ガラガラと音がして、目が覚めた。入ってきたあまりの白さに眩しくて目を瞑る。 「朝……」 声ががさがさで酷い。優也がもう一度目を開けると、そこにいたのは父だった。 「父さん」 父は、いつもの無表情を崩さずに、曇りかけた眼鏡をしきりに気にしていた。 「母さんはな、仁のことを思い出して焦ってるんだ。許してやってくれないか」 そう、優也の目を見ずに言う。優也も何も言う気になれず、体を起こす。すぐに、その異変には気がついた。体の節々がぎしぎしするような、重さがある。頭もぐらぐらしている。 「朝飯、食うか」 「いや、いい」 昨日の夜から何も食べていないというのに、腹は全く減っていなかった。むしろ、気持ち悪さに吐き気がする。 「このまま学校行くから」 そう早口で言って、制服の上着を着込む。冷え切った体は温まる気配もなかったが、それどころではなく、優也は焦っていた。これは風邪だ。間違いない。それは理解しているのだが、今それを父にも、もちろん母にも知られてはいけないと思った。 家が見えなくなるまで、できるだけ早足で歩いた。雪は降っていたが、寒さはあまり感じない。T字路までくると、優也は速度をぐんと落として、壁伝いに歩いた。『雪小路』には、いつもの男の姿がある。優也は酷く安心して、隣に並ぶと、立っているのも辛くなって、その場にしゃがみこんでしまった。 「どうした?」 男に尋ねられて、がんがんいっていた頭が少しだけクリアになった。 「大丈夫」 なんとか笑みを浮かべるが、男は納得していない様子だった。幸い、この日はすぐにバスが来たので、それ以上問い詰められることはなかったが、こんな状態では学校に行ってもすぐに帰されてしまうかもしれない。 ふらふらと、いつもの一人席に腰掛ける。座ると幾分か楽になったが、全身だるいのに変わりはなかった。窓ガラスにこめかみを押し付けると、冷たくて気持ちいい。そのまま目を閉じると、ここがどこなのかも忘れて、優也はぼんやりと意識を浮かせた。 ぐらぐらと頭が揺れる。はっとして目を開けると、バスの中だった。しかも、止まっている――。 「おい、立てよ」 ぐい、と腕を掴まれて、何が何なのかいまいち状況が理解できていないまま、優也は立ち上がった。腕をひかれるまま、ステップを降りる。何かを言う暇も考える暇もなかった。 「あ……」 熱く火照る頬に雪の結晶がぽつりと当たって、ようやく優也は気がついた。ここは学校ではない。腕を掴んでいる男の顔を見ると、あの、バス停の男だった。 「熱あんだろ、お前」 そう呟く男の横に視線をずらすと、『市立病院前』とある。途端、訳が分からないほどの焦りがこみ上げてきて、優也は掴まれていた腕を振り解いた。 「俺、今日は、学校行かなきゃ」 来た道を戻ろうとする優也の腕を、男は再び捕まえる。 「何言ってんだ」 「じゃないと、机ん中がプリントでバクハツする……」 「は? よくわかんないけど、もう無理だろ。とにかく、来いよ」 ぐいと力強く反対側に引っ張られて、優也は思わずたたらを踏んだ。 「っと、悪い……」 男は、今度はゆっくりと歩き出した。なぜか、掴んだ腕は放さない。もう逃げないのにと優也は心の中で呟いて、それでも触れているところが熱くて、結局何も言えなかった。 市立病院に入ったのは本当に久しぶりだった。たいてい、小さな行きつけの病院ですべて済ませてしまうので、ここまで足を運ぶことが無いのだ。 「保険証、あるか?」 ロビーの椅子に優也を座らせると、男はそう聞いてきた。優也が財布の中からそれを取り出すと、男は受け取って、しばし黙り込んだ。 「なに」 「夏木優也、ね」 名前を呼ばれて、わけもなく恥ずかしくなった。優也は財布を乱暴に鞄に突っ込みながら、ぼそりと呟いた。 「お前は」 「俺は、橋野冬真」 ハシノトウマ。心の中で反芻して、男の顔を見つめる。 「どうかくんだ?」 「真冬を逆にして、トウマ」 「冬真、か」 いい名前だと思って、優也は微笑んだ。こんなことで男の名前が聞けるとは、思いもしなかった。 「じゃ、待ってろよ、優也」 バス停の男――もとい、橋野冬真は、優也に優しく微笑みかけると、背を向けて受付へと向かった。優也は椅子にもたれ掛かったまま、何ともいえない安心感に、少しだけ目を閉じた。 |