冬のバス停 25


 その日の朝、優也は体調不良を理由に、車で学校へ送ってくれるよう仁に頼んだ。仁ははじめそれを聞いた時に納得のいかないような奇妙な顔をしたが、何かいうわけでもなく、承諾してくれた。
「ようやくやんだな」
 吹雪のことだろう。あの風の音とその振動が窓を震わせる音は、夜中じゅうずっと聞こえていた。今は快晴とはいかないものの随分回復したようで、外に出るとあちこちの家で雪かきをしているところだ。優也はセダンの助手席のドアを開けようとして、意外にも苦戦した。
「はは、凍ってるだろ」
「あ、か、ない」
「どれ」
 見かねた仁が近づいてきて、手をかける。三回ほど勢いよく引っ張ると、ばり、と音をたててドアが開いた。
「優也は力がないんだよな」
「うるさい」
 仁は高校生までバスケット部に所属していた。もっぱら文化部の優也の握力はそれにかなう筈もない。
「拗ねるなよ」
 仁は上げていたバンパーを下し、次いでブラシで車に積っていた雪を落とした。優也は一足先に乗り込んで、道中にかけるCDを物色する。すると、ビートルズやユニコーンのCDに混じって、一枚の真っ白なレーベルを発見した。何も書かれていないCD-Rだ。ここに置いているということは、音楽に違いないのだろうが、『SNOW』の曲だろうか。『SNOW』の正規のCDは優也の部屋にもある。となると、まだ試作の段階なのだろうか。興味が湧いて、優也がそれを手放せずにいると、運転席に乗り込んできた仁が慌てたように手を伸ばしてきた。
「それはだめだ」
「新曲?」
 優也はすんなりCDを仁に手渡したが、仁はまだ疑っているのか、運転席のドアポケットにそれを入れた。入念だ。
「そんなところ」
 エンジンが温まるまで、車は動き出さない。優也はちらりと車の時計を見た。いつもなら冬真と二人でバス停にいる時間だ。そして、今は一人でそこにいる。彼のことだから、なにかあったのかと心配しているに違いない。
 裏切ったような気分になって、優也はたまらず窓の外を見た。今すぐにも、あそこへ走っていきたい。きっと彼は微笑みながらこう言うだろう。「そんなに焦らなくても、まだバスは来ないぞ」。
「よし、行くか」
 優也はぎゅっと目をつぶって、飛び出したい衝動をこらえた。自分で下した決断だ。簡単に曲げてしまっては、意味がない。それに、これは本当は冬真の為なんかではないことを、優也自身よくわかっていた。冬真の邪魔をしてはいけないから、というのは嘘ではない。しかしその根底には、邪魔をしてしまう自分がいるという確かな自覚が存在している。冬真に甘えることで、現実から逃避しているのだ。
 黙っていても、冬真は遠くへ行ってしまう。それなら、これ以上余計な依存をする前に離れてしまったほうがいいと思った。そのほうが、きっと火傷は少なくて済む。何年もたって、こんなこともあったな、と笑えるくらいの小さな出来事になるはずだ。
「好きなのかけろよ、優也」
 車はゆっくりと道路に出て、慎重に進み始めた。優也は再びCDの山に目を落としたが、特に聴きたいというものはない。適当に古ぼけた英語のレーベルをひっぱりだしてセットしながら、優也はぼんやりと考えた。冬真は、どんな曲を聴くんだろう。そんな話はしたことがなかった。音楽だけじゃない。好きな食べ物も、スポーツも、犬派か猫派かということも、知らない。知らないことが多すぎる。
 忘れようと決意した矢先にそんなことを考えている自分に気がついて、優也は苦笑した。欲求不満で胸を渦巻くモヤモヤも見なかったことにして、そういえばめぐは猫派だったな、と思い出していた。
 雪小路には、もう誰もいなかった。バスは行ってしまったのだろう。冬真はどう思っただろうか。そればかりが気になって、優也は落ち着かなかった。それを見かねたのか、仁がこちらに目配せをして話題を振る。
「俺、今週の木曜日に駅前でライブやるから」
「は?」
 それがあまりに唐突過ぎて、優也は思わず間抜けな声で返答してしまう。今、何て言った?
「だから、『SNOW』のミニライブ。駅前に広場あるだろ。あそこで」
「でも、なんで急に」
「急じゃないよ。告知はもう出してるし、前から決めてたんだ」
 優也はあっけにとられていた。現在は主に隣県で活動中の『SNOW』だが、元は学生バンドだ。ほとんどのメンバーが、赤船高校の出身である。それゆえに、この近辺でも名だけは有名なバンドだった。ただ、一度もこっちでライブをしたことなどない。弟の優也でさえも、仁の曲を聴くのはCDの中でだけだったのだ。
「俺、行っていいのかな」
 試験を三日後に控えた木曜日に外出するなど、母は絶対に許さないだろう。仁は朗らかに笑って、「大丈夫」と告げた。
「ライブ自体は三十分だけだし。二時からだから、目黒君も誘ってみてよ」
「……分かった」
 冬真は? ――声には出さずにふと思ったことが顔に出たのか、仁は前を向いたままに静かに告げる。
「実はね、由紀さんを招待してるんだ」
「え……」
「だから、冬真君も来るだろうね」
 なにかおかしいとは思ってはいたが、用意周到すぎやしないか。優也はいよいよ疑念を隠しきれなくなって、仁に突っかかった。
「由紀さんのためにライブをやるんじゃないの」
 図らずも鋭い口調になってしまう。仁は曖昧に苦笑した。それが答えだった。
 本気なんだろうか。本気で仁は彼女のことが好きなんだろうか。気にはなったが核心に触れられないまま、車はいつの間にか赤船高校の前までたどり着いていた。



 校門をくぐるのも廊下を歩くのも、久しぶりなせいか妙に緊張した。人は相変わらず少ない。ブレーカーを身に付けた運動部がちらほら見えるだけだ。
 ドアを開けると、教室の中は随分閑散としていた。何人かが、大丈夫かと声をかけてくる。考えてみれば、課外の途中に倒れた以来の登校だ。
「お、元気そう」
 目黒は椅子に座ったまま、片手を上げて挨拶してきた。優也はライブのことを伝えるため、荷物を置いた後彼の元に歩いていく。
「ライブ?」
 優也の誘いを受けた目黒の反応は明るかった。面白いものを発見したように目を輝かせて、食いついてくる。
「行く行く! 入場料とか、取られんの?」
「ミニライブって言ってたし……多分無料なんじゃねーかな」
 脳裏に由紀の顔が浮かぶ。すると連動して冬真の顔も浮かんできて、優也はかき消すように首を振った。
「じゃあ、兄貴にも行くって言っとくよ」
「サンキュ。……てかさ、俺はいいとして、お前は大丈夫なのかよ。日曜日だろ? いち、に、」
 試験のことだろう。目黒の試験も日曜日だが、彼はその国立大学に入る気は元からないらしい。記念受験のようなものだと、以前笑いながら話していた。
「三日後」
 優也が投げやりに呟くと、目黒は急に神妙な顔をして、「なあ」と言った。
「前言ったこと、覚えてるか」
「……ああ」
 目黒の進む私立大学に来ないか、という提案だ。優也は僅かに頷いて、苦笑した。
「つうか、まだ落ちたわけじゃねえし」
 四方八方から心配されすぎて、なんだか変な感じだ。明るく突っ込むと、目黒も「そうだよな」と言って、同じく苦笑する。和やかなムードに戻ったことに安堵していると、ドアが乱暴な音を立ててがたりと開いた。
「やっと来たな、夏木!」
 教室中に響くような大声を出してずかずかと近づいてきた男の顔を見て、優也と目黒は思わず顔を見合わせた。
「SNOWのライブ、もちろん行くから!」
 そういえばこいつは『SNOW』のファンだった――優也が記憶を掘り起こしていると、隣で目黒がぼそりと、「だから何だよ」と呆れたように呟いた。それには気づいていないようで、宏夢は目を一段ときらきらさせながら、未だ見ぬライブの光景に想いを馳せているようだ。
 この男との間の確執は全て解決したわけではない。しかし、楽しそうな宏夢の表情に思わず気も緩む。結局そのあとチャイムが鳴るまでの間、『SNOW』がいかにいいバンドかという宏夢の講義を、優也と目黒は黙って聞いていた。




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