冬のバス停 14


 夢は見ない。昨日の続きがなんの妨げもなくまたやってきた。優也はベッドから立ち上がって目をこすると、真正面の勉強机が目に入って、重い息をつく。
 昨日の夜もあの「勉強の時間」はやってきた。母は、焦っているようだった。その疲れたような顔を思い出す。
 優也はそのままになっていた勉強道具を手早く片付けると、まとめて鞄に詰め込み、緩慢な動作で着替えを始めた。風邪の症状は続いていたが、熱はすっかりひいたようで、心なしか頭が軽い。
 準備を済ませて朝食を取りに階段を降りようとした時だった。携帯電話が鳴って、優也はその場に立ち止まる。
「……兄貴?」
 驚いて電話を取る。すると、何か言う前に電話の向こうからガタガタと雑音が響いた。
『……あ、悪い、聞こえてるか?』
「うん、聞こえてる」
 はっきりと仁の声が聞こえる。電話をしたのはつい先日だというのに、その間に色々なことがあり過ぎて、やけに昔のことのように感じる。
『実はさ、今家の前にいるんだけど』
「……うそ、マジ?」
 思わず大きな声を出してしまい、優也は咄嗟にまわりを確認した。そして、声を潜める。
「車?」
 仁は高校を卒業後二年して、自力でためた金で中古車を購入していた。車種は分からないが、一度だけ見たことがある。白のセダンだ。
『そ。何となく今帰るの嫌なんだよね。だから、夜までどこかで時間潰そうと思って』
「それで、何で俺に電話?」
 苦笑する。恐らく、雪の色に紛れ込みながら、家の塀の影に止めているのだろう。
『いや、何か面白いとこないかなあと思って』
「何も、変わってないよ」
 静かにそう告げると、電話の向こうが僅かに沈黙する。しかし――優也は唐突に、駅前で聞いたあの優しい歌を思い出した。
「いや……ある、あった」
『え?』
「駅前で弾き語りしてる人がいる。片霧蓮っていうんだ」
 仁も音楽に携わる人間だから、きっといい刺激になるだろう。電話の向こうがまた沈黙し、うん、と静かに仁の頷きが聞こえる。
『わかった、行ってみるよ』
「火曜と日曜以外は、いるって言ってたから」
『サンキュな、優也。じゃあ、また夜に』
「うん」
 電話が切れると、優也はしばしその場に突っ立って、思い出したように階段を駆け下りた。嬉しさと戸惑いとが同時に押し寄せている。玄関から伸びる廊下を横切ったとき、外から車の発進する音が微かに聞こえた。
 朝食を済ませて白い道路を走っていくと、雪小路にはいつもどおり冬真の姿があった。何も変わらないことが、このときだけは本当に嬉しい。
「具合は」
 優しい低音が鼓膜に響く。優也はその声をもっと聞きたいと思って、自然といつもより饒舌になっていた。
「熱も引いたし。頭も痛くないし、体も、昨日より軽い気がする」
「トローチは?」
「あれは……」
 思わず苦い表情をすると、冬真がくすりと笑った。口の端を少し持ち上げただけで、その印象は随分柔らかくなる。
「あれ、効くんだぞ」
「わかったって。舐めるよ……いつか」
 優也はあの薬っぽい味が嫌いだった。ふと、昔のことを思い出してしまって、唾を飲み込む。同じようにトローチを嫌がって、そのときは確か、仁にくどくど説教されたのだ。
「良薬は口に苦しって言うしな」
「……昔、兄貴にも同じこと言われたよ」
 肩を竦める。そういえば仁は無事に駅前に着いただろうか。
「兄さん、何歳」
 冬真の興味はトローチから仁に移ったらしい。優也は答えようとして、しかしふと黙り込む。
「何歳……だろ? 俺の、三つ上」
 家族の年齢は、意外に分からないものだ。優也が指で一つ二つと数えていると、冬真が隣でへえ、と相槌を打った。
「三つ上だったら、俺の姉さんと同じだ」
「冬真の姉さんって……お見舞いの?」
 冬真は頷くと、太陽さえ見えない真っ白な空を仰いだ。
「っていっても、体弱くてずっと病院暮らしだったから、ほとんど学校には行ったことないんだけど」
 学校に行ったことが無いということは、つまり、この没個性な制服を着ることも、友達とくだらない話をすることも、先生の悪口を言って笑うことも、そんな当たり前のことを何も知らないということだろうか。優也は物悲しくなって、冬真と同じように空を見上げた。
「…………俺らって、幸せなんかな」
 ぽつりと呟く。冬真は笑い飛ばすこともせずに、静かに目を伏せた。
「優也は」
「ん?」
「優也は今、幸せか?」
 ――俺は今、幸せか?
 自問し直して、その言葉をゆっくりと咀嚼する。視線がつま先に落ちる。
「わかんね」
 ため息にも似た息と共に吐き出す。幸せかどうかなんて、何を基準に決めればいいのだろう。
「そうか」
 もしも、それには基準も順番もなくて、この雪のように静かに降り積もっていくものだとしたら。少なくともこの空間だけは幸福だと、優也は思った。
 冬真と二人、寒さに白い息を吐きながら一台のバスを待つ。たったそれだけのことを、失くしたくないと、こんなにも強く思っている。
「冬真は」
 問い返すと、冬真は顔だけ優也の方を向いて、困ったように笑った。
「さあ」
 聞いた本人のくせに分からないのかと、優也が文句を言い出そうとしたところで、でも、と続ける。
「この時間は結構、気に入ってる」
 冬真はそう言ってから、照れくさそうにそっぽを向いた。そういう態度を取られたこっちの方が恥ずかしいということを、この男は分かっているのだろうか。優也は思わず赤くなった頬に冷たい手のひらを当てる。
「それは、俺も」
 ぶっきらぼうに返してマフラーを少しばかり引き上げると、しばしの静寂が訪れた。ちらちらと降ってくる雪だけが、時間を動かしている。寒いのに、温かい空間だ。石油ストーブで暖まった部屋より、ずっと温かい。
 ――ああ、これが幸せか。
 唐突に気がついて、優也は少し、泣きたい気持ちになった。



***



 朝の出来事が嘘のように、課外中は地獄だった。わけもなく汗が浮かび、気持ち悪さで何度も吐きそうになる。その度に、この時間が終わったら保健室に行こうと決意するのだが、なぜか休み時間になると憑き物が落ちたように楽になるのだった。
 目黒は相変わらず心配していたし、宏夢はあからさまに接触を避けていた。当たり前だ、昨日あんなに激しく衝突したのだ。それでも、優也は平気だと言い続けた。これ以上心配をかけたくないというのもあったが、なにより大丈夫と自分に言い聞かせることによって、本当に大丈夫になるのではないかと思ったからだ。
 医者に診て貰ったら、「受験のためのストレス」とでも診断されるのかもしれない。合っているようで、全く違う。
 とにかく耐え抜いて、ようやく放課になると、優也は寄り道しないで真っ直ぐに家に向かった。もしかしたら、仁が帰ってきているかもしれない。
「ただいま」
 しかし、家には誰もいなかった。まだ夕方に差し掛かった時間だったし、仁は夜に帰ると言っていたから仕方ないだろう。居間に寄って何か飲もうと思ったが、気が変わって、優也は真っ直ぐに二階の自室へと向かった。
 自分の部屋は、優也のための、優也だけの場所だった。誰にも縛られることの無い、小さな自由がそこにはあった。
 だがそれも、母によって侵されつつある。成長を共にしてきた勉強机もこのベッドも、嫌なもので塗り替えられていく気がして、気持ち悪さとともに身震いがした。しかしきっとそれもいつか思い出になると苦笑しようとして、しかし凍りついた口元はそんな誤魔化しを許してはくれなかった。
 部屋はいい具合に暗くなっていて、それでいてとても静かだった。ベッドに横になってしばし目を閉じる。制服が皺になっても、今はかまわないと思った。


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