冬のバス停 22


 一日の療養期間はすぐに過ぎて、土曜日がやってきた。
 この日は雪がぱらつく程度の曇天で、この分だと先日のように靴が埋まるほど積もることはないだろうが、仁はそれをしきりに気にしていた。
 「図書館に行ってくる」と、いかにも怪しい嘘をついて、優也は仁の車に乗り込んで病院を目指していた。道の途中で、花屋に寄ったりスーパーに寄ったりして時間を食ってしまったが、着くときに連絡を入れると冬真には伝えてある。待たせてしまうということは無いだろう。
 仁は始終無口だった。恐らく緊張しているのだろう。優也は緊張するとつい饒舌になってしまうが、仁はその逆なのだ。
 車が病院の門をくぐったところで、優也は冬真にメールを送った。改めて会うとなると、確かに気を張ってしまう。仁のことを笑えないような状況だ。優也は澄んだ外気を吸い込んで、再び吐き出した。一瞬、視界が一面の霧に覆われる。小さい頃、白く残る息を炎に見立てて友達と『恐竜ごっこ』をしたことを思い出す。
「優也、俺鍵閉めたっけか」
 病院の自動ドアが開いたとき、仁が不安そうな声でそう漏らした。表情だけは平静を装っているようだが、優也にはすぐに分かる。先日、病院で彼女に見せたときのスマートさは欠片も見当たらない。実際はこんなものなのだろうか。
「閉めたよ、大丈夫だから」
 苦笑する。仁があまりにも頼りないせいか、逆に優也の方が落ち着いてきた。ロビーの暖かい空気にすっかり包まれると、ベンチを見回して冬真の姿を探す。
「いた」
 この間と同じ観葉植物の隣に、冬真は座っていた。
「おはよ」
 声をかけると、冬真はすぐにこちらに気づいて立ち上がった。そして、仁に向かって軽く会釈をする。
「わざわざ悪いな。具合は?」
「おかげさまで」
「良かった」
 冬真に言われてはっとする。そうだ、仁はあくまで付き添いだということを伝えているのだった。見舞いのメインは優也であり、仁はおまけだ。ふと微妙な気分になって仁を横目で見るが、にこにこと愛想のいい笑顔を浮かべているだけだった。
 冬真に案内された病室は、五階にあった。ゆっくりと歩いてくれる冬真の後に続きながら、仁ではないが妙な緊張で優也も無言になっていた。病院内の雰囲気がそうさせるのかもしれない。改築前はどこか閉鎖的な感じを漂わせていた廊下も今は明るく開けているが、やはり慣れないせいか視線がきょろきょろと動いてしまう。エレベーターに乗っている間も、三人は病棟の厳かな雰囲気に倣うように静かだった。
「ここ」
 冬真は短くそう告げると、バリアフリーが徹底された引き戸をカラカラと開けた。恐る恐る後に続くと、ふわりと甘い匂いが鼻をついた。部屋の奥に行くに連れて、その香りは濃厚になる。窓際のベッドに上半身だけを起こしてこちらを向いた顔には、確かに見覚えがあった。
「優也君、仁君――ありがとうね、わざわざ」
 肩に触れるくらいの髪を揺らしながら微笑んだのは、冬真の姉である、橋野由紀だ。横で立ち止まった仁が一歩彼女に進み出る。
「これ、良かったら」
「そんなに気を遣わなくてもよかったのに」
「ほんの気持ちですから」
 仁が差し出したのはここへ来る前に買った花篭と、アソートクッキーの入った紙袋だった。花は特に散々悩んだのだが、結局トルコキキョウに決めた。由紀がそれを持つのを見て、仁は満足そうに笑みを浮かべている。確かに、彼女にこの花篭は絵になるほどよく似合っていた。
「ありがとう」
 由紀も本当に嬉しそうに笑う。年上相手にこんなことを思うのは失礼かもしれないが、微笑ましい光景だ。冬真を見ると、彼も丸椅子を用意しながら穏やかな表情だった。
「私、学校行ってないから、友達にお花を貰うのは初めて」
「窓際の花は?」
 仁の指差した先には、小さな花瓶に入って控えめに飾られた花があった。優也はそれを認識してようやく甘い香りの正体を認識した。濃厚な花の香りだ。花とは、こんな優しい匂いのするものだったのか。
「ああ、これは北海道のお婆ちゃんから」
 冬真が、用意した椅子に腰掛けるよう促す。由紀が受け取った花篭を花瓶の隣に置きながら、ふと遠くを見つめるように窓の外に目をやる。
「懐かしいなあ、お婆ちゃん、元気かな」
「由紀さんは、昔そっちに住んでいたんですか?」
 仁の質問に由紀は軽く頷いて、考えるような仕草をした。
「三年前……に、なるのかな。冬真の高校進学のときにこの町に越してきたから」
「北海道に比べたら、こっちはやっぱり暖かいですかね」
「そうね、そうかも。私はあまり外に出ないからよく分からないけど」
 由紀は片目を瞑っておどけた様に笑って見せた。
「あっちではね、よくお婆ちゃんが差し入れを持ってきてくれたのよ。オムライスとかカレーとか。うちのお婆ちゃん、喫茶店をやってて……」
 優也はその言葉にはっとした。以前、冬真の家で休ませてもらったときに聞いた気がする。喫茶店を営んでいる祖母がいて、冬真はそこに就職するのだと言っていた。
 ……北海道。
 認識した瞬間、優也の中の漠然としたもやもやが一気に形を成した。痛いくらいに心臓がばくばくと跳ね始める。由紀と仁が何か会話して笑い合っているが、ひとつも耳に入ってこない。
「ごめん、俺、ちょっとトイレ――」
 立ち上がると、丸椅子が床と擦れて思いのほか大きな音が鳴ってしまう。優也が入り口に向かって歩き始めると、後ろから由紀の声がかかった。
「場所分かる?」
「俺、一緒に行ってくる」
 ちょうどドアを開けたところで、冬真の声に一瞬足を止める。無論、優也は言葉通りトイレに行く気などなかった。少し外の空気でも吸って、熱くなった思考を冷やそうと思ったのだ。冬真についてこられては困る。なんといっても、この頭の混乱の元凶はこの男にあるのだから。
「いい、一人で行けるから」
 優也は完全には振り返らずに、後ろにいるであろう冬真に向かって制止の言葉を掛けた。返事は聞かずに、すぐに歩き出す。自然と早足になっていた。
 まどろっこしいエレベーターを通り過ぎて、階段を駆け下りる。人一人すれ違うことの無いまま、いつの間にか一階のロビーへ繋がる廊下へ出た。建物の中が暖かいせいか、僅かに背中が汗ばんでいる。
 親子連れの来院が目立つロビーを突き抜けて自動ドアをくぐると、火照った頬に冷たい空気が張り付いた。息を吸うと、生ぬるい口内がすっとクリアになる。
 冬真と会えるのは今のうちだけだということは、何となく自分でも理解していたはずだ。それなのに、この苦しさは何だろう。これからもずっと、彼とバス停での逢瀬を繰り返していく気がしていたのかもしれない。冬真にも優也にも進むべき道がある。そして、それはとうに示されているというのに。
 仮に、冬真ともっと早くに出会っていれば、何かが変わっただろうか。何でもない話をして笑ったり、互いの家に遊びに行ったり、一緒にいろんなことを共有して、今この瞬間も、もっと晴れやかな気持ちで彼の背中を押すことが出来たのだろうか。
 もっと、冬真と一緒にいたい。自覚はゆらゆらと降る雪のような切なさを伴って、優也に新たな痛みを与えた。ふらりと、建物に沿って歩き出す。
「優也」
 静かな、しかし何にも混ざらない真っ直ぐな音吐が耳に入ったとき、優也はもう驚きはしなかった。
「冬真」
 足は止めずに、同じく静かに応える。もし立ち止まって振り返ったら、自分の中の感情が暴走してしまうような気がしたのだ。そんな優也に追いつこうとはせず、冬真は同じ距離を保ったまま後をついてくる。背後に確かな気配を感じて、優也は安堵と焦燥がない交ぜになったような不思議な感覚にとらわれていた。



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