「……なんで、榊が一緒なんですか」 戻ってきた久二を迎えた川田は、その隣にいる人物に目を向けて露骨に目を眇めた。敵意の篭った目だ。理玖は反射的に睨み返すと、彼らが今隠れているらしい配膳室の戸口で足を止める。この部屋は2階にあったが、その入口は小さく、どうやら給食の入ったワゴンを運ぶために使われた部屋らしかった。奥にはぴちりと閉まった窓があり、右側にはエレベーターのような銀の扉がこれまた使われた形跡もなく閉じられている。 「あー、これは……」 「助けてもらった」 妙な気遣いを見せる久二の後ろで言い放つ。事実は事実だ。変なプライドにこだわって隠すつもりはない。答えを聞いた川田は更に眉間に皺を寄せ、静かにこちらを威嚇していた。なまじ体が小さいだけあって迫力は無いが、とにかくこの場の居心地は最悪だ。 「川田、お前睨むなよ」 「べつに、睨んでません」 久二に諌められて、ようやく川田は視線を下げた。見覚えは無いが、そういえば久二はいつもとりまきを連れているという噂を聞いたことがある。それが目の前の「川田」なのかは分からないが、久二に敬語を使っているところを見ると、二人の間には少なからず上下関係があるのだろう。今分かるのは、とにかく自分はこの男に好かれていないということだけだ。 「こいつ、川田幸彦。お前を警戒してるんだ。許してやってくれ」 「べつに、警戒してません」 「お前が「べつに」って言うのは、そう思ってない証拠だからな」 「……」 川田は憮然とした表情のまま、押し黙った。理玖はちらりと久二を見やる。そもそも、無理して一緒にいる理由も必要もないはずだ。この居づらさを我慢しながら行動を共にするなど、それこそこっちが息が詰まってしまう。 「いいよ、俺、もう行くから」 「何言ってんだ、体ボロボロだろ」 すぐに久二にきつく言われて、理玖はまだじくじくと疼いている腹の辺りをさすった。正直、蹴られた所は熱を持っているし、足はガクガクだった。それでも、ここにいることが体力回復の特効薬にはなりそうにない。 「ボロボロだけど、まだ動ける。それに、俺はつがいを見つけなきゃならない」 理玖の言葉に久二は暫し黙った後、その手をゆっくりと持ち上げる。そして、 「いっ……」 思い切り脇腹を押された。 「やっぱりダメだ。もういっぺんアイツに見つかってみろ、後味悪りぃことになる」 「な……」 反論の余地はなかった。ぐいと腕を引かれて配膳室の中に押し込まれる。 「ちょっと出てくる。仲良くしてろよ」 そして久二はさっと身を翻し、ドアを閉めた。 「おい、」 自分の決断は絶対、ということらしい。とことん直感で動いている男だ。理玖は頭を抱え込みたい気分になって、ちらと川田を見る。川田も、久二の理不尽な言い分に辟易しているのかと思ったら、 「来いよ、治療するんだろ」 そうでもないらしい。 「どこ」 「は?」 「やられたとこだよ」 「ああ……腹」 このずけずけとした物言いは彼の素なのだろうか。それとも、自分が彼に嫌われているせいなのか。どちらにせよ、変に委縮されるよりは接しやすい。 「じゃ、腹出して」 「……あんたさ、なんで二宮にくっついてるんだ?」 「…………腹出せっていってんだろ」 こちらの会話には乗る気はないらしい。渋々ワイシャツの裾をたくし上げると、川田は喧嘩腰な言い方とは対照的に優しい手つきで、擦れて赤黒くなっている部分を触った。ちり、と痛みが走る。 「……こんな傷、どうやったらつくんだよ」 川田の呟きに答えようとも、すぐに襲ってきた電流のような刺激に、目を瞑って耐えるのが精いっぱいだった。どうやら、宛がわれたティッシュに何かをしみこませてあったらしい。 「……」 「これ、アルコール。さっき理科室から持ってきたんだけど、お前に使う予定はなかったんだからな」 川田の言葉は嫌味を含んでいる。それはわかるのだが、痛みのせいで反論を思考する頭も鈍る。 「打撲と、擦り傷。内出血してるとこもあるけど、綺麗な体を取り戻したかったら今すぐリタイアするんだな」 「……あいにく、綺麗な体を守ってくれる人もいないもんでな」 微笑を浮かべて言い放つと、川田は一瞬ぽかんとしたあと顔を真っ赤にして怒りをあらわにした。そうだ、そうこなくっちゃ。人を怒らせる趣味はないが、屁理屈で人を言い負かす無駄な能力は持ち合わせている。 「……お前、嫌いだ」 「俺も同じこと考えてた。いいよ、無理して治療してくれなくても」 「…………やるよ。二宮さんに言われたし」 「ほんと、お前……」 二宮に飼われてるんじゃないのか、という続きはぐっと飲み込んだ。これ以上地雷を踏んで事態を複雑にする必要もないだろう。 「布かなんか、ある?」 「あるように見えるか?」 「……じゃあ、それ貸して」 川田は一瞬黙って、理玖のポケットを指差した。適当に突っ込んだ青いネクタイが顔を出している。尚人のしっぽだ。屈辱や怒りが瞬時に浮かんできて、理玖は眉をひそめた。 「……」 「シッポだよな、それ」 「連れがやられたんだ」 「……ふうん」 川田は理玖の迷いを見たようにそれ以上は触れず、しかし手を伸ばして無理やりしっぽを抜き去った。 「おい!」 「そんなとこに入れてたら落ちるだろ」 最もな意見だったが、それにしても彼の動作は強引だった。川田は無言のまま、一番目立った傷口をぐるりとそれで覆い、脇腹のあたりで結んだ。 「手馴れてるな」 「俺は二宮さんの救急箱替わりなんだ」 「救急箱?」 「さっき、お前聞いただろ。俺が二宮さんと一緒にいるのはなんでかって」 「ああ」 「あの人、売られた喧嘩は絶対買う。暴れるのが好きなんだ。傷ばっかり作るから、俺がいつも手当てしてやってるわけ」 「してやってるんじゃなくて、お前がしたいんだろ?」 他意のない言葉のつもりだったが、どうしてか棘が混じってしまった。また怒り出すかと思ったが、自嘲するように川田は僅かに笑みを浮かべただけだった。 「そうだ。そうだよ……。あの人は俺なんか見てない。でも、それでもいいんだ」 「……そうかよ」 健気っていうの。そんなの流行らないだろ。心の中の声を口にする勇気はなかった。相槌だけ打つと、思いがけず川田に睨まれた。 「お前、二宮さんに気に入られてるんだ」 「はあ? なんでそんなことわかるんだよ」 川田は冗談を言っているような雰囲気ではないし、それが心底真実だと信じているようだった。 「見てればすぐわかる。あの人は、来る者は拒まないけど、自分から誰かを選ぶなんてことしないんだ。二宮さんがお前を連れてきたとき、あの人……!」 悔しそうに吐き捨てる川田の言葉は途中でぶつりと切れた。それはまるで、理玖へというより自分への憤りのように感じられる。その激しい感情を感じて、理玖は閉口した。二宮が何を考えて自分を連れてきたのかは、本人にしかわからないじゃないか。人の感情を推測することほど、難しくて愚かなことはない。 「……わからないな」 「わかってもらおうとは、思ってないから」 「ああ……そうかよ」 目を伏せて立ち上がる。これ以上話していても生産的なことは得られそうにない。しかし、その時廊下に不穏な足音が響いたことで、理玖は咄嗟に顔を入口に向けた。そのドアがガラリと開く。久二だった。息を切らして、 「やばい、見つかった!」 叫び声は彼の頭から血が流れていることで真実味を帯びていた。その後ろから何者かがとびかかってきて、振り下ろされた木刀をぎりぎり素手で受け止める。 安藤だ。その彼と僅かに目があった。途端に攻撃をやめ、目を見開いて笑う。 「見ぃつけた」 こいつ、頭おかしいだろ。まったく無意味な結論を見出して、理玖は部屋を見渡した。窓、入口。それからもう一つ、鉄の扉が目に入る。一階に繋がるワゴン専用のエレベータ。 「気が変わったんだ。サカキ君、もうちょっと貸してくれないかなぁ」 冗談じゃない! しかし理玖が反論する前に、隣にいたはずの川田が走り出した。 「あ、おい!」 そして入口で攻防戦を繰り広げている久二と安藤の間に割り込み、その腕に噛みつく。 「ってぇ!」 よほど思いきりやったらしい。安藤がしがみつかれている腕を振り払おうと暴れだす。その隙をついて、久二が安藤の頭を容赦なく殴った。 「がっ」 安藤の体が傾ぐ。その瞬間を見計らったように、川田が叫ぶ。 「二人とも、逃げてください!」 「川田?」 「あんたたちは、逃げなきゃいけない!」 安藤を床に抑え続ける川田の目を見て、理玖はすぐに動いた。呆気に取られる久二の腕を掴んで部屋に引きずり込んだ。ただ逃げてもまたすぐに捕まってしまう。考えろ。 「二宮、そこ開けろ!」 エレベータの扉を指差す。久二は面くらったようにして動かない。 「早く!」 理玖は配膳室の窓を開けた。カーテンなどない窓から、穏やかな風が吹き込む。日が沈む。 「おい、開いたぞ!」 久二の声に被るようにして、部屋に何かが投げ込まれた。ごろごろと転がる黒い球のような――やばい。 理玖は久二を扉の中に押し込む。ただし、エレベータは1階で止まっているため、もちろんそこに足場はない。 「おい、ばか、押すんじゃね……うわっ」 バランスを崩して落下する久二の言葉も聞かず、理玖も隙間から体をねじ込んだ。すると、転がっていた黒い球から白い霧状の物が勢いよく噴出した。 「く……そ!」 とっかかりの何もない扉を、腕というより右肩全体を使って閉める。僅かな隙間から白煙が入ってきて、生理的に涙が出た。苦しくて、咳も止まらない。これはただの煙じゃない。催涙ガスとか、そういう類の。 「……っ」 ようやく扉が完全に閉まった。途端に視界は真っ暗になる。ひやりとしたコンクリートむき出しの壁と、ワイヤーが下まで降りているだけで、しっかりとした足場はない。ゆっくりと降りなければいけないが、安心したからか僅かな出っ張りにかけていた足が滑る。 「わっ!」 尻に結構な衝撃が来て、しかしそれだけだった。隣に、同じように下に落ちたらしい久二の気配を感じた。 「てめぇ、いきなり突き落としやがって!」 「うるさい、ちょっと黙ってくれ」 理玖は目元をぬぐった。あんなのまともにくらっていたらひとたまりもないだろう。 「何、榊、泣いてんの」 「催涙弾だ」 「催涙……なんでそんなもん」 「安藤だろ。爆弾じゃなかっただけマシか」 しばらくすると、ようやく暗闇にも慣れてきた。音はほとんど何も聞こえない。 「ここ、バレんじゃねえの」 「一応、窓開けてきたし。もし見つかったら迎え撃つさ。お前が」 「俺かよ。……しかし、よく考えたよな」 「別に。……考えたってほどでもない」 久二はようやく一息ついたというように息をついた。見ると、複雑そうな表情をしている。 「あいつ、弱えのに、……なんで俺に逃げろなんて」 川田のことだろう。あの戦闘能力の差だ、しっぽは取られたに違いない。自分の時のような拷問が加えられなければいいと、密かに祈った。 「……二宮って、川田のことどう思ってんの」 不意に尋ねてみると、久二は逡巡して、 「なんだろーなぁ」 寝ぼけたような声で答えた。考えてもみなかったという反応だ。 「救急箱だって、あいつ言ってたぜ」 「救急箱か! そりゃいい、確かにな……」 しかもあいつ、お前のこと好きだぜ。……言ってやりたい衝動に駆られたが、悪魔の囁きだ。ぐっと飲み込んで、その代わりに違う言葉を探した。 「結構、根性あるよな」 一途なだけじゃなかったってやつだ。彼が安藤に向かっていった瞬間、負けたと思った。足が動かなかった。死んでもあいつには近づきたくなかったというのがあるが、本当はそんな理由じゃない。あの時あそこにいた方が利口だと咄嗟に判断した自分がいた。それが一番許せないのだ。 「本当に仲良くなったんだな」 「……仲良くねえよ、あんな奴」 嫌悪と羨望の混じった眼差しを思い出す。逃げろと言われた瞬間、なぜかそうしなければならないような気がした。理性的でない行動は不安だが、このテストが始まってからそんなことばかりだ。 「まあでも、あんたよりは頭良いみたいだし。あ、おい俺のシッポ引っ張んな」 「引っ張ってねえよ」 久二もだいぶ体力を消耗しただろう、立ち上がる様子はない。彼も自分も、折角のズボンがぼろぼろだ。もちろん、もともと自分のではないが。 「あー、もう、だから引っ張んなって!」 思考を邪魔する久二の行動にイライラして睨んでやると、顔の前にずいとシッポの先端を差し出される。 「見ろよ、99だろ」 「はあ?」 「だから、99だろ、これ」 目の前の数字は、まぎれもなく66。下線が引いてあるから、間違いない。逆さまにしたところで、99には……。 「ちょっと、待て」 頭の中に雷が落ちたような衝撃があって、理玖は久二が自分で下敷きにしている彼の――自称"99"の――シッポを引き出した。 「っ、なんだよ!?」 「……やられた」 "あんたたちは、逃げなきゃいけない"――川田の台詞を思い出す。あいつは、気づいていたんだ。 「お前、なんでこれを99だって言ったんだ」 「そりゃ、線が引いてあるからだろ」 「当たり前みたいに言うな。……これ、66」 「は?」 「いいか、6と9は似てるから、アンダーライン引いて区別すんの。わかる?」 呆れ半分に説明してやると、久二はぽかんと口を開けて、 「これ、てっぺんって意味じゃなかったのか?」 随分とボケた発言をかましてくれた。 「馬鹿だ、馬鹿だろ、お前!」 「ひ弱君に言われたくねえな!」 「あーもう……はは」 次第に笑いが込み上げてくる。二つの66を並べて、まるで運命みたいだと、柄にもなくそんなことを考えた。 「つまり、俺の運命的なペアはお前だったってこと」 久二の台詞に、また笑う。 「そーだ、運命だ、すげえ、運命的」 「行くのか、本部」 「興味はなかったけど」と前置きして、理玖は高く暗い天井を仰いだ。 「本部に行くことって、あいつに勝ったことにならないか?」 「安藤か。……お前、根に持ってんだな」 「喧嘩じゃ勝てないんだ、しょうがない」 理玖はしゃがんで、足場をとんとんと叩いた。暗いのでよく見えないが、ハッチの取っ手が手に当たる。 「あった。鍵、かかってないな」 「何してんの」 「救出口。二階まで登んのやだろ」 新しいエレベーターにはこの救出用のハッチがついていないことも多いと聞くが、運はこちらに味方したらしい。鍵はもしかすると運営側がわざと外したのかもしれないが――廃校になったはずの学校の水道が問題なく使えたのを考えると、不思議ではない。 「ああ、閉じ込められたときに逃げたりするあれか」 「中からは開かねえよ」 中度半端な映画の知識を持ち出してくる久二を放って取っ手を持ち、力をかけると簡単にそこは開いた。 「へえ」 「感心してないで、降りるぞ」 右手をかけて、一気に体を下ろす。左手が使い物にならないので片手で体を支えなければならないが、なかなか天井は高いようだ。ジャンプのタイミングがうまくいかず、着地に失敗して足をひねってしまう。膝から崩れ落ちたまま床に座っていると、 「なにやってんだ」 久二が隣に足をつく。背は高いのに随分と軽々しい動きだ。これが日々の喧嘩の賜物なのかもしれない。 「……足ひねった」 運動音痴と罵られるかと思ったが、予想は外れた。 「見せてみろよ。足、まだガタガタなんだろ。膝にロクに力入んねーんじゃねえのか」 その通りだった。仕方ない、こと体を動かすことに関しては彼はスペシャリストなのだ。久二は真っ暗闇の中、理玖の右足を持ち上げて触診する。 「……って」 「軽い捻挫だな。歩けるか」 「さあ、わからん」 「今、何時だ」 「ん……と、7時半」 「……とりあえず、ちょっと休むか」 久二の提案に異はなかった。理玖は息をついて、肩から力を抜く。どうやら日が落ちてから随分気温が下がったらしい。汗が冷えて寒さが体を震わせる。 「お前は血出てるのに余裕そうだな」 久二は顔をごしごしと擦って「もう固まってるし」と超人的なことをぬかしてから、ふと笑った。 「まあ、榊よりはな。……肩、上がんねえんだろ」 「気づいてたのか」 「隠してたつもりかよ」 鼻で笑われても、反抗する気は起きなかった。体育座りのまま、体を縮こめる。思い出したように右足と左肩がズクズクと痛む。 「脱臼かな、これ」 「ずげえいてーの?」 「微妙に」 といっても、ずっと痛かったせいで随分と慣れてしまった。痛みに慣れるとはこういうことかと、文字通り初めて痛感した。 「俺じゃ直せねーけど、亜脱臼かもな。安静にしとけ」 「詳しいんだな」 「川田の受け売りだけどな。「すげーいてー」のが脱臼、「そうでもない」のが亜脱臼」 「はは、なんじゃそら」 いかにも久二らしい覚え方だ。笑うと、思った以上に疲労がたまっているのが自分で分かる。おまけに、寒い。スーツの上着はいつ脱いだっけ。だって、走るときは邪魔だったんだと言い訳してみる。 冷たくなった右手を握ったり開いたりしていると、不意に手首を掴まれた。熱い。そういえば、助けてもらった時にも手を掴まれて、やっぱり同じことを思った。 「……手、相変わらず冷てえのな」 「お前は相変わらず子供体温だな」 「寒いのか」 「……寒がりなんだ」 久二はそれを聞くと、体を反転して理玖に向き直った。 「なに――」 言葉は最後まで紡がれることはなかった。久二に抱きすくめられて、理玖はぱちぱちと瞬きを繰り返す。 「に、二宮」 「あったけえだろ」 「……あ、ああ」 なんだ、思考まで野生なんだなとは言えなかった。確かに彼の腕の中は暖かかった。本当に子供体温なのか、それとも単に代謝がいいのか。 「……うん、あったけえ」 もう一度答えた。目を伏せると、背中に回された左手がワイシャツの中に潜り込んできて、理玖はびくりと震えた。 「お、おい!」 「背中は冷たくねえな」 面は冷ならんことを欲し、背は煖ならんことを欲し、胸は虚ならんことを欲し、腹は実ならんことを欲す――言志四録の一説だ。常に冷静な思考、背中は人を動かすために暖かく……いや、何が冷静だ。思考は哀れなほどぐちゃぐちゃで、それを悟られたくなくて動けない。いや、どう動いたらいいのかわからないのだ。大学の教授もサークルの先輩も、もちろん偉大な佐藤一斎でさえも、男に抱かれながら背をまさぐられたときにどうすればいいかなんてことは教えてくれなかった。 「二宮……」 「耳赤いのも、寒いからか?」 うまい返しが思いつかないなんて、まったく、らしくもない。ついでに右手のやりどころに困っていると、 「なあ、熱くなること、するか」 久二が僅かに体を離して理玖を見た。暗いはずなのに、その目がぎらりと光っている錯覚を覚える。まるで肉食獣の目だ。……獣とは、こいつにぴったりな表現だと自賛して、理玖は俄かに冷静さを取り戻す。 「絶対、熱くしろよ」 乾いた唇を舐めて言い返す。すぐに、その唇は塞がれた。 「……っ、ん……」 獣の勢いはさすがだな。皮肉はすぐにまたキスに飲まれ、言葉にならない。 「…………っは、」 頭がぼんやりとしてくる。今安藤に襲われたらどうする気だよと考えて、しかし言わないでおいた。野暮なんて言葉を使うのは久しぶりだ。 「安藤に、何かされたんだろ」 久二の低い声が耳のそばで響く。 「下世話だな。気になるのか?」 「それなりに」 「……しゃぶらされただけだよ」 「……うまかったかよ」 「それは俺のテクが? それとも、味のほうが?」 どっちにしろあんなのはもうごめんだ。笑ったつもりが知らず苦笑になっていたのだろう、久二に眉間をつつかれた。 「悪い」 「言ってることとやってることが、違うぜ」 気づくと、彼の片手は理玖の物をズボンの上から探っている。 負けじと自らの右手も久二の下半身へと伸ばす。お互い息遣いだけで様子を窺いながら、前を寛げて手を差し入れる。 「こっちの方は随分熱いじゃねーか」 「お前こそ、何サカってんだよ」 表情を見ないまま、たいして違わない半勃ちのものを取り出し、緩く扱きはじめる。 「っ……ん……」 まともに顔を見れずに、理玖は右手の感覚に集中した。ケンカでもないのに、負けず嫌いが頭をもたげている。次第に硬さを増していく久二のそれをさらに激しく扱く。 「くっ……」 久二の余裕を欠いた表情をちらりと見て、ふと笑みがこぼれた。 「うまい、だろ」 「それで勝ったつもり、かよ」 久二はそう言うと、反論を許さぬようにキスを貪ってきた。舌に口内を犯されながら、下の刺激も止まない。 「ん……っ、ぁ、は……」 頭の芯が蕩ける。快感に脳が支配されているようだ。 「……エロいぜ、榊」 耳元で囁きながら先走りを先端に塗りつけられて、ぞくぞくと背筋に電流が走る。 「そ、りゃ……男はエロくなきゃ、なぁ……?」 理玖は暫し休めていた右手を再び動かす。そしてやられたことをそっくりそのまま返してやると、久二の体がピクリと動いた。 「やべ、……そろそろ、イく」 「俺、も。相性いいのかもな、俺たち」 「は……言ってろ」 冗談と憎まれ口を叩きあいながら、次第に口数は減り、ついに切羽詰った息遣いだけになる。 「……く、あ、出る、」 「イけよ、……俺もっ……」 喉から掠れた声が出て、示し合わせたように二人で達した。虚脱感から久二の肩にもたれかかると、左手で頭を優しく撫でられる。 「ん……」 まるで恋人同士のようだと思った。笑いたかったが、それ以上に怠くて、気持ちいい。 「榊」 「なに」 「あー……やっぱ、やめた」 やめた? なんのことだと上半身を離すと、今度は久二が理玖の胸に顔を埋めてきた。子供のようなその様子に苦笑しながら、 「……暖まったよ、おかげさまで」 呟くと、胸の中で久二が何か言ったのがわかった。 *** エレベータの中から一階の配膳室に出ると、新鮮な空気に思わず深呼吸した。電気はついていなかったため目がやられることはなかったが、外は既に月が爛々と輝いている。 「今何時」 「7時半……」 「さっきも、7時半じゃなかったっけ」 久二の指摘は最もだった。 「ああ……止まってる」 「あー……まあ、12時までならまだ大丈夫だろ」 若干の罪悪感を感じながら、理玖は気配を殺して廊下を覗いた。やはりしんと静まっていたが、上の階ではなにやら乱闘が起こっているらしく、ばたばたと大きな足音が響いている。 「さっさと行くぞ、本部」 「ああ」 玄関から外へ出るのは危険と判断して、配膳室の窓から外に出ることにした。普段なら造作のないことだが、左肩と右足首の負傷のおかげで手間取ってしまう。 「ほら、押さえてやるから縁に上れ。痛むか?」 「あ、いや、平気」 心なしか、久二が優しい気がする。怪我人を労わってくれているのかもしれないが、皮肉の一つもないと、こちらも調子が出ない。 「よ、と」 夜露に濡れた草むらの上に降り立つ。外の空気を存分に吸い込んで、後に続いた久二を見る。 「どうやら校舎の裏らしいな」 視界は見慣れない林に覆われているようだった。玄関の位置を思い出しながら、頭の地図に照らし合わせる。 「本部はグラウンドの端だろ。ちょうど反対側に回って、まっすぐだ」 「よし、わかった」 暗がりに身をひそめている輩もいるかもしれない。気配を探りながら進むのは集中力がいる。声を潜めて校舎の壁沿いに進んでいくと、ようやく側面に到達した。 「見えるか、本部」 「……見えた。あの白いテントだろ」 久二の斜め後ろから窺うと、白いテントの向こう側、初めに学生たちが並んでいたグラウンドは俄かに賑わっていた。しっぽを取られた人たちの集まりだろうか。横には、何台か並んだ救急車も見える。 「物騒なゲームだぜ」 「でも、もう終わる」 どちらかともなく走り出す。多分もう、後戻りはできない。月の光の元に出たことで、まるで大きなステージの上に立ったような気分だった。そして、背後から奇声が聞こえた時も、まるでそうなることを予想していたかのように焦りはなかった。 「みーつけ、たぁあ!!」 後ろを振り返る余裕はなかった。しかし、右足を庇いながら走るのは至難の業だ。 「くそっ、追いつかれる!」 理玖が後ろを向いた瞬間、安藤が木刀を振り上げたのが見えた。咄嗟に頭を右手で覆う。しかし、振り下ろされた先は頭の僅か左。 「っあぁっ!!」 負傷の左肩を狙われて、あまりの激痛に地面を転がった。 「榊!」 朦朧とする意識で、近づいてくる安藤を睨んだ。月の光が彼の瞳をぎらりと反射させる。 「こ、の、野郎っ!」 百聞は一見にしかず――まさにこの言葉がぴったりの光景だった。久二は強い。安藤の木刀をもぎ取ると、逆さに持って鳩尾に突きを入れる。素早い動きで、何の躊躇もなかった。 「榊、立てるか」 理玖が意識を飛ばさぬよう手に爪を立てていると、木刀を投げ捨てた久二に優しく抱き起された。 「……てよ、サカキ君、くれ、よぉ……」 安藤が地面に転がりながら掠れた声で嘆願する。 「ざけんな、俺は」 モノじゃねえ、と反論しようとして、 「こいつ、俺のもんだから、やんねぇ」 久二の台詞に毒気を抜かれた。 「は?」 いつ、だれが、お前のもんになったんだ。頭が痛みと混乱でいっぱいだ。 「あはははは!」 「行くぞ」 狂ったように笑い出した安藤に背を向けて、再び走り出す。後ろで、虚空に向けた笑い声は続いている。 「ほら、手」 「なにそれ、小学生以来」 言いながら、差し出された手に右手を重ねる。相変わらず暖かい手に引かれながら、二人は走った。 「あはは、運命ってやつか! 笑えるね、ははは……!」 本当、笑えるよ。 「なに、お前まで笑ってんだよ」 「さあ、なんでだろ」 本当、笑える。走るのは大嫌いだ。――でも、悪くない。 手は繋がったまま、次第に互いの手の温度が混ざり合う。 今だけは、運命なんて安っぽい言葉に酔っていたい気分だった。 END |