冬のバス停 30


 一時間後に、折り返しのバスがターミナルの車庫から出てきた。乗り込んでから四十分後、『雪小路』を過ぎた緑色のバスは市立病院の前で緩やかに停まった。
「……晴れたな」
 空から顔を出す日光を仰いで、冬真が眩しそうに目を細める。雪も、バスに揺られている間にやんでしまったらしい。
 病院に行こうと勧めたのは、優也だった。まだ出発までは時間があるようだったし、不安要素を残したままこの地を発つことは良くないと思ったのだ。もちろん、もう少し冬真と一緒にいたいというのもあったが――それは優也の中での静かな決意で覆い隠して、口には出さずにいた。
「悪いな、バス代」
「別に大丈夫だ。あるから、金」
 しれっと言う冬真になんとなくむっとしたが、奢ってもらった手前何も言い返せない。黙って自動ドアをくぐると、見慣れた受付カウンターと待合ベンチが目に入った。ロビーに入ってはじめて、スウェットにジャケットという情けない恰好が気になってくる。
「なあ、俺寝癖ついてない?」
 不安になって歩きながら問いかけると、冬真はちらりとこっちを向いて、「ああ」と頷いた。
「ついてる」
「えっ嘘」
「嘘」
 すかさずそう言って悪戯っぽく笑う冬真に、優也は怒るのも忘れて見とれてしまった。ふと我に返っていじけて見せるが、もう遅いだろう。
 もっと冬真の色々な表情を見たいという衝動がむくむくと沸きあがってくる。首を振って打ち消していると、いつの間にか病室の前まで辿り着いていた。扉を開ける瞬間は独特の緊張感があって、優也は背筋をぴんと伸ばす。
「冬真! 帰りなさいって言ったでしょ……あら」
 入った途端叫ばれて身構えてしまったが、冬真の後ろからひょいと顔を出すと、ベッドの隣に小柄で細身の女性が立っていた。視線をずらすと、見慣れたもう一人の姿が目に入る。
「優也!」
「兄貴……」
 朝から出かけていたのは、このためだったのか。優也はあえて何も聞かなかったが、仁も優也がなぜここにいるのか、聞こうとはしなかった。
「ああ、えっと……友達」
 冬真が立ちっぱなしの女性にそう紹介する。そこではじめて、ベッドに横になっていた由紀がおかしそうにくすりと笑った。
「お母さん、優也君よ。……仁君の弟さん」
「ああ、そうなの……」
 優也は瞬きして、とりあえず頭を下げた。由紀の母ということは、つまり冬真の母だ。見比べてみると、由紀とは目元と鼻筋が似ている。ともかく由紀が思ったより元気そうで、安心した。
「大丈夫だよ母さん、時間はまだあるし。最後にちょっと寄っただけ」
「まだある、って言ったってねえ」
「今更駄々こねるほど、ガキじゃないから」
 冬真の顔をちらと見る。すると冬真もこちらに目を向けて、苦笑した。わかっている。あれは二人だけの秘密だ。
「さっきより顔色良くて安心した。俺、もう行くよ」
「あ、ちょっと待って冬真」
 踵を返しかけた息子を、母が呼び止める。
「コートのボタンはちゃんと閉めなさい。風邪引いたらどうするの。あと、これね、マフラー。これも。手袋、お父さんのなんだけど、いいわよね」
 母親にあれこれ世話を焼かれている冬真を隣で見つめる。彼はどこか恥ずかしそうにしていて、その様子は優也の目に新鮮に映った。
「じゃあ、向こうに着いたら連絡するのよ。いってらっしゃい」
「いってきます」
 親子のやり取りをじっと見つめていた優也は、冬真が今度こそ部屋に背を向けたことに気づいて、振り返った。どうしようか目を泳がせていると、冬真が目配せをしてくる。
「おじゃましました。由紀さん、おだいじに」
「ありがとう」
 由紀の声を聞きながら、体は思ったよりスムーズに動いていた。冬真に追いつくと、ちょうどよく腹が鳴って笑われる。そういえば、起きてからまだ何も食べていない。
「昼飯、売店でいいなら」
「……いつか、奢って返すよ」
「楽しみにしてる」
 おにぎりとお茶を買ってもらい、ちょうど着いたバスに乗り込む。今日一日で、何度このバスに乗っただろう。
「なあ冬真」
「ん?」
「どうしたら、親とうまくやっていける?」
 何気なく訊ねる。さっき目にした光景が、脳裏に焼きついているのだ。自分が冬真の立場だったら、果たしてああなっただろうか。
「……そうだな。参考になるか分からないけど」
 冬真は少し考え込んで、そう切り出した。
「うちでは、犬を飼ってる」
「犬?」
 予想外の答えに聞き返すと、冬真はもう一度頷いた。
「シロっていうんだけど。ゴールデンレトリバー。親の注意がいい感じにそっちに向いてさ、ちょうどいいぜ」
「なるほど……」
 優也は感心して唸った。優也はペットを飼ったことがない。だからか、夏木家に犬というイメージ自体がわかないのだが、どうだろう。しっかり者の父は、毎朝早起きして散歩に出かけるのかもしれない。プライドの高い母は、犬の教育に余念が無いだろう。そこまで考えて可笑しくなって、ふ、と吹き出してしまった。
「……いいかも、犬」
「だろ」
 言いながら、冬真も嬉しそうだった。
 それからいくつものバス停を通り過ぎる間、シロが夜中に遠吠えをしてよく母に叱られていること、夕方は昼寝をしていて驚くほど静かにしていることなどを、取りとめもなく話した。なんの終着点もない会話がこんなに楽しいと感じたことがあっただろうか。冬真も優也自身も、いつもより余計饒舌になっている気がした。
「『雪小路』に止まります。お降りの方は――」
 しかし談笑は、その一瞬で打ちとめられる。窓際に座った冬真がピンポンと軽やかなブザー音を鳴らし、優也は遠くに見えてきたオレンジ色の看板に目を凝らした。
 ――次、停まります。
「あ、二人分で」
 言いながら、冬真は運賃箱にじゃらじゃらと硬貨を投入した。後に続いてステップを降りると、今朝見たばかりの『雪小路』のバス停は酷く懐かしく感じられた。もしかしたら、それはこうして冬真とともにこのバス停にいることに対して、だったのかもしれない。
「……空港までは、どうやって行くの」
「家に父さんがいるから、車で」
「そうなんだ」
 離れがたくて、優也はその場を一歩も動けなかった。冷たい息を肺一杯に吸い込んで、覚悟を決める。
「冬真」
 呼びかけると、目をしっかりと合わせる。好きな人に告白するのはきっとこんな気分だと、優也は思考の隅で考えた。心臓が強く鳴っていて、手に汗が浮かぶ。
「俺、もう逃げんのやめたんだ」
 できるだけゆっくりと、力強く告げる。冬真の表情がゆっくりと変化した。
「一年だけ、待っててくれないか」
「……優也」
 唾を飲み込んで、腹に力を込める。――行かないで、なんて死んでも言うもんか。
「一年後、絶対そっちに行くから!」
 答えを聞く間もなく、ぎゅう、と抱きしめられていた。冬真の匂いがふわりとして、優也は目を細めた。恐る恐る、両腕を冬真の背中に回す。
「待ってる」
 冬真の声は、力強かった。信じていると言われたようで、優也は泣きそうになりながら笑った。

 柔らかな日差しに照らされた冬のバス停は、二人の距離のちょうど真ん中で、ひときわ誇らしげに輝いていた。

END


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