アンコール曲を終え、『SNOW』が消えたステージの周りは、しばらく興奮冷めやらぬ様子だった。見ると、脇の方に人が集まってごった返している。どうやら、小さな長机でCDを販売しているようだった。 「俺、買ってこようかな」 そう言って人ごみに加わった目黒を見送りながら、優也はただぼうっとその場に立っていた。ふと見ると、ステージの後ろからちらりと誰かの顔が覗く。間違いない、仁だ。 「あに……」 し、と仁が人差し指を立てたので、優也はすぐに口を噤んだ。すると、こっそりと手招きされる。しかし踏み出そうとすると、今度は口パクで何か言って、すっと暗幕の向こうに隠れてしまった。 優也はその動きを頭の中で再現した。ゆ、き、さ、ん、も。 「……」 意を決して後ろを向く。予想通り、由紀は冬真と何か話しながらそこにいる。見ていることに気づいたのか、由紀が「優也君」と呼びかける。 「あの、由紀さん……兄貴が、ちょっと来て欲しいって」 「仁さんが?」 冬真のほうからは視線を外したまま、はい、と頷くと、由紀は困ったように首をかしげた。 「でも困ったわね」 「時間ないならそう言っておきますけど」 優也が遠慮がちに提案すると、彼女は笑いながら手を振って否定する。 「違うのよ。その……」 「CDが欲しいんだ」 恥ずかしそうに言葉を濁した由紀の代わりに、続きを発したのは冬真だった。 「CD……」 優也は反芻して、黒い人だかりに目を向ける。 「そうなの。……あの、最後の曲、凄く好きだったし」 ああ、と優也は思った。どこかくすぐったい。仁も早くこの言葉を聞きたいはずだ。 「CDくらい、後で兄貴にもらえると思いますよ」 苦笑したが、恐らく嘘にはならないだろう。 ステージ横の暗幕まで由紀の車椅子を押していくと、仁が察したのか、すっと幕が寄せられた。狭い楽屋の中には、メンバーの面々と蓮が楽しく談笑している。ストーブが設置されており、外と比べると随分暖かい。熱気が篭っているせいもあるのだろうか。 「由紀さん、来てくれてありがとうございます」 「こちらこそ。素敵なライブだった」 由紀はマスクを外すと、改めてにっこり微笑んだ。ぎこちなくも言葉を交わす二人は、どこか楽しそうだ。なんとなく、隣に立つ冬真を盗み見る。すると、ちょうどいいタイミングで冬真もこちらを向いたので、再び目が合ってしまった。すぐ逸らしたが、和やかな空気が漂う中、この空間だけがどうも気まずい。いや、そう思っているのは優也だけなのかもしれないが、心臓がばくばくとうるさいくらいに高鳴っている。 「あ……兄貴、俺、ちょっと飲み物買ってくる」 舌をかみそうになりながら早口で言って、優也は返事を聞かないままに楽屋を飛び出した。駅の構内に設置されたトイレに駆け込んで、乱れた呼吸を整える。幸い人の姿は無かった。申し訳程度に取り付けられた小さな手洗い場の鏡を覗くと、寒さのためか暑さのためか、頬は赤く染まっている。 ひとつ、息をついた。自分が分からなくて混乱する。今度は大きく深呼吸をするが、胸のざわつきは収まらない。どこかおかしいのだ。冬真と話すことができない。話すどころか、目を見ることさえままならないなんて、今までに無かった。 好きになるって、こんな気持ちなのかよ。 静かに、誰に向けるでもなく、心で吐き捨てる。優也の知っているコイとかアイとかいうものは、もっと甘酸っぱかったり、ささやかに心躍るような優しいものだったはずだ。仁も同じような気持ちなのだろうかと考えて、すぐに否定する。あんなに嬉しそうな顔、優也も見たことが無い。 苦しい。 「……優也」 入り口からさす明かりを遮って、そこに立った人物に優也は息を呑んだ。冬真だった。 「どうしたんだよ」 目を合わせないようにじり、と後ずさると、冬真も一歩前に踏み出してくる。 「お前が、なかなか帰ってこないから」 冬真はいつもの調子だ。妙な焦りを感じて言うべき言葉を探すが、見つからない。 「悪いな」 笑いが引き攣らないことを祈りながらそう言って、何かを言われる前に冬真の横を通り過ぎようとする。 「待てよ」 固い声とともに、左腕を掴まれた。歩みが止まる。冬真のしっかりした手の感覚が、制服越しからでも伝わってくる。 ――ふと、懐かしい思いがこみ上げてきた。しかしその感情に浸る暇も無く、優也はこの対峙を受け入れなければならない。 「なに」 依然目を合わさないまま応える。意識が、自然と掴まれている左腕に集中する。 「最近俺のこと、避けてるだろ」 「……なにそれ」 一瞬言葉が喉に詰まったが、乾いた笑いとともに吐き出す。冬真の強い口調は問いかけではなく断定を示していた。冬真はいらついたように続ける。 「ならなんで、バス停に来ないんだよ」 思い出した。先日の電話口でも、同じような尋問を受けたのだ。責めるような調子は、以前にまして強く感じられる。 「優也!」 痺れを切らしたのか、冬真は語気を荒げた。瞬間、かっと頭に血が上って冬真を睨みつける。 「そんなの、……俺の勝手だろ!」 思いのほか大声が出てしまい、優也は後悔とともに口を閉じた。冬真は何も言わない。沈黙が流れ、ついに耐えられなくなって腕を振りほどいた。 「……ごめん」 今度こそ隣をすり抜け、細い廊下に出る。一刻も早くどこかに逃げたかった。冬真はまだ何か言いたげだったが、それを聞くのが怖かったからかもしれない。なにか、取り返しのつかないことを言われるような気がして。 たとえば――、 「優也!」 ぐい、と腕を後ろに引かれ、視界が一気に反転する。驚きで目を見開く暇も無く、一瞬だけ冬真の顔が映る。焦ったような、やけに切羽詰った顔だ。こんな顔もできるのか。いつも鷹揚に構えているから、何にも動じないと思ったのに。 視界は、ほとんど暗かった。唇に、なにか当たっている。どちらかというとひんやりとした、柔らかいもの。思考が、追いついていかない。 俺はいま、冬真にキスされている。 「……ッ」 何秒たったのだろうか。気づいたときには、もう唇には何の感触も無かった。左腕は、まだ掴まれたままだ。冬真の顔を見たが、先ほどまであったはずの怒りはどこにも無く、ひどく困惑した表情になっている。 「とう、ま」 「俺……」 冬真は、視線を彷徨わせて、結局何も言わずに腕を放す。そしてそのまま、優也をすり抜けて走っていった。駅構内から外へと開け放された出入り口を潜り、すぐにその姿は見えなくなる。 「…………」 夢だろうか。唇に指でそっと触れる。違う、もっと柔らかいものだった。体が震える。寒いのか熱いのか、もう分からなかった。通路にしゃがみこんでじっとしていると、突然影が落ちる。 「優也……?」 聞き覚えのある声に見上げると、スクールバッグをぶら下げた友人の姿だ。 「……めぐ」 「具合、悪ぃの?」 優也の様子を察してか、心配した声が落ちてくる。優也は苦笑して立ち上がった。 「なんともない。ちょっと、靴紐、結んでただけ」 「そっか」 目黒は息を吐くと、すぐに表情を明るくした。 「そういえば、さっきそこで冬真とすれ違ったんだけど」 どきり。心臓が思い出したように鳴りはじめる。 「すげえ寒そうだったぜ。顔真っ赤で……優也?」 「なんでもない」 胸が苦しい。顔が熱い。不意に目黒の台詞を思い出す。恋の予感? ……そんな、可愛らしいものじゃない。 「うわ、優也もじゃん。ホント、大丈夫かよ?」 「……へーき」 優也は顔のほてりを覚ますために、目黒を置いて外に出た。ゆっくりと振り続ける雪が、頬に触れては溶けていく。その感覚が心地よくて、優也は白い空を仰いだまま息を吐いた。 そのあと、優也はトイレから出た目黒を連れてバスに乗った。冬真の姿は見ていない。遠ざかっていく景色の中に、幕で覆われた舞台裏が見えて、すぐに小さくなった。 |