冬のバス停 21


 心地よい振動と暖かな空気に眠気を誘われる。家路を辿る車内には、依然として静かな音楽が流れていた。
「目黒君、今日はありがとうね」
 仁が微笑みながら礼を言う。目黒も笑いながら、「いや、昼飯奢ってもらったし」と嬉しそうだ。
「えっと、この先を右だっけ?」
「あ、はい、それから床屋の横を曲がって、三軒目です」
 目黒の家は優也とは学区が違うため、結構離れたところにある。高校との距離はだいたい一緒だが、そういえば通学のときに一緒になることは滅多に無い。優也は自転車通学のとき商店街の広い道路を通るが、目黒は近道が大好きな男だ。もっと短縮したルートを通ってきているのかもしれない。
「久しぶりだな」
 その風景は雪化粧のせいですっかり優也の記憶とは違っていたが、どことなく懐かしさを感じる。最後に目黒の家に来たのは高校二年生の夏だ。確か、彼が新しいゲームを買ったとかで、それにつき合わされたのだった。
「雪が降ってるときに来るのは初めてだろ?」
「そうだな。……道路、こんなに狭かったっけ」
「除雪車が道路脇に雪山作ってくれるからな」
 目黒は窓の外を指差しながら苦笑する。優也も納得して頷いた。
 今まで特に意識したことは無かったが、自宅前の道路もそうだったかもしれない。この地域は豪雪地帯ではないが、それでも夜中に降り積もった雪が何十センチにもなることもあり、除雪作業は必須だ。しかしその雪も、一度車道に出れば除雪車によって脇に寄せられている。
 がたがたと雪の轍を進みながら、車は緩やかに速度を落として、床屋の角を曲がってちょうど三軒目の家の垣根の前で止まった。庭に大きな松の木のある、間違いない、目黒の家だ。
「ここでいいかな」
「ありがとうございました」
 目黒は鞄を掴んでドアを開けた。冷たい冬の風がちらつく雪とともに入り込んできて、眠気もどこかに吹き飛んでしまう。礼を言ったあと、優也に目を向けた目黒は、にっと笑っていつもの軽口を叩いた。
「復帰は盛大に祝ってやるから、しっかり休めよ」
「なんか俺、入院するみたいだ」
「同じようなもんだろ」
 じゃあな、と言って目黒はドアを閉めた。入り込んだ雪がシートの上で光っていて、手で軽くほろうとそれはすぐに水滴となって優也の手を濡らした。再び走り出す車の中は、会話もなく静まり返る。
「優也。……お前、冬真君に病院まで運んでもらったんだって?」
 静寂を打ち破った言葉は、あまりに唐突なものだった。優也は逡巡して、小さく頷いた。
「あの人から聞いた?」
「うん。いつもは一時間はいるのに、その日は急いで病室から出て行ったって」
「そう……なんだ」
 優也の記憶しているそのときの彼は、何でもないような顔をして、そんな素振りはまったく見せなかった。彼女の言葉を疑う気はないが、どうにも信じがたい。
 もし、本当にそうだったなら。いや、そうであればいいのにと、心の片隅で思っている。冬真が自分の身を案じて、急いで来てくれたのだとすれば……。嬉しい、と言葉にしてしまえば陳腐なものだが、その種類の感情がどこからかわきあがってくるのを感じた。今日の自分はどこかおかしい。いや、病院に運ばれた時点で通常とはかけはなれているのだが――。
「それでさ」
 仁の言葉にはっとして、泥沼の思考を霧散させるように優也は数回瞬きをした。
「そのお礼っちゃあなんだけどさ、今週の土曜に見舞いに行かないか?」
「……え?」
 はにかみながらも平然と告げる仁の言葉がすぐに飲み込めずに、優也は思わず固まってしまった。優也を助けてくれたお礼が、なぜ由紀の見舞いになるのだろう。
「……兄貴」
「ん?」
 優也はかろうじてため息をこらえ、窓の外に目を向けた。
「兄貴が由紀さんに会いたいだけだろ、それ」
「…………」
 車内が再び静まり返る。しかし、しばらくすると仁が苦しそうに唸りはじめ、バックミラー越しに優也を見た。
「……ばれた?」
 ばつが悪そうな顔だ。どうも憎めないのは、実際はどうでも本当に反省をしているように見えるからだ。
「こじつけにも程があるだろ」
 仁にしてはやけに積極的だとは思ったが、やはり下心があったのだ。まあ、彼女も満更でもなさそうな様子だったので止めろとは言えないが、自分たちがだしに使われそうになっているこの状況には納得できない。 
「で、俺にもついてきてくれって?」
「ちょっと息抜きついでにさ。母さんには俺が上手く言っとくから」
 仁の口からその単語が出て、ぴりりと背筋に緊張が走った。そういえば、今日の課外での症状はあまりにも酷いものだった。試験は着実に迫っているし、もう後戻りは出来ないと言うのに、自分は一体何をやっているのだろう。一気に焦りが浮かんできて、優也は途端に落ち着かなくなる。
 もしまた、問題に向かっただけであんなことになってしまったら? ――不安が全身をめぐる。優也の沈黙に気がついた仁が、落ち着いた声で言葉を続ける。
「俺はさ、優也。しなきゃならないことが、いつも一番大事なものとは限らないと思うんだよ」
 勉強は大事だけどさ、と笑いながらつけたす。優也は見慣れた商店街が過ぎ行くのを眺めながら、静かにそれを聞いていた。
「例えば、やっちゃいけないと思っていたことが、実は一番大事なことだったりもする。優也は勉強しないといけないって思ってるかもしれないけど、今は休むのが一番大事だろ。……違うか?」
 優也は黙っていたが、不思議と、さっきより気持ちが楽になっていた。仁はその音楽で人を熱狂させるが、同時に人を癒す力をも兼ね備えているのかもしれない。まるでスーパーマンだ。……そういえば、人を助けるスーパーマンの癖に料理が得意という男もいた。考えて思わず笑みがこぼれる。
「わかったよ、兄貴。つまり、土曜日に一緒に行けばいいんだろ」
「よし!」
 仁が嬉しそうに声を上げる。車は見慣れたバス停を過ぎ去り、住宅地へと入っていた。
「一応冬真に連絡しとくよ」
 携帯電話を開いて、着信履歴から彼の名前を探す。しかし発信を押そうとして、ふとその指が止まってしまった。もしまだ病院にいたら、迷惑になるだろう。いや、冬真のことだから、後で折り返しに電話をくれるかもしれない……。どうしても彼と話したいと思っている自分に嫌気が差して、優也は電話をやめてメール画面を開いた。
「あ、ちょっと待って優也」
 仁の制止がかかったのはそのときだ。優也が顔を上げると、仁は口をもごもごさせながら、あのさ、と小さく続けた。
「俺は、あくまで優也のついでだから、その……」
「はいはい、兄貴は俺の付き添いって言っとくから」
「さすが優也、話が早い!」
 仁がついてくるという時点で何かおかしいような気もするのだが、彼にとってはそこのところがいたく重要らしい。優也はメール画面で色々考え込みながら、そういえばこんなにメールを打つのに時間をかけたことは無かったと思い起こす。最終的に当たり障りのないものが出来上がり、送信してしまうと、今度はその返信が気になってしまう。まるで好きな人にラブレターを渡した女の子のようだ。
 自分の想像にがっくりと肩を落としたとき、車がぐん、と振動して止まった。ドアを開けて外に出ると、踏み込んだ途端スニーカーがずぼりと雪にうまる。どうやら今日は随分と積もってくれたらしい。
「優也はさっさと部屋で休んでろ」
「兄貴は? ……曲作り、途中にしちゃっただろ」
 問うと、仁はさっきまでの元気はどこへやら、げんなりした様子で力なく笑った。
「……まずは、雪かきだな」
 どうやら、作曲どころではないらしい。愛車が雪に埋まる想像でもしたのだろうか。優也はそそくさと玄関に向かい、仁を振り向いた。礼を言おうとして――気恥ずかしくてやめる。結局、がんばれとだけ声をかけて、優也は誰もいない家の中に入った。
 携帯電話がポケットの中で震えたのは、そのときだ。急いで取り出すと、冬真からの返信だった。心臓が跳ね上がる。
『わかった。ロビーで待ってる』
 それだけの、簡素な文面だった。しかし、それが逆に冬真らしい。
 優也は携帯電話を閉じると、しばらくそれを握り締めたままその場を動かなかった。



  戻る  次へ