冬のバス停 26


 事態が全て上手い方向に進んでくれるとは、限らない。
 課外を受けるのは倒れて以来のことだったが、その時ほどではないもののやはりあの症状は消えていなかった。まずはじめに緊張感が全身を襲う。背後から視線を感じてどうにもたまらなくなる。次第に腕に力が入らなくなって、頭痛と吐き気がこみ上げてくる。
 そんなとき優也は、ぎゅっと目を瞑って祈るように冬真のことを思い浮かべた。「優也」と呼ぶ低い声、そして抱きしめられたときの安心感。するとまるで魔法のように緊張も解けて、問題に集中することが出来た。
「……メール……」
 帰りのバスの中、ふと携帯電話を開いて、新着メールが一件届いていることを確認する。開くと、冬真からだった。「なにかあった?」と、極めて簡潔な文章でそれだけがつづられている。優也は罪悪感を感じながら返信画面を開いたが、結局一文字も入力しないまま携帯電話を閉じた。どう返せばいいのか思いつかない。沈んだ表情で窓の外に目を向けると、バスは間もなく『雪小路』に到着するところだった。
 降車して、ぼんやりとした足取りで家路に着く。家には誰も居なかった。仁はあのままどこかへ出かけたのだろう。開けっ放しの彼の部屋から黒いギターケースの姿が消えていた。
「ライブ、か……」
 部屋に入ってベッドにダイヴすると、そのまま仰向けになって天井を睨む。どうなるんだろう。今の状態では、とてもまともに試験なんて受けることが出来ない。目黒の言葉が誘惑ともつかない微妙な妥協点としてそこにあるが、それが最善の判断だとは、どうしても思えなかった。
 冬真は――冬真はもう将来に向けて、着実に進み始めている。対して優也はその場に足を止めたまま、楽な道を探しているだけだ。自分が情けない。優也は自分を奮い立たせると、起き上がってストーブの電源をつけた。昨日と同じミニテーブルに勉強道具を広げ、壁に背をつける。シャーペンを握っても、やはり緊張が襲ってくることは無かった。




「優也、最近どうなの?」
 夕食を手早く済ませて食卓から抜けようとした優也に、母は何気ない様子で静かに問いかけた。優也が病院へ運ばれたという事態を知ってから、母は勉強の監視を止めた。「試験直前は神経質になるものなのよ」と、それが理由らしかった。理由はどうであれ、優也にとってはありがたい。あれは地獄の時間だった。そして、恐らくその後遺症が、こうして残ってしまっているわけだが――それをわざわざ母に説明する気は、もとより無い。
「普通だよ」
「そう。……もう少しなんだから、体調管理はしっかりしなさいね」
「うん」
 優也は素直に頷くと、今度こそ居間を後にする。ストーブをつけていたおかげですっかり暖まった部屋に戻ると、優也はふと思い出してバッグの中を探った。取り出したのは携帯電話だ。
「どーしよ……」
 二つ折りを開くと、パチンと音がしてメール作成画面が現れる。さすがに無視するわけにもいかず、優也はそれを睨みつけながら頭を捻った。嘘をついても、ばれるのは時間の問題だ。それならいっそ、本当の事を伝えて納得してもらった方が手っ取り早いのではないか。
 決心が鈍る前に、優也は「これからは車で行くことになった」とメール画面に打ち込んで、すぐに送信した。胸がざわついて、勉強を再開する気にもなれない。しばらく携帯電話を開いたり閉じたりしていたが、それが急に震え出して思わず放りそうになってしまった。
「……電話?」
 見ると、それは予想していたメールの返信ではなく、着信を告げるコールだった。「冬真」と表示された文字に逃げ出したい気分になりながらも、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『具合、まだ良くないのか』
 冬真はどこか焦ったような早口で、そう告げてきた。優也は驚きながらも、いや、と口を濁す。
「いや、大丈夫だよ。心配しなくても、」
『じゃあ、なんで!』
 優也の言葉を遮るようにして、冬真は責めるような口調でそう続けた。
『なんで、いきなり……!』
 電話口から聞こえてくるその声音に困惑した優也が何も言えないでいると、少しして、大きく息を吐く音が雑音越しに聞こえてきた。
『悪い……なんか俺、変だよな。……切る』
「……冬真?」
『ライブ、楽しみにしてるから』
「冬真!」
 電話は切れた。優也はまだ混乱した頭の中で必死に思考回路を繋ぎ合わせて考えてみたが、冬真が何を言いたかったのか全く分からない。それでも、自分はとんでもないことをしてしまったのではないかという不安だけは、ぐるぐると渦巻いていた。冬真は何を伝えたかったのだろう。「なんで、いきなり」と、彼は言った。それに対する答えはあるが、それが冬真に関係している以上、話すことはできない。これはあくまで、優也自身の問題なのだ。
 優也が悶々としながら机に懐いていると、ちょうどノックの音がして、思わず身構えた。
「入っていいか」
 しかし、聞こえてきたのは仁の声だ。了承すると、小脇に何かを抱えた仁が部屋へ入ってくる。
「ほら、差し入れ」
「シュークリーム?」
 仁が持っていた白い箱の中には、おいしそうなシュークリームの小袋がいくつか入っていた。ひとつ取り出してみると、見慣れないパッケージだ。
「それ、由紀さんがお礼にって……地元から送られてきたものらしくてさ」
「ふうん……って、もしかして今日も行って来たのかよ?」
 優也は頷きかけて、仁の顔を見上げた。仁は優也の向かいに腰を下ろすと、恥ずかしそうに頭をかきながら、「まあ、うん」と曖昧に頷いている。
「バンドの練習じゃなかったの」
「もちろん、それがメインだけど。帰りに、ちょっと寄っただけだよ」
「……兄貴さあ」
 優也はまったく悪びれない様子の仁を見て呆れながら、一瞬だけ悩んで、そう切り出した。
「由紀さんのこと、好きなの」
 言うと決めたのに、いざ言葉にすると気恥ずかしさからか小さい声になってしまう。仁は面食らったように目を瞬かせていたが、次第に質問の意味を理解したのか、不自然に目を逸らして、顔を耳まで真っ赤にしながら、
「うん」
 と頷いた。
「…………」
「…………」
 優也もその先を考えていなかったせいで、妙な沈黙が流れてしまう。予想はしていたが、こんな空気になるとは思っていなかった。
「そ、そうなんだ」
「……俺さ」
 仁は相変わらず目線を逸らしたまま、シュークリームの個包装を開けながら言った。
「こんなに人を好きになったのって、初めてなんだ」
 優也は一足先にシュークリームにかじりつく。何かしていないと間が持たない。口の中に控えめな甘さが広がった。美味しい。
「なんか、一緒にいるだけで幸せっていうか、同じ空間を共有してるだけで嬉しいっていうか」
「ノロケじゃん」
「馬鹿言うなよ、まだ片思い中なんだから」
 そうして仁は一息つくと、今度はその矛先を優也に向けた。
「お前はまだガキだからわかんないかもしれないけどさ」
 一緒にいるだけで幸せ。同じ空間を共有していることが嬉しい。……優也はぴたりと動きを止めた。それによく似た気持ちを、確かに自分は知っている。
「……」
 優也はかじりかけのシュークリームを穴が開くほど見つめながら、凄く、凄く重大なことに気づいてしまいそうになって、静かに顔を上げた。
「兄貴は由紀さんと、もっと一緒にいたい、って、思う?」
「ん……そりゃあな」
 擽ったそうな表情で笑う仁を見て、優也は弾かれたように立ち上がっていた。
「勉強。するから、出てって」
「え?」
 シュークリームを頬張ったままぽかんとしている仁を無理やり立たせると、その背中を押してドアまで誘導する。
「お、おい、優也!」
 仁の戸惑いの声が強みを帯びる。何も言わずにドアを閉めた優也は、体を反転させて、その場にへたりと座り込んだ。知恵熱って、こんなときに出るんだろうとぼんやり思う。頭の中は、それこそショート寸前にぐるぐると回転していた。
「…………嘘だろ」
 ぽつりと呟く。頭に浮かんだのは、冬真の姿だった。そのイメージは何度かき消そうとしても、消えてくれない。テーブルの上に置かれた携帯電話を見る。その横には、食べかけのシュークリームと、白い箱。
「嘘だろ」
 もう一度呟いて、わけも分からず泣きそうになって、優也はしばらく、そこから動けずにいた。




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