冬のバス停 15


 収穫は、大きかった。
 優也に教えられて行ってみた駅前には、まだ若い男が屋根つきベンチの下で静かにギターを奏でていた。音自体はそれほど驚くようなものではなかったが、はっとしたのは彼の歌を聴いた瞬間だ。
 とにかく柔らかく、優しい声音だった。きっと、優也はこれを伝えたかったのだろう。
 それから仁は彼と少し話をして、ついでにと昼食も共にした。しばらくお互いの音楽のことについて語り合っていると、いつの間にか辺りが暗くなっていることに気づく。慌てて店を後にした仁は、車の前で連絡先を交換し、すぐに家へと向かった。
「久々……だな」
 馴染んだ道には見覚えがあったが、車の中からこんなふうに過ぎていく景色は知らなかった。仁は細い道路に入ると、車の轍にがたがたと車体を揺らしながら走る。見慣れた建物が目に入ると、狭い庭に無理やり車を突っ込んで停車した。
「……」
 しばし、すっかり暗くなった外の空気を吸い込んで立ち尽くす。くすんだクリーム色の壁を見上げると、居間についた電気だけがカーテン越しに明るい。仁は乾いた唇を舐めると、覚悟を決めて家のインターホンを押した。



***



 家の中は、玄関先に飾ってあった花の種類が変わったというくらいで、ほとんど同時のままだった。
 『何も、変わってないよ』――と、優也の声が頭の中に蘇ってくる。
 父の帰りは相変わらず遅く、母は仁を見てひとつため息をついただけで、別段怒鳴られるとか追い出されるということはなかった。正直それも覚悟していたので、拍子抜けする。
 ぎこちない夕食の席を辞退して、先に自室に戻っていた仁は、階段をどたどたと駆け上ってくる音を耳にしてドアを開けた。案の定、優也が髪を乱しながらそこにいる。
「もっと、ゆっくり食ってくればよかったのに」
「悪い、俺が母さんに言うの忘れてたから……」
 仁の分の夕食がなかったということを悔いているのだろう。久しぶりにしっかりと見た優也の顔に、仁は僅かに眉をひそめた。
「なんか、痩せたか?」
「そう? 別に、変わんないよ」
 痩せたというより、やつれたという印象だ。覚えのある高校一年生のときより、頬がそげた気がする。成長期だということを差し引いても、心配になる。
「あ、風邪ひいたからかも」
 優也がそうだ、それだと頷く。まだ納得し切れていない仁だったが、寒い廊下で立ち話も良くないだろう。部屋へ招きいれようとして、立ち止まる。
「お前の部屋で話そう」
「いいけど……兄貴の部屋は?」
 不思議そうに聞き返されて、仁は肩をすくめて見せた。
「ベッドが片付けられてんだよ」
 ああ、と苦笑しながらも合点がいったようで、優也は隣の部屋の扉を開けた。暗い部屋に電気を着けると、相変わらず綺麗に整頓された懐かしい部屋が浮かび上がる。
「今ストーブつけるよ」
「あ、それ俺の部屋にあったやつだろ」
「そう。母さんがこっちに持ってきたんだ」
 熱が放たれるまではしばらく時間がかかる。ベッドのへりに座る優也の隣に腰を下ろすと、目の前の机が目に入った。
「いいのか、勉強」
 机上にはほとんど何も乗っていなかったが、恐らく鞄に入っているのだろう。仁が何気なく聞くと、優也は何かを思い出したように顔を背けた。
「いいんだ。あとで、やるから」
 その表情はうかがい知ることは出来ないが、ぞっとするほど冷淡な声だった。受験を間近に控えているのだから当然なのかもしれないが、さっき感じた違和感も手伝って、どこか引っかかる。
「……そうか」
 しかし、優也が正面に顔を向けたときにはもう、仁から見える彼の横顔はいつも通りだった。妙な胸騒ぎが治まらない。
「そういえば、あの人、どうだった」
 話題をそらすように明るく話題を振ってくる。仁はあえて追求はせずに、素直に彼の音を思い返した。
「優しい歌だった。……綺麗な声だ。行ってよかったよ」
 嘘はなかった。その感想に優也も顔を綻ばせる。
「バスでさ、駅前まで行ってみたときにさ、聞いたんだよ」
「そうか」
 そして、あの歌声に、癒されたのだろう。仁とてそうだった。ここまで来て決心が鈍るところだったが、あの歌を聴いて、自然と気持ちがすっきりしていたのだ。
「バス……っていえばさ、」
 ふと、優也が戸惑うようにしてそう切り出した。
「ここから一番近い、バス停あるだろ」
「ああ、『雪小路』」
 そう、と優也は頷いて、その視線を上へと向ける。まるで、振り続ける雪がそこにあるかのようだ。
「あそこにさ、ほんの最近のことなんだけど……男が来るようになったんだ」
 へえ、と純粋に仁は驚いた。あの時間帯のバスは仁も何度も利用したが、三年間でただの一度も、誰かと乗り合わせるということはなかった。
「俺と同い年でさ、入院してる姉さんの見舞いに毎日病院に通ってるらしい」
「話したのか」
 そう言うと、優也は浅く頷いて、フローリングの床についた足を軽く蹴った。
「なんか、いろいろあって。……不思議なやつなんだ。見た目は仏頂面でちょっと怖いんだけどさ、話してみるとそうでもなくて、笑うとすごく優しそうに見える」
「お前、それさ、」
 からかおうとしてふと優也の横顔を見て、仁は続けようとした言葉を喉の奥に閉じ込めた。その表情が本当に嬉しそうに、優しく微笑んでいたからだ。
 それはまるで、恋をしているような少女のようでもあり、何か大切なものを慈しむ様子にも見えた。自然と、息がこぼれる。
「……よかったな」
 心の底から出てきた言葉をそのまま口にすると、優也は一瞬驚いたように目を見張ってから、眩しそうに笑った。仁もつられて嬉しくなって、一緒に笑う。こんなことは本当に久しぶりだ。
 しかし――コンコンと、部屋に響き渡る確かな音が響いた瞬間、和らいでいた空気がぴんと張り詰めた。優也の笑顔は嘘のように消えている。仁は直感で、これだと思った。これがずっと続いていた、違和感の正体だ。
 返事も聞かずにドアを開けて入ってきたのは、母だった。仁は優也を庇うように立ち上がる。
「仁、ごめんなさいね。これから優也は勉強するから、邪魔しちゃ駄目よ」
 まるで決められたような台詞を口にする母に、仁はぞっとした。その目に真っ向から見つめられると、言葉が出てこない。すると、後ろで優也が立ち上がる気配がした。振り返ると、優也は先ほどとは百八十度違う笑みを顔に張り付かせて、仁の背中を押してくる。
「お、おい優也……」
「悪いな、兄貴。部屋で待ってて」
 すぐに廊下へ追い出されてしまうと、そのままドアが静かに閉まる。仁はしばし呆然としながら、ドア越しに優也の部屋を見つめた。
 優也が勉強するのに、なぜ母が必要なのか。考えて、考えたくない結論に達する。
「……俺のせいだ、優也」
 静かに呟いた声は、きっと石油ストーブの大きな音にかき消されて、部屋までは届かなかっただろう。
 仁は暖まった体から熱が消えていくのを感じながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。



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