冬のバス停 20


 仁はそのすぐ後、看護士に連れられて個室に帰ってきた。その看護士はちょうど、優也にこの管を差し込んだ人物である。栄養剤を確認すると、ガラガラと医療器具の置かれたカートを横付けする。目黒が邪魔にならないように椅子から立ち上がった。
「もう抜いていいですね」
 それから流れるような動作で優也の腕から針を抜き、そこにガーゼをあてたままテープでぴたりと固定する。
「食事はしっかり食べてお薬も飲む、あと激しい運動は控えてくださいね」
「はい、ありがとうございました」
 仁が頭を下げる。ようやく解放された右腕を軽く動かしながら、優也はベッドから降りた。
「薬は?」
「もう貰ってきた」
 ということは、治療代諸々も支払ってくれたということだろう。多少抜けているところもあるが、やはり兄だ。しばらく見ない間に、仁はすっかり大人になってしまった。
 ロビーに戻ると、先頭を歩いていた目黒が急に足を止めたので、優也はその背中にぶつかりそうになってしまった。
「おいめぐ、急に止まるな……」
「あの人!」
 目黒は小さな叫び声で優也の言葉を遮ると、広いロビーに置かれた観葉植物の陰を指差した。
「あの車椅子の――」
「……冬真」
「え、なに二人とも、知ってる人?」
 仁の問いには答えなかった。見間違えるはずも無い。そこにいたのは、見慣れた制服を身に付けた長身の男だった。やはり、目黒が見たという制服の男は彼だったのだ――。と、そこでようやく、中途半端になった目黒の台詞を頭で処理する。確かに傍らに、車椅子に座った女性がいる。どうやら二人は会話を交わしているようだ。
「とうま?」
 目黒が隣で首をかしげる。少しして、今度は合点がいったように縦に首を振った。優也は自然と、彼らのほうへ歩き出す。
「あの制服、やっぱり……っておい、待てよ」
 目黒が後ろから着いてくる。鉢を少しだけ回り込むと、二人の姿が先程よりよく見えた。向こうもこちらに気がついたようで、目が合う瞬間、足を止める。冬真は驚いたように口を少し開けて、目を瞬かせた。微かな緊張が優也の中に張り詰める。
「優也」
 ああ、この声だ、ようやく聞けた――感情の深淵で、そう感じる。乾いた心が、胸が、じんわり潤っていくようだ。自分はこの優しい声を、こんなにも渇望していたのだろうか。
「あら、あなたが優也君ね」
 優也が黙っているところへ、車椅子に座った女性が話しかけてくる。清潔と言う言葉がぴたりと当てはまるようなすっきりした風体で、それでいて柔らかい雰囲気の漂う人物だ。
「あ、はい」
 答えてからふと冬真を見て、ようやくしっかりと認識する。二人を見比べると、よく似ているのはくっきりした鼻のラインだ。
「お姉さん……ですよね」
「知ってるの」
「少し……冬真から」
「そうなの。……そこにいるのは、さっきの子よね」
 くすりと笑って、女性が目黒を見る。目黒は途端にきりりとした表情になって、はい、とやけに元気に返事をした。
「優也は、どうしてここへ?」
 冬真の表情が心配そうに曇る。優也はどう言うべきか考えて、誤魔化すように苦笑いを浮かべた。
「まあ、ちょっと……。それより冬真は。今朝はバス停にいなかったじゃん」
 無理やり話題を変える。冬真は曇らせた表情はそのままに、しかしそれ以上強く聞き出そうという様子は無いようだった。
「ああ、今日はちょっと学校に出なきゃいけなかったから」
「そうなんだ」
「話の途中悪いんだけど、優也。もしかしてこの子がバス停に現れたっていう……」
 口を出したのは仁だ。そういえば先日、彼に少しその話をした気がする。
「そうだけど、何だよ現れたって」
「俺は知らねーんだけど」
「あー、えっと……」
 何だか話がこんがらがってきた。優也が混乱していると、助け舟を出すように冬真が話し出す。
「俺は橋野冬真。この人は姉さんの由紀。俺は見舞いでここに」
「冬真君か。俺は優也の兄の夏木仁。いつも優也がお世話になってます」
「いえ、こちらこそ……」
 ぺこりと頭を下げた仁は、いつも以上に人のいい笑みを浮かべている。目黒も、負けんとばかりに一歩前に出た。
「俺は目黒瞬っていいます。優也の友達っす」
 目黒の目線は完全に由紀に向いている。この二人の間に何があったのかは知らないが、特につながりの無い男より僅かだが接触のある女性に食いつくのは、普通の男子高校生の心理なのかもしれない。
「優也君の友達っていうことは、あなたも三年生なのね」
 由紀が言いながらひざ掛けを整える。優也は驚いて冬真に目線を向けた。彼女に一体何処まで話しているのだろうと気になったからだ。
「この子ったら、最近いつも優也君の話をしてるから……」
「え?」
「やめろよ、姉さん」
 冬真が慌てたように制する。優也のほうも恥ずかしくなって、何となく視線を彷徨わせた。
「こいつも冬真君の話をしてるときは本当に嬉しそうで……」
 仁まで、隣で妙なことを言い出す。優也は慌てて仁の腕を掴んだ。
「な、何言ってるんだよ兄貴」
 咎めるように言うが、しかし仁は気にした様子も無く、はいはいと笑っている。
「じゃあ、お邪魔はちょっと退散するよ」
「どこ行くの」
「売店。目黒君も、腹減っただろ」
「あ……はい」
 時計は既に一時を指している。優也自身はまだ何かを食べる気分ではないし、医者にも食べてはいけないと言われているが、目黒や仁は違う。一気に申し訳なさが湧き上がってくる。だいたい、目黒は課外を休んで来てくれているのだ。後で、彼の好きなピザまんでも奢ってやろう。
 仁は目黒の返事を聞いてから由紀の方へ顔を向けると、
「由紀さんも一緒にどうですか。飲み物でもおごりますよ」
 にこりと笑いかけた。不思議と嘘くささは無く、それはあたかも自然とこぼれた笑みであるかのように映る。
「ありがとう」
 由紀も満更でもない様子で、はにかみながら礼を言った。それから冬真に小声で何か言ったかと思うと、車椅子の向きをくるりと変えて進み出す。その流れるようなやり取りに、暫し呆気ににとられてしまう。
 遠くなる二人の背中をしばらく目で追ってから顔を戻すと、隣で目黒が豪快にベンチに腰掛けた。
「俺のときは断られたのに……」
 ぶつぶつと、何に対してか文句をつけている。
「どうしたんだよ?」
「なんでもない。……それより、冬真だっけ。その制服、どこの?」
 目黒は話題を変えるように呼吸をひとつおくと、唐突に冬真へ質問した。
「奈城高校だ」
 冬真は以前優也の質問に答えたのと同じように言うと、目黒は一瞬考えて、ああ、と納得した。
「遠くない?」
「遠いな」
 その切り替えしまで同じで、優也は思わず笑ってしまいそうになる。
「何で、優也と知り合いなんだ?」
 そこで、目黒の声色が微妙に変化したことに気づいた。優也から見える横顔に変わりは無い。上手く表現できないが、まるで何かを量っているような、そんな空気の変化を感じ取ったのだ。静かに心がざわつく。
 冬真を見ると、一瞬、目が合った。彼は何と答えるのだろう。
「……色々、あって」
 冬真は考えながら、それだけを口にした。色々あって知り合いです、とは、彼にしてはあまりに曖昧な答えだ。全てを内包しているようで、それでいて何も示していない。
「……色々ね」
 目黒が拍子抜けして背もたれにもたれ掛かった。優也も安堵して息をつく。
「色々だよ」
 流れに便乗しながら、優也は思案した。なぜ、自分は冬真の答えにほっとしたのだろう。目黒の、追求にも似た質問を上手くかわしてくれたからだろうか。それで場の空気が柔らかくなったことに、安心して――、
 ――いや、違う。優也はある考えに思い至って、頬がかあっと熱くなるのを感じた。
 目黒に知られたくなかったのだ。二人の繋がりを目黒に話すことで、あの束の間の時間が大切な物でなくなってしまうような、そんな気がしたのだ。だから、浅ましくも、彼が言葉を濁したことをこんなにも嬉しく感じている。
「優也?」
「え?」
 目黒が、怪訝そうな色を湛えた瞳をこちらに向けていた。
「なんか顔赤い?」
 優也の呆けたような反応が気になったのか、目黒は眉間に皺を寄せてことさら優しく言う。優也はちくりと罪悪感のようなものを感じて、ふいと目を逸らした。
「気のせいだろ」
「熱、またあがってきたんじゃないのか」
 冬真にまで心配そうな顔で訊ねられ、優也は苦笑して首を振った。
「大丈夫、ちょっと考え事」
「……そうか」
 冬真の口元がようやく緩む。それを見た途端、優也はたまらない気持ちになった。苦しい、切ない、痛い、熱い。全てがない交ぜになったようなぐちゃぐちゃした気持ちが、血液と一緒に心臓へ流れ込んでくる。
「ま、明日くらいはさ、休めよ、課外」
 目黒が明るい口調で言う。懐かしい、いつもの距離感だ。優也もうるさい心臓の音を掻き消すように笑う。
「羨ましいか?」
「当たり前だろー。明日俺は、皆の追及のマト……」
 ああ嘆かわしい、とばかりに大げさな動作で肩を竦める。
「それは大変だねえ」
 いつものように軽く受け流したところで、冬真がふと顔を横に向けた。
「……帰ってきた」
 その呟きに反応した優也と目黒は、こちらに向かってくる二人の姿を捉える。だんだんと近くなる仁と由紀は、和気藹々といった様子で楽しげな会話を交わしていた。
 優也は、気分を変えるように咳払いすると、仁に向かって軽く手をあげた。
「あー」
 目黒が本当に嘆くように出した小さな声には、聞こえないふりをして。




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