある。ただ、死ぬよりマシだ。
「お前、……あっ!」
 短く叫んだと思うと、男の半身が急にぐらりと揺れた。そのまま横倒しになる。誰かが体当たりを食らわせたのだ。頭が流し台の縁に当たったせいか、男は動きを止めて呻いている。
「おい榊、走れるか」
 この声には聞き覚えがあった。暗くて顔はよく見えない。夢中で立ち上がると、理玖はその男に手を引かれるままふらふら走り出した。
「……二宮」
 廊下の光で浮き上がった横顔に、理玖は驚きを隠せなかった。嫌と言うほど見覚えがあるその男は、他でもない、ついさっき自分が噛み付いて逃げた相手だ。
 しかし、いくつか階段を昇り降りするうち、どうしてか気分は大分落ち着いていた。久二の手が暖かかったからかもしれない。理玖の手はいつも冷たいが、今はその比ではない。
「口……」
 気が緩んだせいか、そんな単語が唇から零れ落ちた。予想はしていたが随分掠れている。
「何だよ」
 ぶっきらぼうな口調とは反対に、その声は優しかった。彼なりに気を遣ってくれているのかもしれない。
「口を洗いたいんだ」
 そのわがままに、久二はただ黙って理玖を手洗い場所まで連れて行った。何度も何度も繰り返しうがいをする。鏡に映った自分の酷い顔色に思わず苦笑がこぼれた。頬と首の傷口は既に乾いていたが、安藤が指で傷口を撫でたことを思い出して、一応水で消毒しておく。
「榊、お前弱いのな」
 それを見ていた久二が突然そうぼやいた。
「俺は喧嘩は得意じゃない」
 本当はもっと盛大に皮肉ってやりたかったが、我慢する。噛み付いて逃げたうえに助けられたとあっては、立場は圧倒的に不利だ。
「そのシッポは?」
 問われて片手を見る。しっかり掴んで放さなかったのは、途中で切れている尚人のしっぽだ。
「……もらった」
「もらった?」
 できれば思い出したくなかったのだが、こちらに無視する権利は無いらしい。理玖は久二の視線と無言のプレッシャーに耐えかねて渋々口を開いた。
「……さっきの仕掛け人だよ。安藤」
「安藤良、か」
「知ってるのか」
 正直意外だった。久二は曖昧に頷くと、続ける。
「あいつに捕まって、よく逃げられたな」
「一回目はな。今は……くそ、負けたも同然だ!」
 水の味しかしない口の中にまだ何か違和感が残っているような気がして、理玖は眉を顰めた。きっとはじめから無事に解放するつもりなど無かったに違いない。悪魔め、と心の中で罵る。もちろん、まんまと嵌められた自身の情けなさが一番腹立たしい。
 久二は理玖が苛立ちを露わにする様子を黙って見ていたが、それ以上何かを追及してこようとはしなかった。
「……助けてくれたことには、感謝する」
 昂ぶった気持ちを落ち着けて、真摯に礼を言う。これは本心だ。もしあそこで彼の助けが無ければ、本当に殺されていたかもしれない。
「それはいいけど。よくもさっき、噛み付いてくれたな」
「ああ、それは本当にごめん。血出てたよな」
「何型?」
「B」
「だろうな。俺もBだから」
「似たもの同士って言いたいのかよ?」
「まさか。こっちから願い下げだ」
「それは俺の台詞だ」
 くだらない言い合いをしてから、久二は階段へと向かった。その背中をぼんやり見送っていると、彼は数歩進んだところで止まる。
「どうした? 来いよ」
「……ああ」
 振り返った顔がいつの間にか橙を覗かせた夕陽に照らされる。眩しさに目を細めながら、理玖は尚人の青いしっぽを内ポケットへ突っ込んで、歩き出した。


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