――ありがとな、わざわざここまで。 ――別に、気にするな。 そんなありきたりな会話をして、優也は冬真と別れた。午後の五時を過ぎた頃だったが、もはや周囲の闇は濃くなって雪すら見えづらい。いつものバス停だった。冬真は家まで送るといって聞かなかったが、母に見られたらと思うと、気が気ではなかったのだ。優也はほとんど強引に、この停留所で帰ってもらおうことを冬真に納得させた。 家への足取りは、これでもかと言うほど重かった。外灯が極端に少ないせいもある。しん、とした静寂が保たれているというせいもある。でもなによりそんな外発的な要因ではなくて、つまり優也の心の問題だった。 母に会いたくない、勉強したくない、冬真ともっと、一緒にいたい。 「はあ……」 いくら亀のようにのろのろと歩いていても、いずれ終わりはやってくる。とうとう家の石塀が見えてきたとき、優也は思わずため息を吐いていた。それはぼんやりと白くその場を漂うと、ふっと霧散して消えた。 「ただいま」 薬が効いてきたせいか、体調は大分落ち着いていた。冬真から貰ったマスクも喉を守ってくれている。トローチは結局持ってきてしまったが、どうしよう。 「おかえり。優也」 母の声がいつもの調子なのに安心しつつ、優也は一日ぶりの我が家に足を踏み入れた。 「具合はどうなの?」 「薬飲んだから、結構いい」 それでも、何かを食べるという気はおきてこない。そのまま部屋へ向かおうと階段に足をかけたところで、優也の背中に母の言葉がぶつかった。 「遅れたぶん、勉強しないとね」 優しげだが、ぞっとする声だった。 「……うん」 かろうじて返事をして、階段を登る足に力をこめる。登りながら、そういえば、と母の様子を思い出した。目の隈は取れていないし、それどころかさらにやつれたようだった。訳が分からない焦りと共に、優也は重い頭とだるい体を動かして部屋まで行くと、内側から扉を閉める。 ドアにもたれ掛かったまま、自分の勉強机を見た。そこは静かに数冊の参考書が積んであるだけで、何も変わりない。優也は鞄を床に置くと、ベッドに倒れこもうとして――やめた。 「シャワー、浴びたい……」 そして、箪笥から着替えを取り出すと、優也は緩慢とした動きで部屋を後にした。 晩飯はいらないと母に伝えて、優也は湿った髪を無造作に拭きながら部屋に戻った。電気もつけずにベッドに横になると、考えなければならない色々なことが頭を占領して、とても眠れそうに無い。ぼんやりとした不安が胸に広がる。冬真との居心地のいい時間を思い出して目を伏せると、少し落ち着いた。 部屋の電気とストーブをつけ、窓のカーテンを引く。そこで、微かな振動音が控えめに聞こえてきたので、優也はあわてて携帯電話を取り出した。何となく、冬真だと思ったのだ。 画面で名前を確認してから、優也はすぐにそれを耳に押し当てた。 「……もしもし」 『もしもし』 電話越しの冬真の声は、いつもより若干低く聞こえた。しかし、それが優也の耳に心地よく響くのは変わりない。 「どうした?」 ベッドに腰掛ける。僅かなスプリングの反動が、優也の気分まで浮き上がらせた。 『……少し心配だったから』 冬真は静かにそう言った。その言葉に、きっと嘘は無い。 「ありがと。大丈夫、大分良くなったから」 それも嘘ではなかった。やはり、早めに薬を飲んだのが効いたのかもしれない。 『そうか、よかった』 「色々迷惑かけて、ごめんな」 『迷惑だなんて、思ってない』 冬真は力強く否定した。優也はどうしようもなく嬉しくて、言葉が詰まってしまった。 「……うん」 それだけを搾り出すと、自然と口元が緩んだ。その言葉も自分にはもったいないほどだったが、何より、冬真がわざわざ電話してくれたことが嬉しかった。 『……優也』 「なに?」 『俺、さっき、ちょっと考えたんだけど――』 優也がその続きに耳を傾けると、すぐ近くで、バン、という現実的な音が響いて、優也は凍りついた。 「優也! 何してるの!」 母が、ドアを開けた母がそこにいた。 「悪い、切るな」 『ああ……いきなり電話して、悪かった』 その言葉を最後に、電話はぶつりと切れた。夢の時間は終わりだ。優也はのろのろと立ち上がると、勉強机へ向かう。 「誰? 誰と電話してたの?」 母は取り乱したように優也の肩を掴んで揺さぶった。頭がぐらりと揺れる。さっきの平穏が嘘のように、気持ち悪さが喉をせりあがってくる。 「まさか、仁じゃないでしょうね!」 母が優也の携帯電話を奪おうとする。優也は絶対に渡すまいというようにそれを握り締めて、母を睨んだ。 「……関係ないだろ」 「え?」 「俺が誰と電話してようと、母さんには関係ないだろ」 目の裏が熱い。左頬に衝撃が走った。頬を叩かれたのだ。優也は、自分の中身だけがどこか遠くへ放りだされてしまったかのような虚しさを感じた。全てが、他人事のように思える。 「勉強しなさい。今すぐ」 母は、部屋を出て行かなかった。優也がさっきまで座っていたベッドに腰を下ろすと、こっちをじっと視てくる。――「監視」だった。それ以外に形容しようが無い。 「……」 心が冷えていく。石油ストーブの独特のにおいと、その稼動音だけが部屋を満たしている。優也は、まるで自分のものではないような手で参考書をめくり、問題集を解いた。文字の羅列が、頭の中で意味を成さない。ノートに走らせるシャーペンが震える。その震えはだんだんと大きくなって、思わず左手でそれを押さえ込んだ。まるで、薬物中毒の禁断症状のようだと、もうひとりの冷静な自分が思った。 部屋に会話は無い。それどころか、母の息遣いさえ感じない。それは逆に、優也に静かな恐怖を与えていた。本当は、振り返ったら誰もいないのではないか。期待と、そんなわけはないという絶望が交互に押し寄せる。背中がちりちりと焼ける感じがする。 「……」 息を吐いて気持ちを落ち着けようとしたが、失敗した。咳が出て、それが頭に響く。 参考書に目を落とす。ぐらぐらと、気持ち悪さがこみ上げてくる。そして、いつの間にか驚くほど冷たくなっていた手でペンを握り締めると、ことさら強く、ノートに押し当てた。 父が帰ってくる十時ちょうどまで、それは奇妙に、しかし粛々と続いた。 |