冬のバス停 16


「昨日はごめんな」
 優也は起きるなり隣の部屋に行って、そう謝った。まだ早い時間だからか、起きたての仁はぼうっとしている。しかしひとつ伸びをすると、優也に向かって首を振った。
「いや……俺のほうこそ」
 昨日は勉強の後、どうしようもなく気分が悪くて、わざわざ訪ねてきた仁を追い返してしまったのだ。仁は苦しそうに笑うと、ため息をつく。
「……兄貴のせいじゃないから」
 すぐに察してそう言うと、仁は頷いたが、それが表面上だけだということは分かりきっている。
 優也は鞄を握り直して、息をついた。ふと視線を上げると、朝日がカーテンを透かして部屋を照らしている。まったく、朝には似合わない会話だ。
「今日は、何するの?」
 気分を変えるように明るい声を出すと、仁は布団をたたみながらうーんと唸った。昨日は布団がなかったが、押入れから出してきたのだろう、枕も毛布も以前使っていたものと同じだ。
「引きこもる、かな」
 仁はそう言いながら、寝癖のついた頭を手で撫でつけた。机の上に乗ったノートパソコンを開く。
「曲作り?」
「そんなとこ」
 優也は、部屋の片隅に置かれたギターケースに目をやった。また、仁の弾くギターの音が聴きたい。
「朝飯は」
「後で食うって、言っといて」
「わかった」
 静かに部屋を後にする。起こしてしまうのはまずいかもしれないと思い迷ったのだが、やはり会話して正解だった。気分が幾分すっきりしている。階段を降りて、居間の窓から家の庭を見ると、おそらく仁の車だろう白いセダンが曲がってとめられていた。駐車が苦手なのだと以前電話で聞いていたが、本当なのかもしれない。くすりと笑みがこぼれる。
「兄貴、メシ後で食うって」
「あら、そう」
 受験のことがなければ、普通の家族だと思う。優也は箸を手にすると、向かいの椅子に座って新聞を読んでいる父をこっそり見る。何か不満があるわけではない。こうして朝が来れば、いつものように、今日こそはいつものように普通の家族でいられるのだと、そう思えてくるのだ。
「今日は、日が出てるのね」
 独り言のように、ぼそりと母が呟いた。その言葉につられるように外を見ると、セダンが太陽の光を反射してきらきら光っていた。
「ごちそうさま」
 手早く食事をすませると、優也は鞄を持って外に出た。白い雪に反射した光が眩しい。車のフロントガラスにはびっしりと雪の結晶がくっついていた。形まではっきり見えて、とても綺麗だ。
 冬真に、仁の話を、しようと思った。白いセダンを連れてきて、駐車が下手なこと。きらきら光る結晶がとても綺麗だったこと、新しい曲を作るのだということ。
 心が弾んでいた。いつもの道を、滑らないよう気をつけながら走る。すぐに分かれ道が見えてきて、右折する。バス停が見えて――優也は足を止めた。
「……あ」
 そこに期待していた男の姿はなかった。早く着きすぎたのだろうか。急に恥ずかしくなって、息を落ち着けながらゆっくり歩く。時間を確認すると、まだ十分前だった。
 太陽の光は、じりじりと焼き付けるようだ。しかも、走ったおかげで優也の体はすっかり温まっていた。マフラーをほどいて鞄の取っ手に引っ掛けると、外気が首に触れてひんやりと冷たい。
 そうしながらも、ちらちらと冬真の家の方向を気にしてしまう。時間を確認する。五分前だ。
 だんだん、弾んでいた気持ちが萎んでいくのが分かった。言いようの無い不安が首をもたげてくる。
「……」
 火照った体も、いつしか冷たくなってきていた。マフラーを首に戻すと、白い息を吐く。
 しばらくして、緑色のバスがやってきた。隣に、冬真はいない。
 慣れてたはずだった。一人で待つバス停から、学校行きのバスに乗り込む。
 しかし、プシューと音を立ててドアが閉まる瞬間、優也はぐ、と鞄を強く握った。喉が渇く。今すぐにこのバスから飛び降りてしまいたい。
 ――発車します。おつかまり下さい。
 アナウンスと同時に、優也は一人席に腰掛けた。眩しい日差しが窓から入り込んでくる。さっきまでの凶暴な気持ちはすっかり萎えてしまっていた。僅かな諦念だけが後に残る。
 いつものバスは優也の葛藤も不安もよそに、いつもの道を進み、いつものように優也を学校へと運んだ。



***



 教室で目黒と挨拶を交わしていると、そこへ寄ってきたのは宏夢だった。目黒の目つきが鋭くなるが、その表情はあくまで冷静だ。
「ごめん」
 突然そう言って、宏夢は優也に向かって頭を下げた。優也はあっけに取られて、思わず目黒を見る。彼もまた拍子抜けしたように頭をかいていた。
「……兄ちゃんのこと、言ってくれたんだろ」
 頭をゆっくり上げながら、宏夢は落ち着いた声で言った。目黒が、何のことだというように目線をよこす。
「あの人の歌は、本当にいいと思ったから」
 優也は、宏夢の真っ直ぐな視線を受け止めた。真摯な瞳だ。怒りはもう沸いてこない。
「俺、夏木に実力で勝つから」
「……何ソレ」
 目黒がぽそりと突っ込みを入れる。しかし宏夢はそれ以上の言葉を発せずに、静かに立ち去った。優也と目黒はその場に立ち尽くしたまま、互いに顔を見合わせてため息ともつかない息を吐いた。
 やがてチャイムが鳴って、課外が始まった。春休み中だというのに、この重苦しいチャイムの音は変わらない。
 のろのろと鞄から筆記用具を取り出す。数学のプリントが配られて、名前を書く。問題に目を通すと、数字と記号の羅列に、くらりと眩暈がした。昨日と同じだ。気分が悪い。
「では、二十分で解いてください」
 先生の声が遠く聞こえる。テストでもない、ただの演習問題だ。それなのに、この緊張感は何だ。優也はシャーペンを握り直した。手が震えている。
 一問目の数式の下にイコールを書き入れたところで、ふと後ろに視線を感じた。ちりちりと背中の焼けるような感覚だ。振り向きたいが、振り向いてはいけない。理性が本能を制御している。心臓の音が全身に響く。こめかみに汗がにじむ。吐き気が込み上げてきて、優也はたまらず机に突っ伏した。机がガタンと鳴る。その音は静かな教室内に控えめに響いたが、気にしている余裕はなかった。まだ、後ろから視線を感じる。もう嫌だ、止めてくれと、自分の中の誰かがそう叫んだ。
「――夏木、どうした」
 聞こえる声がどこから発せられた誰の声なのか、分からない。
「俺が保健室連れて行きます」
 その声もやはりどこからか聞こえてきて、優也は腕を引かれて立ち上がった。そっと背中を押してくれる手に任せて、言うことの聞かない体を動かす。
 ――めぐ。
 実際に口にしたかは分からない。
 優也はふわふわする意識の中、引きずられるように明るく静かな廊下を歩いた。
 着いた先の暖かい部屋で、用意されたバケツに胃の中の物を吐き出すと、生理的な涙で視界が歪む。
 ふと、そこへ見慣れた景色が映った。
 真っ白な視界の中にぽつんとたたずむバス停と、コートの男。その顔がこちらを振り向き、優しく微笑む。
 ――冬真。
 ぎゅっと目を瞑ると、涙の膜は頬へと流れ落ちて、幻想の風景も一緒に、消えた。


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