冬のバス停 10


 待合室で順番を待っている間、冬真はずっと優也に付き添ってくれていた。
「お前の用事は、いいのか」
 そうたずねると、冬真は静かに頷いて、「優也が呼ばれてる間に、行ってくればいいから」と答えた。
「薬でも貰ってくんの?」
「いや、見舞い。姉が入院してるから」
 毎日毎日バスに乗って通うのは、見舞いのためだったのか。優也は妙に感心して、冬真の顔を見た。
「えらいな」
「別に、えらくねえよ」
 冬真は少しだけ照れたように目線をおろした。この空間が、心地いい。優也が冬真とバス停で一緒になるときの、あの安心感だ。目黒や仁といるときとも違う、この感覚の正体はいったい何なのだろう。
「お前は」
「ん?」
「お前は、何で学校サボったんだよ」
「……」
 あまりにも直球に聞いてくるので、思わずたじろいでしまう。優也はどう言うべきか考えて、ふと、全てをさらけ出したい気持ちになっていた。冬真がいい意味での「他人」だからかもしれない。自分の家族と交わることも、恐らくないだろう。
「……ちょっと、家族仲がね、色々複雑でさ」
 冬真は黙って聞いている。家族の内情を人に話したことは初めてだった。優也は妙なくすぐったさを感じながらも、話を続けた。
「俺には兄貴がいるんだけど、久々に帰ってくるって連絡が来て、それを母さんに言ったらさ、受験勉強の邪魔する気かって、すっげー怒って。それに俺も逆ギレして、なんか……」
 その後の言葉を、優也は濁した。バス停の男が何処で降りるのか確かめてみたくなった、なんて言えるわけが無い。しかし、鈍る思考ではあまり言い言い訳は出てきそうもなかった。
「……それで、ちょっとヤケおこした、みたいなさ」
「それで、二日間も?」
 冬真は冷静だった。もともとあまり感情を表に出さない男なのかもしれない。
「あー、二日目はさ、ほら、朝、バス停でさ……」
 「どこまで」と聞かれて、咄嗟に「駅まで」と答えてしまったのだ。理由すら情けなくて、これも口に出せることではない。
「まあ、勢いっていう感じかな」
 笑ってごまかすと、冬真は、表情を変えないままに、
「じゃあ、今日は」
 と聞いてきた。目を見つめられると、思考がうまく働いてくれない。
「き、今日は……」
 優也はうまいいい訳が思い浮かばずに、苦笑して目をそらした。冬真はその変化を見逃さない。
「ただの風邪じゃないだろ」
「ただの風邪だよ」
 そうじゃなくて、と冬真は渋面を作り、ぶっきらぼうに優也のズボンを指差した。
「そんな汚れ方しないだろ、普通」
 そういえば、埃だらけの倉庫で転がったりしたせいで、ズボンは特に煤けて黒くなっていた。ブレザーをほろって安心していたが、不覚だった。
「こけたんだよ」
「雪の上でか?」
 冬真の指摘に、再び返答に詰まっていると、幸か不幸かタイミングよく、受付に名前が呼ばれた。
「じゃ、行ってくるから」
 そそくさと歩き出す。どうも、あの男はどうしても真相を聞かなければ気がすまないらしい。優也は、埃だらけのズボンを見て、帰ったらまず洗濯だと考え……ふう、と、重いため息をついた。




 診察から帰ってくると、冬真はいなかった。姉の見舞いに行っているのだろう。心細さを感じながらも、もとの椅子に腰掛ける。診察は、特に異常もなく、風邪と診断された。インフルエンザでなかったのがせめてもの救いだろうか。
「……ただの風邪だよ、冬真」
 くすりと笑みがこぼれる。もっとうまい聞き方があっただろうに、あの言い方ではもっと、重大な病気にかかっているような気になってしまう。優也は鞄の中から先ほどの財布を取り出すと、中身を確認した。診察代と薬代、それに帰りのバス賃が間に合えばいい。
 一枚、二枚……札の数を数えていると、そこにふと影が落ちて、優也は顔を上げた。
「悪い、遅くなった」
 冬真が立っていた。上から見下ろされると結構な威圧感だ、などと優也は考えながら、彼に座るようジェスチャーした。
「見舞いは、もういいのか」
「ああ。優也は?」
「フツーに風邪だって。あと薬処方してもらうだけ」
「そうか、よかった」
 冬真はそう言って、本当にほっとしたような表情をするので、なぜかこっちのほうが恥ずかしくなってしまう。
「親に電話する?」
 迎えに来てもらった方がいいだろうと冬真は思ったのだろう。しかしその言葉に忘れかけていたものを思い出した気がして、優也は眉を寄せた。
「いや……家に誰もいないし」
「じゃあ、バスで一緒に帰るか」
 冬真はズボンのポケットから青い携帯電話を取り出すと、それで何かを確認して、優也を振り返った。
「次のバス、十分後にある」
 そんなことも分かるのか。優也が感心していると、名前を呼ばれて、そのまま冬真と一緒にカウンターへと歩き出した。薬を貰ってお金を払うと、ようやく解放された気分で出口へと歩き出す。何をされたわけでもないのに、ここへ連れて来られた頃より体調は随分良くなっていた。
「トローチ……俺苦手なんだよな。いる?」
「苦手でも舐めろ。それ、効くんだぞ」
 そんな会話をしながらバス停へ行くと、程なくしていつものバスがやってきた。
「なんか、変な感じだ」
 二人席に腰掛けるとき、優也はぽつりとそう零した。
「その気持ちは、分かるな」
 冬真も、同じなのだろう。こうして二人席に乗って、家への道のりを共にするのは初めてのことだ。もしかしたらこれは夢なんじゃないかという気がしてきて、優也は膝に乗せた鞄のチャックを、意味なく開けたり閉めたりしていた。
 いつものバス停に着くと、そこにはいつもと同じ風景が広がっていた。家に帰っていくときの、何ともいえない寂寥感が全身を震わせる。
「じゃあ、」
 優也は気がつくと、何か言い出そうとする冬真の腕を咄嗟に掴んでいた。
「あのさ、」
 冬真の顔を見る。少しだけ目線をあげると、目が合った。
「俺も着いてっていいか」
 その台詞はまるで考えていたかのようにするりと口をついて出てきた。しかし普通なら、こんな風邪ひき野郎を家にあげるなど、もってのほかだろう。優也もそれを承知の上での頼みだった。
「家に帰りたくないんだ」
 冬真は黙ってそれを聞き、やがて腕にかかっている優也の指をそっと外すと、
「わかった」
 そう、静かに答えた。そして、外した優也の手をしっかりと自分の手とつないで、歩き出す。
「……なんだよ、これ」
 ひんやりと冷えた手同士、つないでもあまり変わりはなかった。冬真は優也の半歩先を歩きながら、表情は見せない。
「病人だろ」
 そう、ぶっきらぼうに言っただけだった。優也もそれ以上何も言わなかった。マフラーを首の辺りまで引き上げて、どんどん雪の上に新しい足跡を付けていく冬真の足を、ぼんやりと見ていた。



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