日曜日は、どこにも出かけずに家に閉じこもっていた。窓から見える外の景色は、強風のせいで粉雪が暴れ、うねっていた。まるでそれ自体が意識を持っているようだ。さすがにこんな日にわざわざ外に行く人はいない。仁はまたギターケースを持ってどこかへ行ってしまったが、さすがの優也もこの吹雪の中を散歩に出かける気にはなれなかった。 日が暮れるのは早い。四時を過ぎて暗くなり始めた窓にカーテンを引いて、その代わり電気をつけると、優也は再びフローリングに腰を下ろした。小さなミニテーブルは、仁の部屋から借りてきている。床も壁もひんやりと冷たいが、そんなことは気にならなかった。 久しぶりに握ったペンは、案外自分の手にしっくりと馴染んだ。先日の気持ち悪さはなんだったのかというように、気分は落ち着いている。壁に背中をぴたりとくっつけているからかもしれない。壁を伝う冷たさは、常に優也の後ろは誰もいないということを教えてくれる。 人工的な明かりに満たされた部屋は、不自然に明るい。優也は目を瞬かせて、軽く伸びをした。久しぶりに集中して勉強をしたことで生じた充足感が、優也に若干の心の余裕を与えていた。 床に置かれた携帯電話が無様な音を立てて震え出したのは、そのときだった。名前を見て、優也は一瞬それを取り落としそうになる。冬真からの着信だった。 「もしもし」 スピーカーに耳を強く押し付けると、向こうからも「もしもし」と聞こえてきた。電話を通してでもよく分かる、冬真の優しい低音だ。 『今、ちょっといいか』 「うん、いいけど。どうした?」 平静を装っているが、優也は病院での出来事を思い出して落ち着かない気持ちだった。無駄に立ったり座ったりしながら、言葉の続きを待つ。 『たいした事じゃないんだけどさ』 と、冬真はそう切り出した。 『俺、婆ちゃんの所に行くって言っただろ』 「……ああ、北海道」 いきなり何の話だろう。優也は慎重に返事をした。そして、この先に聞くことを一言も漏らすまいと息を殺す。 『うん。それで、ちょっと早めにあっちに行くことになってさ』 「……そうなんだ」 ほんの一瞬の間のあと、「いつ」と優也は続けた。静かすぎて、心臓の音が大きく聞こえる。 『今週の土曜日』 「今週の……」 優也はゆっくりと冬真の言葉を反芻した。一日、二日と今日に足していくと、一気に、現実感を帯びてその事実は迫ってくる。そしてその次の日の日曜日は、優也の二次試験の日だ。 『婆ちゃんから電話があって、急に決まったんだ。出来るだけ早く仕事に慣れてもらいたいからって』 いち、に、さん、し、ご、ろく……。優也は心の中で残りの日数をカウントしてみた。心のどこかで、これは嘘ではないかと叫んでいる自分がいる。だって、早すぎるじゃないか。 『姉さんも了承してくれたし、俺もそうしたいと思ってる。……優也?』 名前を呼ばれて、優也ははっとした。 「ああ、ごめん……。良かったな」 胸が苦しい。泣きたいのをこらえるときのような苦しさだ。胸に詰まって、声が震える。しかし涙はこの前出し尽くしてしまったからか、まったく出てこなかった。 「あ、じゃあ卒業式は出ないわけ?」 自分の気持ちを逸らすようにそう問いかける。冬真はすぐに「いや」と言った。 『うちの卒業式は三月下旬だから、そのとき一旦こっちに帰ってくるつもりだ』 「そっか」 優也の卒業式は大概の高校生と同じく、三月一日だ。課外だらけの学校だが、その日で高校生活も終わる。 そのあと、自分は何をしているのだろう。宙に放り出されたような不安が襲う。冬真はお婆さんの喫茶店で働く。もうビジョンは見えていて、そこへ向かって進み始めているのだ。 『優也は』 「え?」 一瞬、心の中を読まれたかと思って優也は動揺した。立ちっぱなしだった足が思い出したように痺れ始めて、ゆっくりとベッドに腰掛ける。 『優也は、いつ試験なんだ?』 何気ない口調で、しかし慎重に、丁寧に冬真はその質問を口にした。この間のことで、また冬真に余計な心配を掛けてしまっているのだろう。その優しさがもどかしく、苦しい。 「次の、日曜日」 『……』 瞬間、冬真は言葉を詰まらせた。優也はわざと明るくその沈黙を破る。 「俺は大丈夫だからさ、冬真は仕事、がんばれよ。夢だったんだろ」 『まだ見習いだけどな』 「うん、でも、いいじゃん。……冬真のメシ、うまかったぜ」 『あれくらい、いつでも食わせてやるよ』 「なんだよそれ……」 まただ。冬真と話していると最近、変なのだ。訳も分からず苦しくなる。自然と心臓のあたりを強く握っていた。得体の知れないこの状態が怖い。全てを知っているはずのこの体も、その原因については沈黙を保ったままなのだ。 『あと一週間くらいだけど、何かあったら言えよ』 「冬真」 『何も出来ないけどさ』 ふと笑った冬真の言葉に、優也は首を振って否定を示した。そんなことはない。冬真には助けられてばかりだ。そして、甘えてばかりの自分に嫌気が差す。 「ごめん」 優也は小さく呟くと、 「俺、大丈夫だから。本当に」 それをかき消すように努めて明るく笑った。大丈夫、心配ない、冬真が喫茶店の仕事をがんばるように、自分も受験をがんばる。それでいい。 『優也……』 「じゃあ、そろそろ切るな」 これ以上、冬真を頼ってはいけない。夢に向かう冬真を、ただのわがままで引き止めてはいけないのだ。それは病院で優也が決意したことであったし、正しいと信じている。 『ああ、いきなり電話して、悪かったな』 「いや、そんなことない」 じゃあ、と軽く挨拶して、優也は携帯電話を耳から離した。二つ折りにして、ベッドの上にぽんと投げる。 「土曜日……」 優也は呟いて、自嘲気味に笑った。もしかして、冬真が自分をどこかに連れて行ってくれると思っていたのだろうか。とんだ思い上がりだ。冬真は前を向いている。優也のように、何かから逃げたりしない。ベッドに倒れこむと、また胸が痛くなって体を丸める。冬真が優しいせいだ。だから、こうやって付け上がる奴が出る。あの温かさに包まれていたいという気にさせられる。 目を閉じると、あの日の体温が戻ってくる。優也はあることを決心しながら、しばしその感覚に身をゆだねた。 |