冬のバス停 23


 二人は黙ったまま、綺麗に除雪された駐車場を通り過ぎて、杉林の生い茂る開けた裏庭へ出た。辺りは一面真っ白で、何か植え込みでもされていたのだろうか、雪囲いが少しばかり顔を出している。優也が立ち止まると、一定の距離を保ったまま、冬真も歩みを止めた。
 息を大きく吐き出すと、ふわりと白い色が浮遊する。虚空を見つめたまま、優也は問いかける。
「北海道に行くのか」
「ああ」
 間は無かった。覚悟していたことだ。薄いジャケット越しに、寒さが凍み込んでくる。
「優也は、大学だろ」
「うん……どうだろ」
 曖昧な相槌を打ったあと、優也は灰色の空を仰いで笑った。思ったより乾いた声が出て、すぐに口を閉じる。
「……」
「俺、どうなるんだろう」
 空から降ってくる雪の結晶を、ただ呆然と眺める。その一つを目で追うと、あっという間に白い地面に吸い込まれて消えた。形の無い不安が、優也の心の中を巣食ってがんじがらめにする。
「優也」
「……この前、数学の問題見ただけで、気持ち悪くなってさ」
 ふと、冬真に全てを吐き出してしまいたい気になった。誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。そうして、この得体の知れない黒い感情を、共有して欲しいと思ったのかもしれない。
「それで、病院運ばれて。おれ……!」
 言葉が詰まって、震える息を吐き出す。
「俺……恐いんだよ……!」
 叫びに近い言葉は、響くことも無く白い息だけを残して消えた。切々とした思いがこみ上げてくる。すると、いつの間にか固く握り締めていた拳を後ろから強く握られた。冷たい手は優也のものと代わりは無いが、思わぬ出来事に狼狽して後ろを振り返る。
 しかし、優也が見ようとしていたもの――冬真がどんな顔をしてそこにいるのかということ――は、まるで確認することができなかった。目の前に広がる雪景色に、二人分の足跡が薄っすらと浮かんでいる。
「……」
 温かい、と優也は思った。涙が出るほど温かい何かに、包まれている。しばらくは、自分の心音と息遣いだけが聞こえていた。頭が追いついていかなかったからかもしれない。
 力いっぱいとは言えない優しい加減で、冬真は優也を抱き寄せていた。いつでも抜け出せるようなふわりとした感覚に、目を眇める。
「……なんか、なんでもいいから」
 優也はまるで熱に浮かされたように饒舌に、それでも冷静さを保ってそう告げた。それはほとんど、独り言に近い。
「どうしようもないことが起こって、……そのどさくさにまぎれてさ、どっか行っちゃいたい」
 無論、そんな「どうしようもないこと」が起こるわけはないし、起こるとも思っていない。優也が思うのは、よく小学生が「台風が来て、学校が休みになればいいのに」というのに似ている。ただの我が侭だ。
「……そんなことばっかり、考えてるんだ」
 笑おうとしたが、到底無理だった。せめて笑ったふりをしようと口角をあげたが、上手くいかない。自分は今、相当情けない顔になっているだろう。
「優也……」
 距離が近いせいか、冬真の声がいつもより深く響いてくる。心に沁みる響きだ。心地いい。目を閉じそうになるが、こらえる。一度の瞬きでさえ、この状況を全て夢に変えてしまいそうな気がしていた。
「冬真、」
 ありがとうと、言いたかった。しかしその先は喉の奥でひくついてしまい、出てくることは無い。まるで逃げ道を優也に与えてくれているような冬真の温かさに、いつまでも浸かっていたいような気になる。全てを忘れさせてくれるような心地よさが、そこにはあったのだ。
「……泣けよ、優也」
 そして冬真は唐突に、そう切り出した。沈黙の間、優也の呼吸に合わせるように背中を優しく叩いてくれる。
 じわりと視界が歪んだ。
「大丈夫だから」
 冬真の優しい声が、静かに目頭を熱くする。優也も何も言い返さないまま、瞬きを繰り返した。自分で驚くほど、視界を遮る雫がとめどなく瞼から溢れてくる。
「……っ」
 涙は、こんなに熱いものだっただろうか。感じて初めて、自分の頬が冷え切っていることに気付く。たまらず肩を震わせると、背中に回された腕の力がほんの少し強くなった。なぜか胸が、いっそう苦しくなる。
 しばらくの間、二人の間に言葉はなかった。優也は行き場のない不安を全てぶつける様に、声を殺して泣いた。それを包み込むような冬真の腕の中は、哀しくなるほど温かだった。





「随分遅かったな」
 ゆうに三十分は経っただろうか。病室に戻ってきた二人を出迎えてくれた仁の一言は、あまりに簡潔なものだった。部屋の雰囲気は依然として柔らかく、空気を感ずるに、由紀とは随分と打ち解けたように思える。
「ごめん、ちょっと売店に寄ってて」
 優也は何事もなかったかのように、仁の隣に腰掛けた。冬真の方を見るのが、なんとなく気恥ずかしい。
 ここに戻ってくるまでも、二人の間にほとんど会話はなかった。冬真は、優也が落ち着くまでずっと黙って待っていてくれたせいもあり、その体は雪でだいぶ濡れてしまっていた。さらに時間がかかったのは、ロビーの中でしばらく暖まってきたからだ。
「……病み上がりなんだから、無理しちゃ駄目よ」
 由紀は困ったように笑った。彼女も仁も、疲弊が見て取れる優也の様子にはひとつも触れようとしない。ただ、仁がわざとらしく腕時計を確認したかと思うと、頃合を見計らったように膝に丸めていたダウンジャケットを広げた。
「じゃあ、あんまり邪魔しても悪いし、そろそろお暇しようかな」
 そして優也に向いて、
「風邪菌ばら撒かれたら困るしな」
 唇の端をあげてにやりと笑った。優也の体調を心配しているのは明らかで、何も言い返す言葉が見当たらない。
「また、いつでも来てね」
 由紀の言葉は社交辞令ではなく、本当にそう思っているように感じる。すんなり胸に落ちるような話し方も、冬真によく似ていた。
「また来ます。おだいじに」
 仁の後に続いて病室を出る。ドアを閉めようと振り返った瞬間、冬真と目が合う。彼は何か言いたげに唇を引き結んだまま、ベッドの脇に佇んでいた。
「じゃあ」
「ああ」
 ほんの一言交わして、すっと視線を外す。最近の自分は、冬真に甘えてばかりだ。このままではいけないと思う。彼には彼の進む道があり、夢があって、その邪魔をしてはいけない。拳を固く握って、不甲斐ない自分を叱咤する。
 歩き出した仁の背中を追いながら、優也はほんの数十分前に感じた温かさと切なさを断ち切るように、少しだけ目を閉じた。



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