深呼吸 8


 久しぶりに雨が降っていた。
 飯田聡史は人気の無い食堂に足を踏み入れると、既に白いテーブル席に着いていた男に目を留めた。
「はよー」
「あ、おはよーございます」
 挨拶によってようやく飯田の存在に気がついたのか、高橋は熱心に見ていた携帯から顔を上げる。
「ここ、いいか」
「あ、どうぞ」
 向かいの椅子に腰を下ろす。朝食にはまだ早い時間だ。
「さくらさんは?」
 さくらさんこと高坂さくらは、この金葉荘を一人で切り盛りする元気なおばちゃんだ。なんといっても彼女の作る料理は絶品で、寮生以外に食事を買って食べる人も少なくない。
「さっきテーブル拭きに来ましたよ。もうすぐ出来るって言ってた」
 カーテンで仕切られた厨房の奥から、雨の音で聞こえづらいが、微かに食器の重なるガチャガチャという音が聞こえる。飯田は高橋に向かい直して、これ見よがしにはあとため息をついた。
「お前、テーブル拭きは気づいたら代わってやるんだよ」
「それは飯田ルールだろ」
 後ろから聞こえてきたツッコミに、飯田は振り向いた。見ると、西山が眠そうな顔をしながら歩いてくる。
「って、西山、ジャージかよ」
「一回部屋戻るからいーの。俺今日二限からだし」
 西山は寝巻きにしてはしっかりとした素材のスポーツブランド物を着ている。自慢の茶髪は、どこかぼさぼさだ。彼はだるそうに飯田の隣に腰掛けると、ちらりと高橋に目をやった。
「おはよう一年生。早起きだねえ」
「っス」
 高橋も会釈する。しかし、西山はテーブルに突っ伏して、それきり黙りこんでしまった。死んだように、息一つ聞こえない。
「……西山?」
 飯田が恐る恐ると呼びかけると、西山は顔を上げないまま手をひらひらと振って、
「飲みすぎたー」
 と言った。飯田は思わず呆れて、その肩をぽんぽんと叩いた。
「自業自得」
 西山はいつも調子に乗って飲みすぎるのがいけないのだ。恐らく二年生の中では最も弱いだろう。必ず一番先に酔って周りにさんざん絡んだ挙句、勝手に潰れてベッドを占領していたりするのだ。野崎も酔いが顔に出ない男だから厄介なのだが、とにかく西山の酒癖は飯田が認めるところ、かなり悪い。
「誰と飲んでたんだ? 野崎か?」
 野崎の部屋は西山の隣だ。西山は先輩との交流も薄いから、考えられるのはその辺だろう。
「野崎と、っていうか……俺が?」
「はあ? よくわかんないけど」
 二日酔いで気持ち悪いのか、西山はやはり顔を上げない。それ以上言葉を発したくないという様子だった。
 その時カーテンの開く音がして、厨房の方を見ると、エプロンをつけたさくらが茶碗にご飯をよそっているところだった。立ち上がろうとした飯田はふと死んだようにテーブルに懐いている西山に目を向け、
「……デコに痕つくぞ」
 ぼそりと言ってやると、これは効果絶大だったようで、西山は眉間に皺を寄せたままの顔をむくりと起こした。
「俺の分もお願い飯田くん」
「あのなあ」
 飯田は半ば呆れながらお盆に茶碗や皿を乗せていく。後に高橋が続いた。と、そこで箸を取り忘れたことに気がつく。
「悪い高橋、ちょっと箸取ってくれよ」
「あ、ハイ」
 素直に一膳の箸を手渡されたところで、飯田は味噌汁やご飯の匂いではないものを嗅ぎ取って、胡乱気に高橋を見やった。
「お前、酒臭い」
「…………鼻いいですね、飯田さん」
 どうやら図星だったようで、高橋はばつの悪そうな顔で飯田から目をそらした。
「別にいいけどさあ。……おい西山、お前のはねぇぞ。自分で取ってこい」
 飯田が味噌汁をお盆に乗せたところで、西山に向けてそう告げた。ええ、と不満の声が聞こえる。
「飯田のどケチ」
 それでも諦めたのか、飯田が座るのと入れ替わりに西山がだるそうに体を起こした。欠伸をしながらカウンターへ向かう。
「あ、野崎さん」
 高橋の、呟きに似た声に入り口を振り向くと、野崎が扉も閉めずにその場に佇んでいた。
「はよ。……? 入れよ」
 いつまでも入り口に突っ立っているのはおかしい。飯田が高橋の隣を指差すと、野崎はようやく、ああ、うん、とか言いながら歩いてきた。まだ寝ぼけているのだろうか。
「なんだよ、まさかお前も二日酔いか?」
 冗談のつもりだったが、野崎は否定も肯定もせず、曖昧にうーんと唸った。鞄を高橋の隣に置くと、朝飯を貰いに行く。
「……マジかよ。皆、春だからって浮かれてんじゃねーのか」
「飯田さんは飲まないんすか?」
 既におかずの魚を半分まで食べ終えていた高橋がそう問いかける。
「俺? 飲むけど、大概途中で介抱役に回るからな」
 苦笑すると、高橋も、なるほどと言って笑った。
「飯田さん、家庭的っぽいですからね」
「なんだよそれ」
 大分打ち解けてきたせいか、高橋の方も気兼ねがなくなってきたようだ。一旦仲良くなると、意外ととっつきやすい男なのかもしれない。
「何、何か楽しそう」
 西山が戻ってきた。さすがに朝食を前にしてもう一度眠る気はないらしい。さっさとおかずを摘み始めて、そういえば、と続ける。
「一年生君、飯田の後輩なんだっけ」
 高橋を指差して告げるので、飯田はその行儀の悪い手を押さえ込んでから、ガッコ違うけどな、と答えた。
「あと、高橋だから」
「ふーん。あ、金曜会入んの?」
 何気ない質問だったが、それは飯田も気になるところだ。高橋を見ると、その後ろを回ってちょうど野崎が戻ってきたところだった。
「入りますよ」
 高橋はよどみもなく、そう答える。食事を乗せたお盆が、ガチャリとなった。そのまま些か乱暴に野崎がパイプ椅子に腰を下ろす。
「え、じゃあバスケやめんの?」
 飯田の問いかけに、高橋は首を降って否定した。
「やめません。サークル入るんすよ」
「えー、掛け持ち! すげえ、体力あんのな一年生」
 西山が感嘆の声を上げる。まったくこの男は、名前を覚える気はあるのだろうか。
「高橋だって」
 呆れながら訂正すると、後ろの入り口が開いて雨の音が大きくなった。振り向くと、金曜会の阿部学と、同じく三年生の藤枝悠斗が並んで歩いてきた。この二人は特に仲がいいと評判で、藤枝が白く小奇麗な顔をしているせいか、一部の噂によると二人は付き合っているとか、そんなことまで囁かれている。その真偽はともかくとして、飯田の目から見ても特別に仲がいいというのはよく分かった。
「おはよう」
「はよっす」
 正面だった野崎を先頭に、ばらばらと挨拶が交わされる。その後ろからも三年生が姿を現して、ようやくいつもの活気が戻ってきたところで、高橋が席を立った。
「じゃ、お先します」
「おう」
 席を離れる瞬間、飯田に笑いかけた高橋の目線が野崎に向いたことを、飯田は見逃さなかった。
 ――何か、何かある。
 飲みについての明言を避ける西山と、やはり曖昧な野崎。そして、その野崎を気にする高橋。しかも高橋も夕べ、酒を飲んでいたらしい。
「野崎」
「ん?」
 味噌汁を啜りながら、野崎が目線だけをこちらに向ける。その頭に寝癖を発見して、真剣な表情を崩して思わず笑ってしまう。
「――ここ、寝癖すげえ」
「へ、嘘」
「はは、ホントだ、だっせー」
 西山まで笑うので、野崎は寝癖直しに夢中である。
「お前もボサボサのくせして、何言ってんだ」
 とりあえず西山を横目で見てそう突っ込みながら、飯田は手を合わせて食事を終了した。
「あ、飯田待ってて」
「喉につまらせんなよ」
 寝癖を諦めて食事に向かった野崎を見ながら、飯田は胸の奥がまだもやもやするのを振り切るように、深く息を吸った。


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