冬のバス停 エピローグ


「うん……大丈夫、寒いけど。そっちは、どう?」
『なんか、帰るタイミング失っちゃってさ。毎日散歩。……元気すぎるんだよあいつは』
「兄貴の体力がないだけだろ」
『母さんは相変わらずだし。ハチって名前付ければ、皆忠犬になるって思ってる』
「はは、柴犬なのにな。……由紀さんはどう?」
『今病院の前で電話してるんだけど。元気そうだよ』
「そっか」
『それより、……あ、ちょっと!』
「……兄貴?」
『優也! なんで俺に言わないで出発したんだよ!』
「……め、めぐ」
『あ、すみません仁さんちょっとケータイ借ります。……まったくよ、一言くらい言ってくれてもいいだろ』
「悪い、なんかばたばたしてて」
『いい、わかってるよ。……お前がウチの大学蹴って偏差値クソ高いとこ目指すって言い出したときは、どうなるかと思ったけど』
「なんとかなったから、いいだろ」
『問題はそれだけじゃねいんだよ。優也、お前は知らないだろうが、そっちにかた……あっ』
『まったく、びっくりした。ああごめん優也、目黒君、最近よく会うんだ。由紀さんのお見舞いに来てるらしくて』
「へえ……。気をつけなよ、兄貴」
『え』
「ま、いいや。じゃ、めぐと由紀さんによろしくな」
『お、おう。がんばれよ、大学生!』
 通話は途切れた。優也は県道の脇を歩きながら、ジャケットの合わせをぐっと引き寄せる。四月上旬といっても、まだまだ気温は上がりそうにない。津軽海峡を越えただけでこんなにも気候が違うということに、引っ越してきたはじめの数日間は辟易としていた。
 一年前の受験当日、解答用紙を白紙で提出したことを仁に話したとき、彼は「兄弟って、似るもんだな」と言って、笑っていた。母には、北海道の大学を目指したいということを頼み込んで、一年間の浪人生活を承諾してもらった。予備校にも通って、すっかり自宅に居ついた仁が柴犬を貰ってきたのは、七月のことだ。
「スパルタ教育か……」
 息子には過剰な期待をしないことに決めたのか、母はハチの教育に熱心だった。朝、夕の散歩は優也の役目だったが、餌はほとんど父があげていた。職場で溜まった愚痴をハチに語りかけている様子を、何度か目にしたことがある。少しずつ、ぎこちなくではあったが、夏木家の錆び付いた歯車がゆっくりと回り始めていることを、優也は感じていた。
 アパートから十分ほど歩くと、三つ目の交差点に着く。町内会で植えられた花の鉢を横目に通り過ぎると、ちょうど三軒目に喫茶店『disgelo』があった。"disgero"は"雪解け"を意味するイタリア語だと教えてもらったことがある。お洒落な木目調に彩られた外装には開放的なガラス窓が取り付けられており、庭には真っ白な屋外席も置かれている。優也はしばし立ち止まり、買ったばかりの腕時計を覗き込んでみた。まだ時間には余裕がある。
「夏木! 夏木だろ!」
 しかし、後ろから聞こえてきた元気な大声に、優也は踏み出しかけた足をぴたりと止めた。嫌な予感とともに振り返ると、そこにいた人物に驚きを隠せない。
「……片、霧?」
「言っただろ、お前には負けないって! いやいや、まさか夏木も落ちるとは思わなかったけどさあ」
 優也の尊敬するヴォーカリスト、片霧蓮の弟……片霧宏夢だ。
「俺、本気で勉強したんだよね。長かったなあ、一年」
 べらべらと思い出話を語り始める片霧を置いてさっさと喫茶店に向かおうとするが、ぐいと腕を掴まれて阻止された。
「ちょっと待てよ、一緒に行こうぜ」
「俺、ちょっとここ寄らなきゃいけないんだよ。悪いけど、話は後で、な!」
「あ、おい夏木!」
 『CLOSE』の札のかかった扉を素早く開けると、カランコロンと音が鳴る。窓から外を覗くと、片霧は不満そうな顔をしながらも、しぶしぶと歩みを再開させたようだ。
「ふう……」
「いらっしゃいませ」
 改まった調子の声が聞こえて正面に向き直ると、白のワイシャツに灰色のタータンチェックのズボン、そして黒のエプロンをつけた冬真が立っていた。
「……お、はよう」
 何度か準備中の店に顔を出したが、こうして仕事服に着替えた彼を目にするのは初めてだった。訳も無く恥ずかしくなって、さりげなく視線をそらす。
「おはよう。今日から学校なんだろ?」
 一年かけて、この喫茶店のオーナーである祖母からたっぷりノウハウを学んだ冬真は、今年からほとんど店を任されているらしい。そして、アルバイトとしてこれから優也もここで働かせてもらうことになっている。
「うん。終わったらまっすぐ来るから」
「さっきの、誰?」
「さっき?」
「店先で、何か話してただろ」
「ああ、片霧宏夢。蓮さんの弟で、元クラスメイト」
 冬真とは一度ライブで会っているはずだが、覚えていないのも無理はないだろう。冬真はふうんと興味なさげに相槌を打つと、突然優也の手首を掴んだ。
「なに、……っ」
 引き寄せられたと思ったら、そのまま口付けられる。すぐに唇は離れたが、冬真はどうも納得いかないというような顔をしていた。優也はパニックに陥ったまま、ぱちりと瞬きをする。
「……ごめん、なんか、むかついたから」
「…………」
 じわりと、顔に熱が集まるのを感じる。冬真も恥ずかしそうに頬を掻きながら視線を外した。くすぐったい沈黙が流れる。
「……あの、さ」
 話題を逸らそうと優也は切り出した。差し込んできた日差しに照らされて、ダークブラウンのタイルに二人分の影が落ちる。
「似合ってるよ、服」
 雪解けの季節、桜はまだまだ咲きそうにないが、春の光は暖かさを帯びて静かに漂っていた。




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