冬のバス停 29


 ぼんやりと土曜日の朝を迎えると、時計は七時前を指していた。カーテンを開けると、白い空からは柔らかな雪がぱらぱらと降り続いている。廊下は、しんと静まり返っていた。両親は既に仕事に出かけたらしい。隣の部屋からも物音は聞こえなかったが、仁はまだ寝ているのだろうか。
 優也は寝巻き代わりのスウェットの上にジャケットを羽織ると、スニーカーを引っ掛けて外に出た。
「出かけたのか……」
 家の庭には、セダンの姿が無い。昨日はバンドのメンバーと盛大に打ち上げをしていたようだったが、今日は何の用事だろう。そんなことを考えて相変わらずの朝の冷え込みに首を縮ませながら、優也の足は自然といつものバス停へと向かっていた。
「……」
 『雪小路』には、もちろん誰の姿も無い。優也はしんと冷えた両手をポケットに突っ込んだまま、静かに息を吐いた。ライブの後の出来事は、一瞬の夢のようだった。否、本当に夢だったのではないかと思うこともある。あれから冬真からは何の連絡もないし、今日、彼は北海道へ出発するのだ。いまいち現実感の沸かない自分自身をどうにかしようとここに来てみたが、何が変わることもない。景色は何一つ変わることなく、看板を挟んだ隣の空間が、ただ寂しげにぽっかりと空いているだけだ。
「冬真……」
 自分から連絡を取ることも考えたが、結局出来なかった。直面した現実を認識することが怖かったのだ。もしもこれが一年前の自分なら、できたのかもしれない。すぐ先のことだけを考えて、目の前の幸せを夢見たかもしれない。
 いつだったか、冬真に「幸せか」と問われたことがあった。幸せかなんて、変な質問だ。そんなの刻一刻と変わっていく、人の一時的な感情の総合にすぎない。
 優也は静かな小道を睨みつけて、息を吐いた。
「ぜんぜん……」
 全然、幸せなんかじゃない。
 ブロロ……と、耳に入り込んできた聞きなれたエンジン音に、優也ははっとして顔を上げた。駅方面からやってくる、いつもとは逆方向のバスだ。
 そうか、こんな時間にやってくるのかとぼんやり眺めていると、バスは緩やかに速度を落として、車道を挟んだ向こう側の看板の前で停止した。
「優也!」
 きゅ、と心臓をいきなり掴まれたような、そんな衝撃だった。あるいは、本当に心臓が驚いて飛び跳ねたのかもしれない。
「とう――」
「乗れよ、優也!」
 冬真はバスの窓を全開にして、優也に向けて叫んでいた。色んな理屈とか、ついさっきまで考えていた難しいことは一つ残らず、思考の外へ放り出されていた。優也は車の通らない道路をすぐに横断して、ドアを開けたままのバスのステップに足を掛けた。
「……冬真」
 少ししか走っていないはずなのに、心臓がばくばくと鳴っている。二人掛けのシートの奥に座った冬真は、安堵のような苦笑のような複雑な表情を浮かべて、自分の隣をぽんと叩いた。座れということだろう。
「……」
「……」
 緩やかに走り出すバスの振動をシート越しに感じながら、しばらくはお互いに無言だった。口火を切ったのは、冬真のほうだ。
「……悪い」
「…………なにが」
 正確には、「どれが」だ。冬真は窓越しに景色を眺めながら、しばし考え込むように身じろぎをした。
「とりあえず、今」
「……バス代、払ってくれるんだろ?」
 苦笑して問いかけると、冬真もふと表情を和らげて困ったように笑った。
「払うよ。金、ねえだろ」
「金どころか、ケータイもない」
 首をすくめる。本当に何も持たずに出てきたのだ。家の鍵を閉めていないことに気づいたが、今更仕方が無いだろう。
「……あのバス停からこっち、来た事あるか?」
 冬真は窓に視線を戻すと、呟くようにそう言った。優也は料金表を眺めて、首を振る。
「終点はバスターミナルだろ」
「らしい」
「らしい、って」
「俺も今初めて、乗ってるから」
 思わず冬真の横顔を見る。なにか、いつもと様子が違う。直感でそう思ったのだが、どこがどう違うのかを口で説明することは出来ない。ただ、その原因を突っ込んで聞くのはやめた。冬真がこの時間にバスに乗って来たという事は、病院に泊まっていたという可能性が高いからだ。
 バスはいくつものバス停を通り過ぎ、その間、冬真はじっと黙ったままだった。僅かに触れる肩先が、いつの間にか熱を持っていた。




 終点のバスセンター前に着くころには、車内には優也と冬真しか残っていなかった。下車すると、礒の香りが冷たい風に乗って漂ってくる。海道沿いの狭い道路からは、微かだが薄青色の日本海が覗いている。
「こんなに近くなんだな、海」
「久しぶりに見た」
「俺も」
 二人、ガードレールにもたれ掛かるようにして目を凝らす。昔はよくこの近くの海水浴場に家族で遊びに来ていた。もっと近くまで行きたいと思ったが、ここからでは意外と距離があるのだろう。針葉樹や家の屋根が邪魔をして、直進することは難しい。
「なんか、寂れてるな」
 ぼそりと呟くと、冬真は白い息を吐き出して何でもないように答えた。
「そりゃ、田舎だし。冬だし」
 北海道は、と問いかけようとして、ぐっと言葉を飲み込んだ。それを言ったら、なぜ冬真が今ここにいるのかを聞かなければならない。
「俺が住んでたとこは、」
 しかし、冬真は自らそう切り出した。
「周り一帯平野だから、海なんてすげえ遠くてさ」
「……」
「こっちは海が近いって聞いて、いつか来ようって思ってたんだけど」
 冬真はふと笑うと、優也に向き直って続けた。
「最後に見れて、よかったよ」
「……それだけじゃ、ないだろ」
 穏やかにも見える冬真の様子に違和感を拭いきれず、優也は今度こそはっきりと告げた。それだけじゃない。自分をここに連れてきた理由はきっと他にある。これも、何の根拠も無い直感だ。
「…………すごいな、優也は」
 冬真は本当に驚いたように目を丸くして、苦笑した。海の方に向き直って、すっと真剣な目つきに変わる。
「姉さんが、倒れたんだ」
「え……」
 今度は、優也が驚く番だった。色々な質問が一気に押し寄せてきて、喉につっかえる。
「あ、いや、たまにあることだから、大丈夫なんだけど」
 冬真がすかさずフォローする。
「姉さん体弱いって言ったけど、喘息持ちなんだ。気管支喘息ってやつ」
「喘息?」
「疲れたりすると、特に出やすくてさ」
 冬真は落ちつかなそうに手を擦り合わせた。指先は赤みを帯びていて、冷え切っているようだ。
「でも、冬真は……」
「婆ちゃんも待ってるし、飛行機のチケットも取ってるから、お前は予定通り行けって言われたよ」
 冬の海を睨みつける冬真の横顔をそっと見つめる。まるで、自分に言い聞かせるような声音だ。
「行きたくない、んだ」
「ガキじゃないんだからって、思うだろ」
 冬真は言葉を搾り出すように続ける。それがあまりに辛そうで、優也は強く口を引き結んだ。
「……分かってるよ俺も。でも、なんでか。……姉さんが倒れて、急に怖くなった」
 震える声で一気に告げると、冬真は口を噤んだ。とても大切なことを告げられた気がして、胸が一層苦しくなる。ほとんど衝動的に、優也は冬真の冷たい手を掴んで引き寄せていた。冬真が戸惑ったように小さく名前を呼んだのがわかったが、かまわなかった。今はなぜか、そうしなければならない気がしたのだ。
「俺には何もできないけど」
 少し大きい冬真の体躯を両腕で受け止めながら、いつかの彼の言葉を借りる。
「泣けよ、冬真。……大丈夫だから」
「……」
 冬真は何も言わずに、静かに肩を震わせた。本当に泣いていたかどうかは分からない。暖かさと震えが確かに伝わってきて、どうしてか優也のほうが泣きたくなった。
 しんしんと降り続ける雪は無音を保ったままで、ただ静かな時間だけが流れていた。
「……優也、ありがとう」
 少しして、落ち着いた冬真の声が鼓膜に響いた。その声色に安堵しつつ少しだけ体を離すと、すぐ近くに冬真の顔がある。いつもの、優しい笑顔だ。
「……目、瞑れよ」
 言われるままに、目を閉じる。静かに、鼓動が鳴っている。冷たい唇同士、触れた感覚以外は何も分からなかった。それでも、ああ幸せだ、と素直に感じる。
「優也」
「ん」
「好きだ」
「……ん」
 雪は降り続けているのに、いつの間にか太陽が顔を出していた。光が、柔らかく降り注いでいる。




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