降り続く雪の中、バスを待っていた。不思議と寒さは感じない。漠然と自分はそこに存在している。 横を向くと、いつもの男がいつもコートを身に付けてそこに立っていた。 見られていることに気づいたのか、男がこちらを向いた。目が合うと彼は優しく微笑んで、思わずこっちも笑顔になる。 カーブで途切れた道路の向こうから、バスのエンジン音が響いてきた。薄汚れた緑色の車体が目の前で停まる。男は扉が開くのに合わせてゆっくりと前進した。 そしてふとこちらに向き直って、相変わらず顔に似合わない優しい声で――何かを発した。間近で響くエンジン音が邪魔でよく聞き取れない。耳を澄ます。この声を聞かなくては。そして、返事をしなくては。音は不快なほど異様に大きくなって、カサカサと、紙のめくれるような雑音が混じってくる。 男の顔がぼやけて、同時に車体の緑も白い二本のラインも一気に歪んで見える。目にゴミでも入ったのだろうか。手をあげて擦ろうとして、違和感を感じる。 手が動かない。いつの間にか、何かを握っていた。見慣れたシャーペン。雪は止んでいた。そして、そこはもうバス停ではない。さっきまでうるさいくらい唸っていたエンジン音もない。カサカサと紙のめくれる音、それだけだ。 椅子に座っていた。座りなれた椅子だ。明るい部屋をさらに明るくするスタンドライト。動かない右手を必死に動かそうとするが、やはり上手くいかない。焦りが背中を伝って頭まで駆け上がる。 ――誰かの、視線。 「優也っ!」 瞬間、目を開けると同時に安堵の息が漏れた。目の前に見えているのは白い天井、それから点滴のパックと管、それだけだ。 いや、もうひとつ――自分の手を押さえている人物がいる。首だけ横に向けると、仁が怖い顔で簡易ベッドの傍らに立っていた。 「……あんまり動くと、血が逆流するんだからな」 表情とはうらはらに口から出てきたのは、子供に言って聞かせるような優しいせりふだった。 「逆流って……何それ、怖」 声は喉に絡まって、酷くかすれた。 優也は首を僅かに動かして、腕から伸びる細い管を見つめる。 診察は、ストレス性の胃炎ということだった。優也の予想通り、その原因は受験勉強にあるのではと壮年の医師に優しく告げられた。その後の問診により吐き気止めと解熱剤が処方されたが、しばらくは胃を空にする必要があるということで、点滴をうけていくことを勧められたのだ。 寝てろと言われて寝れるわけが無いと思っていたが、案外できるものだ。優也が感心していると、仁の後ろから目黒が顔を覗かせた。手には缶コーヒーを持っている。 「あ、起きたのか」 「……ブラック、好きだよな」 ぽろりとそんな言葉が漏れた。目黒は一瞬口を半開きにしたが、すぐに端を吊り上げて誤魔化すように笑う。 「まあね」 仁が、残りの栄養剤の量を気にしながらくすりと笑った。何かあったのだろうか。 「優也、嫌な夢でも見たか?」 目黒が、気遣うように目配せをする。優也は頭に残っている夢の断片をかき集めようとしたが、すぐに霧散してしまい、結局首を振っただけだった。 「わかんない、けど……そうかもしれない」 僅かに覚えているのは起きた瞬間の印象だけで、曖昧なことしか言えない。目黒は黙って、優也の耳にかかっている髪に触れた。 「こんなに汗、かかねえもんな、普通」 言われてみれば、全身が少し汗ばんでいる。喉が渇いて体を起こそうとすると、仁に背中を支えられた。 「ゆっくりな」 傍に置かれていたスポーツドリンクの缶を左手に渡してもらう。あらかじめ開けられていたそれを少しだけ喉に流し込むと、ぬるくなった液体が申し訳程度に喉を湿らせてくれた。 「夏木さん」 名前を呼ばれて首を向けると、一人の看護士が仁を呼んでいた。彼は優也の傍を離れ、小さな個室を後にする。 部屋には目黒と二人きりだった。彼は仁が見えなくなったのを確認して、手にしていた缶コーヒーを脇のテーブルに置いた。 「……大丈夫かよ」 「心配しすぎだって」 優也は、まだ浮かない顔をしている目黒に笑いかけた。点滴のせいか、本当に幾分体調はよくなっていた。まだ何かを食べる気にはなれないが、それでも気分は落ち着いている。 「優也、話してくれよ」 目黒は丸椅子に腰掛けると、真剣な声でそう切り出した。きたか、と優也は静かに思う。 「ストレスって、受験勉強……じゃ、ないだろ」 確信めいた言い方だった。優也は手元の管に目を落として、しばし考え込む。目黒に本当のことを全部話せるわけがなかった。かといって、嘘を言えばすぐにばれてしまうだろう。そういうところだけ勘のいい男だ。 目黒は、優也が何か言うまで根気よく待つつもりらしい。優也はようやく覚悟を決めて、伝えるための言葉を探した。 「似たようなもんだよ」 息と一緒に吐き出した言葉で、重苦しい沈黙を破る。目黒は、今度は取り乱すこともなく冷静なままだ。 「お前の成績なら、余裕のラインだろ」 「受かる落ちるの話じゃなくてさ」 「じゃあどういう話なんだ?」 思えば、目黒が追及してくることなんてめったに無い。いつもいい距離感で彼の方が一歩引き下がってくれるから、こんな揚げ足を取りあうような会話はしたことがなかったのだ。 「だから、何て言ったらいいんだろ、勉強自体のさ……」 「なんならさ、」 尚も曖昧な優也に煮えを切らしたのか、目黒は被せるように強引に言葉を発した。こんなことも、初めてだ。強い瞳で見つめてくる目黒は、どこか焦っているようにも見える。 「なんなら、一個ランク下げてさ、俺んとこ来いよ。もういいだろ、滑り止めでもさ。二次とか、受けなくていいじゃん」 「めぐ……」 目黒の必死な様子を目の前にしてどうしたらいいか分からずに、優也はただ呆然と彼の名を呼んだ。目黒が第一志望に決めている私立大学に、優也も既に合格していた。ただ、今更そんなことも出来まい。大体、母に何と言えばいいのだ。優也は身震いして、その先の想像をかき消した。 「なあ、マジでさ、心配なんだよ、俺」 目黒は穏やかな、それでいてしっかりとした声でそう言った。その手が、汗ばんだ優也の前髪をかきあげるように撫でる。額に感じた手のひらの体温に、ふと冬真のことを思い出した。 ――まだ、顔色が悪いな。 そう言って、額に手を乗せてきた男のことを、どうして束の間、忘れていたのだろう。あの、澄んだ朝の空気によく響く声で、意外と優しそうに微笑む、男のことを。 「……悪い」 気がつくと、目黒の手は額から離れていた。複雑そうな表情で謝られる。 「なにが」 純粋に疑問を感じて尋ねる。目黒はつま先で彷徨わせていた目線をあげると、おずおず、 「怒らないか?」 と、たずねてきた。怒らないかと聞くということは、つまり怒らせるようなことを言うということだろう。「多分」 いつもの調子でそう返すと、目黒は了承と取ったのか、少し間をおいて、それでもはっきりとしたいつもの声音で続けた。 「……今、お前、泣きそうな顔してた」 「…………」 優也は、まるで逃げ場がなくなったような切迫感を感じて、息を詰めた。目黒に追及の様子は無かったが、どこか悲しげな色を顔に滲ませている。 「悪い……でも、さっき言ったこと、本気だから、さ。考えとけよ」 「……わかった」 頷くことしかできなかった。冬真のことが頭に出てきてから、どうしても離れてくれないのだ。さっき目黒が見たと言っていた制服の男は、冬真だったのだろうか。今朝彼がバス停にいなかったのは、なぜなのだろうか。 とにかく、この細い管から早く解放されたい。優也はパックに入った残りの液体を確認すると、黙りこんだ目黒が話題を探すように見ていた窓の外に、そっと目を向けた。 |