冬のバス停 17


 ここ最近の優也の様子が変なことには、目黒も気がついていた。
 その原因を勘繰ったりもしたが、やはり優也が話してくれるまで待とうと、そう思っていたのだ。しかし、こんなことになってしまっては、もう知らないふりは出来ないだろう。自分も、優也も。
「……めぐ」
 優也の体を支えながら教室を出るとき、苦しそうに喘ぐ優也の口から、小さくそうこぼれた。一瞬止めた足を再び前へと動かす。
「……優也、もうちょっと、がんばれよ」
 優也はその声がしっかり聞こえたのか、焦点の合わない瞳で微かに頷いた。
 保健室に着くと、すぐに養護教諭の坂田が青いバケツを取り出して、優也を座らせた椅子の前に置いた。
「吐きたかったら、全部吐いちゃいなさい」
 自分の親よりも年上に見える坂田の優しく柔らかい声に、予想以上に動揺していた目黒の気持ちも落ち着いていた。優也は二、三度大きく息をすると、椅子から崩れ落ちるようにして両膝を床に着いた。バケツの両端を掴んで咳と共に嘔吐する。苦しく咳き込む優也に顔があまりにも辛そうで、目黒はその背中をさすりながら、思わず硬く口を引き結んでいた。
「……、ま……」
 目に涙をいっぱいに溜めながら、優也は何かを呟いた。凡そ聞き取れる音量ではなかったが、目黒は何故かそれを人の名前のように感じた。そして何度か瞬きをすると、雫は頬へと流れて余計に苦しそうな表情になる。口を開けながら、ぜいぜいと息を吐いている。
「はい、これで口拭いてね。こっちは水だからうがいして」
 坂田が手際よく優也にそれらを手渡す。そして、目黒の方に目を向けると、来室者表の挟まったグリップボードを差し出した。
「ここに、クラスと名前と時間、症状は――吐き気、でいいかしら」
 次いで鉛筆を渡されて、そこへ記入する。優也を見ると、依然として顔色は最悪だったが、いくらか落ち着いたらしい。今度は瞳の焦点が合っていた。
「ちょっと、病院に行ったほうがいいわね。家に、誰かいる?」
「あ……兄が」
 坂田は優也から自宅の電話番号を聞くと、すぐに保健室の電話の受話器を取った。目黒は優也の様子を気にしながらも、ちらちらと電話のほうを見る。
「仁さん、帰ってきてたんだ」
 呟くように言うと、隣で優也が頷く。
「つい昨日、悪い……言ってなくて」
 そういう意味で言ったのではないと慌てて否定すると、優也は視線を下げたまま、うんともう一度頷いた。
「心配かけて、」
「謝んなよ」
 言葉の先を遮ると、優也は驚いたようにこちらを見て、ふ、と笑った。力はないがいつもの表情だ。
「ありがとう」
「……そういえば、さっき――」
 さっき、誰かの名前を呼ばなかったか。目黒がそう切り出そうとしたとき、ちょうど電話を終えた坂田が戻ってきた。
「すぐ来てくれるそうよ。それまでベッドに横になってなさい」
 淡い色のカーテンで遮られたベッドを軽く整えると、坂田は優也をそこまで誘導する。カーテンを閉めると、椅子に座ったままの目黒の方に向き直って、首をかしげた。
「あなたは課外に戻りなさいね」
 その言葉にぎくりと視線を泳がせたのを見逃さないように、坂田はふうと息をつく。
「あのね、戻りたくないのは分かるけど……」
「そうじゃないです」
 目黒は迷いを振り切って、坂田を見つめた。
「戻りたくないんじゃなくて、ここにいたいんです」
 この声は優也の耳にも届いているだろう。坂田が数回瞬きを繰り返す。
「俺も、病院着いていきます」
「……課外もまだあるでしょう」
「残り二つは自習なんです」
「あなたね、」
「お願いします!」
 必死の思いで頭を下げる。これ以上、置き去りにされるのはごめんだった。優也に何が起きているのか、この目で、耳で確かめなければ気がすまない。
 しばらくして、観念したように坂田はため息をついた。
「……私がどうこう言うことじゃないわね。お兄さんに、お願いしてみなさい」
「ありがとうございます!」
 思わず大声を出してしまって、坂田に「静かに」と宥められる。カーテンを開けて優也のベッドに寄ると、彼は笑いをこらえるように体を揺らしていた。
「なにが自習だよ」
 優也が囁くような声でそう言う。目黒もその様子につられて、まるで悪戯が成功した子供のようにくすくすと笑った。
「だって」
 柔らかな光が薄いクリーム色のカーテンを通り越して室内を照らしている。そういえば今日は驚くほど天気が良かった。
「落ちたって、俺のせいにするなよ」
 優也がにやりと笑う。
「しねーよ」
 目黒も挑戦的にそう返して、穏やかな空気をしばし味わう。
 ノックの音が響いたのは、そのときだ。すぐに坂田が対応して、仕切りのカーテンを開く。
「優也!」
 優也の兄――仁は、厚手のパーカーにジーンズ、それにコートを引っ掛けただけのラフな恰好だった。目元と口元が、よく似ている。
「兄貴、」
 優也が安堵とも苦笑とも着かない声を出す。そして上半身を起こすと、体を反転させて上履きを履いた。
「大丈夫なのか?」
 その質問には坂田が答えた。
「一旦吐いたので、今は少し落ち着いていますが、念のためお医者さんに診てもらってください」
 仁は何度か頷くと、自分を落ち着けるように大きく息を吐いた。
「ご迷惑をおかけしました」
「あの」
 頃合いを見計らって、目黒は仁にそう切り出した。
「俺も一緒に連れて行ってください」
「君は……」
「優也の友達です」
 仁はううんと唸って視線を優也に向ける。それに対して優也がどんな顔をしたのかは分からない。しかし仁は優しく笑って、
「ありがとう」
 とだけ言った。ありがとうございますと返しながら、目黒は全く別のことを考えていた。
 ――目元と口元だけではない。一番似ているのは、この笑顔だ。
 仁の車が走り出すと、静かにBGMが流れ出した。誰の曲かは分からないが、妙に落ち着く優しい歌声だ。横を向くと、優也も目を閉じてそれに聴き入っているようだった。
 病院に着くまで、車内は穏やかな音楽に満たされたまま、誰も喋らなかった。


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