冬のバス停 13


 本当のところ、まだ風邪は治っていなかった。薬のおかげか昨日より幾分体調は安定しているが、まだ体のだるさは抜けていない。それでも優也が学校へ行こうと思ったのは、ただひたすら、家にいたくなかったからに他ならなかった。
 朝の空気が澄んでいる。雪は降っていなかった。優也が白い息を吐きながらバス停に急ぐと、角を曲がったところで、いつものダークブラウンが見えた。いつも、この瞬間だけは緊張してしまう。彼が、いないのではないかと思うからだ。いると思って落胆するよりは、いないと思って喜ぶ方がいい。そんなものは矛盾した自己防衛だと分かっていたが、優也はそれでも思ってしまうのだ。
「昨日は、ごめんな。わざわざ電話くれたのに」
 急に電話を切ってしまったことをまず詫びる。冬真は気にするなと言うように首を横に振った。
「……まだ、顔色が悪いな」
 そう言って心配そうな顔をする。冬真はふと左手を持ち上げると、冷たい掌をを優也の額に乗せた。火照った脳がひんやりと冷えていく。優也は目を閉じていた。心地いいと思った。自分と同じ男に対して、こんな感情を持つことはおかしいだろうか。このまま時が止まってくれればいいと、本気で思った。
「このバス停さ、」
 冬真が静寂を裂いてそう切り出した。同時に、熱が交じり合って温かくなった左手を優也の額から離す。感触が消えたそこに、再び冷気が触れる。
「最初に見たとき、『ゆきこみち』だと思ってた」
 優也は、目の前にある停留所の薄れた看板を僅かに見上げた。今は薄めたオレンジ色のようにも見えるその看板の色も、かつては真っ赤に輝いていたのだろうか。『雪小路』の文字を読んで、思わず微笑がもれる。
「俺も。帰りのバスのアナウンス聞いたとき、ちょっとショック受けたな」
 ゆきこうじ。その頃は、小路なんて小難しい単語を知らなかったから、当然だ。しかし、冬真も同じような勘違いをしていたと想像すると笑いがこぼれる。この無骨な男がバスのアナウンスでショックを受ける様など、似合わないにも程がある。
「優也は、いつもこのバスに乗って学校へ行くのか」
「夏はチャリだよ。雪が降ってからは、バスにする」
「そうか」
 優也は、冬真がいつから病院へ行くようになったのか聞こうとした。しかし、そのときちょうどバスがやってきて、それは言葉にならずに、喉の奥に引っ込んだ。


***


 三日ぶりの登校で、第一に心配してきたのは目黒だった。そういえば、昨日は休む旨のメールをしていない。そんな余裕もなかった。目黒は何も聞いてこないが、恐らく風邪だと思っているのだろう。始終心配そうな顔をしている。
「まだ具合悪そうじゃねーか」
 目黒は優也の机に両腕を乗せてしゃがみこんでいた。浮かない表情だ。
「なんだよお前、病人みたいな顔して」
「病人はオマエだオマエ!」
 いつものように冗談を言い合うと、空気がほぐれたせいか、そのあとは優也が休んだ三日間の学校での出来事を、面白おかしく話してくれた。先生の面白いエピソード。クラスの男子が後輩に告白されたこと。それから、最近の天気についての話。どれもありきたりで他愛のないなものだったが、その端々で目黒の気遣いが分かって嬉しくなった。
「机、大丈夫だったな」
 優也がぼそりとつぶやくと、目黒はきょとんとして首をかしげた。
「え、なにが?」
 優也は黙って、机の中から無造作にに入れられたプリントの束を取り出す。
「バクハツしてなかった。机」
 にやりと笑うと、目黒もようやく合点がいったようだ。表情を変え、からっとした笑顔で笑う。
「そりゃあ、な! 本当にバクハツしてたらたまんねーよ!」
 明るい空気が流れていた。優也も久しぶりに笑った気がする。笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を拭ったとき、ふと視線を感じて、優也は顔を上げた。
「やっときたな、夏木!」
 朝から元気が有り余っているのか、大音量で叫ばれた自分の名前が頭に響く。優也が苦手とする男のうちの一人、片霧宏夢だった。アドレスを交換したわりに電話もメールも来ないのですっかり失念していたが、この男は駅前で会った片霧蓮の弟だ。改めて顔を見てみるが、やはり似ていない。蓮が妙に大人びているせいかもしれない。
「……片霧」
 今日は一体何の用だと思っていると、目の前で目黒が立ち上がった。明らかに不信感をむき出しにしている。しかし宏夢は目黒には一目もくれずに、まっすぐ優也を見た。
「お前、サボりだったんだろ」
 真剣な――むしろ剣呑な色を滲ませた――声で、そう言い放つ。優也の顔が曇るのに時間はかからなかった。横目で目黒を見るが、驚いている様子はない。むしろ悔しがっているような、そんな表情だ。
「兄さんに聞いたのか」
 優也は静かにそう聞いた。情報源はあの人しかいない。恐らくリークするつもりはなかったのだろうが、宏夢はその話を聞いて良くは思わないだろう。
「……夏木さ、頭いいからって、ズリーよな」
 明らかに皮肉を込めた調子の言葉に、頭の奥がチカリと光る。歯を食いしばると、睨むだけだった宏夢の口角が僅かに上がった。笑った、というよりは、歪んだ、といったほうが正しいかもしれない。
「俺はお前が嫌いだ」
 窓から入る雪の明るさが、いつもの教室の騒がしさが、机の上に置かれたプリントの束が全て、この状況には似合わなかった。優也は不思議な気持ちだった。苛立ちも、胸を刺すようなちくちくとした痛みも、確かに感じているのに、なぜか不思議だと思った。現実味がないのかもしれない。ふわふわとした感覚。まるで自分ではないような、感覚――。
「ふざけんなよっ!」
 ふわりと、視界の中でプリントが舞った。しかしそれが宏夢の仕業だと気づいたときには、もう既に次の出来事が起こっている。弾けるような大きな音が、優也を現実に引き戻した。
「……っ」
 目黒が、宏夢を殴っていた。宏夢は倒れこそしなかったものの、後ろの机に盛大にぶつかり、痛そうな声を上げる。
「……この、やろ、」
「ごちゃごちゃうるせえよ!」
 目黒が初めて言葉を発した。その追撃を許さぬ怒声と威圧感に、宏夢は膝を折ったまま半歩後ずさる。ガタンと、また机が音を立てた。
 一角の明らかな異変を目にした教室内がざわめいていることに気がついたのも、このときだった。
「めぐ」
 宏夢を殺さんとばかりに睨みつけている目黒の腕をそっと掴むと、彼は途端に殺気を消して優也を見た。
「……悪い、先に手出した俺の負けだ」
 無表情で静かにそう告げると、しゃがみこんで、床に散らばったプリントを拾い始める。優也もそれに習って、黙々とプリントを集め始めた。胸の奥が、じわりと熱い。
「……サンキュ、めぐ」
「いいって。休み……何か、理由があんだろ」
 目はあわせずに、小声で会話する。周りがざわついているが、顔を上げると殴られた宏夢はもういなかった。自分の席に座ったのか、それとも居たたまれなくなってこの教室から飛び出したのかは、判断できない。
「昨日は本当に風邪。……でも残りの二日は、サボったっての、本当」
 嘘はつけなかった。全て拾い上げて立ち上がろうとすると、す、と目黒の手が伸びてくる。プリントを渡せということだろう。黙って手渡す瞬間、不安がよぎった。目黒はどんな反応をするだろうか。軽蔑するだろうか。……嫌いと、罵られるだろうか。
 しかし、恐る恐る立ち上がって見た目黒の顔は、優也が想像していたものとまるで違っていた。それどころか、むしろ笑っているように見える。
「そっかあ」
「……なんで、嬉しそうなの?」
 優也のほうが困惑してしまいそう聞くと、目黒は曖昧に頷いた。
「言ってくれたこと、かな」
 目黒は意味ありげに笑っている。しかし、納得できない優也が更に追及しようと口を開きかけたところで、ちょうど、授業開始のチャイムが鳴った。



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