冬のバス停 2


「優也、ちょっと来なさい」
 そう言って朝の時間を母に拘束されてから、既に十数分がたとうとしていた。横を向くと、父は知らん顔で新聞を眺めている。優也は、今日はもう朝飯抜きになると諦めるしかなかった。話の内容はいつもの通り、聞くまでもない。だんだん頭が痛くなってきた。最近は特に説教のとき、よくこうなる。
「あんた、ちゃんと聞いてるの?」
「聞いてるよ」
「母さんだってね、こんなこと言いたくないのよ。ただ、優也が仁みたいになったら困ると思って……」
「やめろよ」
 激しい嫌悪を感じて、優也は弾かれたように椅子から立ち上がった。
「ちょっと、まだ話は終わってないのよ、優也!」
 そのままバッグとマフラーを無造作に掴んで家を飛び出す。雪が降っていた。朝から、最悪な気分だ。
 母のことは嫌いではない。ただ、当然のことのように兄の悪口を言う母は、嫌いだった。優也の兄、仁は大学受験に失敗して、今は音楽活動の傍らにフリーターをやっている。母は、成績の良かった仁が大学に落ちたのはギターにかまけたせいだと思っているらしいが、本当は違う。仁が半ば追い出されるように家を出るとき、こっそり試験のときの話を聞かせてくれたことを優也は思い出した。
『実はさ、俺、二次試験の紙、白紙で出したんだ。……俺がやりたいことってなんだろうって考えてたら、結局一つもかけなかった』
 仁はそう言いながら、すっきりしたような顔で笑っていた。もちろんそのことを両親に話すことはこの先一生無いのだろう。兄弟だけの秘密だ。
 歩きながら、今度は自分のことを考えてみた。母が自分に期待していることは分かる。いっぱしの大学に進んで、安定した職について、幸せな家庭を持って――。
「……」
 すべてがもやもやして、何一つ現実味がない。優也は止まりそうになる足を必死に前へと進めながら、掴んだままだったマフラーをようやく首に巻いた。いつの間にか積もっていた雪が首に当たって冷たい。細い道路を右折して、バス停の薄れた赤い看板が見えてくる。そこで、優也は驚いて足を止めそうになってしまった。
「……またいる」
 昨日もいたあの男が、また立っていたからだ。相変わらずダークブラウンのコートに、バッグ、ズボンは恐らく昨日と同じものだ。やはり制服なのかもしれない。正面が見えないため学校は判断できないが、このバスが通る高校は優也の通う赤船高校だけだ。終点の駅前まで行って乗り換えるのだろうか。不思議に思いながらも、少し距離を置いて隣に並ぶ。二人きりで、しばらく無言の間が続いた。どうしてか、緊張は続いていたが、気まずさはほんの僅かもなかった。
 時間が気になって携帯電話を取り出すと、それが震えていることに気づく。とっさに開いて、名前も確認せずに通話ボタンを押した。
「もしもし」
『もしもし、優也か?』
 耳に小さな端末を押し当てると、そこから聞こえてきたのはひどく懐かしい声だった。
「兄貴……?」
『悪いな、いきなり電話して』
「いや、いいよ。どうした?」
『あのさ、俺、近々そっちに帰ろうと思うんだ』
「え、本当? いつ?」
 仁の思わぬ発言につい声が弾んでしまう。仁は三年前に高校を卒業後、地元を少し離れた場所で一人暮らしをしていて、最後に帰ってきたのはもう一年も前のことになる。未だに定職についていないため、帰りづらいこともあるのだろうが、やはり実の兄弟だ。会えるのは嬉しい。
『うーん、来週辺り……かな。でも、優也も受験だろ、邪魔して大丈夫かな』
「平気だよ。あと二次試験だけだし、学校で補講も受けてるし」
 優也の力強い言葉に後押しされたのか、電話の向こうの雰囲気が和らぐのが分かった。
『そっか。じゃあ、詳しいことが決まったらまた電話するから……母さんによろしくな』
 自分の口から母に言わないところが、親子の確執を象徴しているのだろう。優也は気づかないふりをして軽く相槌を打つと、電話を切った。心のもやもやが少し、晴れた気がする。さし始めた日の光が真っ白な雪に反射して、優也は思わず目を細めた。ちらりと横を見ると、男もまぶしそうにしかめっ面を作っている。その様子がなんだかおかしくて、優也はそっぽを向いてくすりと笑った。
 バスがやってくるまで、小さなバス停の看板を挟んだ優也と隣の男は、澄んだ朝の空気を体中で浴びていた。


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