冬のバス停 18


 夏木家の行きつけの病院など知らないが、仁が車を飛ばした先は市内では一番規模の大きい市立病院だった。確か何年か前に新病棟を増築したとかで、その外装も今では随分変わっている。
「駐車場、ここで合ってるのかな」
 仁がぼそりと呟いたのを聞いて、目黒は後部座席の窓から周りを覗いた。旧病棟と新病棟の入り口が二つあるため、駐車場も少々複雑になっているようだ。
「何で、わざわざここまで来たんですか?」
 目黒は車から降りながら、そう尋ねた。小さい診療所なら、もっと近くにもあったはずだ。
「ああ、それは……えっと、ごめん、名前聞いてなかったよね」
 ぼうっとしている優也に肩を貸して座席から降ろしながら、目黒は、あ、と声を漏らした。
「目黒瞬です。お兄さんのお話はよく優也から聞かせてもらってます」
 隣で優也が身じろぎした。照れているのだろうか。
「そっか、目黒君って言うのか」
「ほら、めぐだよ」
 優也が仁に向かって、ぶっきらぼうに呟いた。すると、仁の表情が途端に晴れ上がる。
「ああ、めぐって、目黒君のことだったのか。優也からよく聞いてたよ」
 また、身じろぎ。目黒は気づかれないようにこっそり笑うと、優也と並んで入り口に向けて歩き出した。仁も車に鍵をかけて、すぐに後をついてくる。そう、病院の話だった、と独り言のように呟くと、次いで情けなさそうに笑う。
「……実は、出てくるときあまりに慌てちゃってさ、診察券全部置いてきちゃったんだ」
「じゃあ……」
 仁はそこで優也の財布を自分の鞄から取り出した。財布だけということは、優也の鞄は車の中に置いてきたのだろう。財布のカード入れの中に無造作に突っ込んであるカードを抜き出す。
「優也の財布にさ、何でか、ここの診察券だけ入ってたんだよね」
 その新しいカードのデザインを、目黒は見たことが無い。優也が横で小さく声を上げた。
「この前、風邪ひいたって、いったろ」
 弱々しい抗議に、仁もこれ以上追求する気はないのか、諦めたように前を見る。
「その診察券、見せてください」
 目黒はそれを仁から受け取って作成日を見た。書かれていた日付にはっとする。
「もう、いいか?」
「あ、はい、すみません」
 いつの間にか自動ドアをくぐっていた。ロビーの椅子に座って待つよう言われて、優也の隣に腰を下ろす。ロビーは平日のせいもあり、入院患者と老年代の患者がぽつぽつと座っているだけで、結構空いていた。
「あのさ、優也……」
 ぽつりと、呟く。
 ――昨日は本当に風邪。……でも残りの二日は、サボったっての、本当。
 つい先日優也に言われた言葉を思い起こす。風邪というのは恐らく本当だ。あの診察券の作成日がその日だったから、間違いない。
「なに、めぐ」
「……やっぱ、なんでもない」
「……」
 自分でも分かっていないもやもやしたものの正体を、優也にぶつけるのは間違っている。目黒が真面目な顔で口を噤んだからか、優也も押し黙っってしまう。
「あ、戻ってきた」
 沈黙に耐え切れなくなったころ、戻ってくる仁を見つけてそう言うと、優也もそちらの方に目を向ける。仁は体温計を持って戻ってきた。
「ほら優也、これワキに挟んどけよ」
「ありがと……」
 具合が悪いせいなのか兄の前だからなのか、優也はいつにもまして素直だ。それを少し羨ましいと感じつつも、目黒は隣で笑っていた。優也がなんだか小さな子供のように見えたからだ。(もちろん、そんなことを言ったら「うるせーよ」と一蹴されるに決まっているので言わないが)
 ふと、顔を上げた視界に若い男が映る。見舞いなのか病人なのか、制服を着ている背の高い男だ。顔つきから見ると恐らく高校生だろう。どこの学校だろうか。
 緑色のネクタイに、チェックのズボン。頭できちんと理解する前に、目黒は思わず立ち上がっていた。
「どうしたよ、めぐ」
 優也が驚いたようにこちらを仰ぎ、その視線の先を辿る。しかし、男はちょうど病棟へと繋がる曲がり角を曲がったところで、もうその姿は見えなかった。
「緑色のネクタイにチェックのズボンって、お前この前言ってなかった」
「え……えっ、嘘」
 目黒の言葉にようやく合点がいったのか、優也は目を丸くして、目黒が座ったのと入れ替わりに立ち上がった。そのまま男が消えた曲がり角に向かおうとするので、慌ててけん制する。仁もその腕を掴んで引き止めた。
「ちょっと、待てよ。お前病人なんだからな」
「俺の、見間違いかもしれないし」
「……」
 二人同時に言いくるめられて、優也は不服そうに再び座り込んだ。しかしさっきとは、明らかに様子が違う。青白い顔に、少しだけ赤みがさしたような気もする。
「お前、その男と何かあったのか」
 口にした言葉は、予想以上に追及の色を帯びていた。優也は黙り込んで、今度こそ何も話そうとしない。
「……優也」
 苛立ちを隠せずに名を呼ぶと、優也は一瞬ひくりと反応したがそれだけだった。どうやら、頑なに黙するつもりらしい。いい加減いらついてきて更に語気を荒げようとしたとき、すっと制止の腕が目の前に伸びてくる。見上げると、仁が真剣な表情をして静かに首を振った。しかし次の瞬間、その厳しい表情も消え、困ったように片眉を上げて笑ってみせる。
「俺も聞きたいことは山ほどあるんだけどね。……後でにしようか」
 タイミングを見計らったように、ピピピと体温計が鳴る。張り詰めていた糸が切れたように目黒は背もたれにぐったり寄りかかると、そこに浮かんでいるデジタルの数字を読み上げた。
「37度3分。やっぱりぶりかえしてんじゃねーかよ」
「でも、意外と低いな」
 仁が首をかしげて言う。優也を見ると、さっき男が歩いていった方向をしきりに気にしていた。
「……」
 声をかけようとして口を開けたが、それは断念せざるを得なかった。マイクで拡張された女の声で、優也の名前が呼ばれたからだ。
「行ってくる」
 仁が優也を立ち上がらせ、カルテを持った看護士に連れられて歩き出した。
 目黒は一人ロビーに取り残されて、ふと、この病院のシンボルになっている大きな柱時計を見上げた。
「そういえば腹、減ったかな……」
 もうすぐ12時を告げる鐘が鳴るだろう。目黒は立ち上がると、自動販売機が連なる休憩コーナーまで足を運んだ。いつの間にか、喉はからからに渇いていた。財布をポケットから取り出す。
「学生さん?」
 硬貨が無くて舌打ちした瞬間、後ろから声をかけられて、目黒は思わず財布を取り落としてしまった。
「あっ」
「ごめんなさい」
「いや、すみません」
 慌てて拾い上げてから後ろを振り向く。声の主の顔は、目黒の目線の少し下にあった。
「あ……」
「落ちたよ、学生証」
 それを拾い上げてこちらへ差し出す女性は、車椅子に座ったまま、優しそうな笑顔を浮かべていた。二十歳前後といったところだろうか。普段、この年代の異性と関わることの無い目黒は思わず赤面して、ぱっとそれを受け取り、ポケットに突っ込んだ。やけに恥ずかしい。
「あ、ありがとうございます」
「君、赤船高校?」
 女性は依然として柔らかい表情を浮かべながら、そう尋ねてきた。目黒は千円を自動販売機に飲み込ませながら、はいと頷いた。
「ごめんね、いきなり声かけて。制服の子なんて珍しいから……」
 目黒は困ったように笑う彼女の方に再び顔を向けた。セミロングの黒髪が肩口で揺れている。
「あの、何か、飲みますか」
「いいのよ。通りかかっただけだし」
 女性は目の前でひらひらと手を振ると、慣れた手つきで車椅子を操りながらくるりと背を向けた。
「じゃあね」
「あ、はい、ども……」
 ぽかんとしたまま自動販売機の前に向き直る。札を入れたので当たり前だが、全てのランプが赤く光っていた。
「……キレーな人だった……」
 ほとんど誰にも聞こえない声でぼそりと呟いて、目黒はコーヒーのボタンを押そうとする。
 ――しかし、
「ここにいたのか、目黒君」
 後ろから聞こえてきた思わぬ呼び声にびくりと体を震わせた反動で、横に逸れた指が別のボタンに触れてしまった。
「あ」
「え?」
 仁のきょとんとした声が後ろから聞こえる。
 ゴトン、と音を立てて出てきたのは、案の定ブラックのコーヒーではなく、猫でも飲まないような甘ったるいミルクティーだった。


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