酒も大分回って、野崎がTシャツの上に羽織っていたパーカーの袖を肘までまくったときだった。当たり障りの無い話題しか振ってこなかった高橋が、突然切り出した。 「じゃあ、俺が野崎さんに聞きたかったことなんすけど……」 じゃあ、という接続語の使い方が間違っている、と野崎は思った。それまでの会話とのつながりが、まるで無い。なにが、じゃあ、なんだと頭の端で考えながら、野崎は頷いてその先を促した。 「先輩って、ホモなんですか」 「は?」 高橋の顔をまじまじと見つめた。何を言ってるのか、理解できない。 「……何言ってんの、お前。酔ってる?」 そして、胡乱気な目で高橋を見やると、彼はさも心外だという風に肩を竦めてみせ、さらにため息までついた。 「先輩こそ、酔ってますか?」 「まあ、それなりに」 野崎は酔いが顔に全くでない性質なので、飲まされすぎる傾向にあった。実際は酔っているのだが、そう見られないのだ。 「まあいいですけど。で、どうなんすか。ホモなの、ちがうの」 高橋ももしかしたらそうなのかもしれないと、野崎は思った。彼の口調がいつもより砕けていたからだ。 「違う」 きっぱりと否定すると、高橋はふうんと頷いて、でも、と続けた。 「でも、俺、見ちゃったんすよね」 何を、と聞こうとしたが、それは憚られた。高橋の目が、先ほどとは打って変わって冷たく光っていたからだ。嫌悪を直接浴びせられているような気分になる。そのせいか、酒でぼんやりしていた頭が妙にクリアになった。 「何を」 高橋はもったいぶったように切った言葉の続きを言う前に、缶に口をつけた。そのゆっくりとした動作が野崎の焦りを誘う。 「……野崎さんと飯田さんが、抱き合ってるとこ」 「っ……あれは!」 恐らく高橋が言っているのは、歓迎会の日の夜のことだろう。うかつだった。見られていたのだ。 「否定しないんですね」 「…………」 否定できるところと、できないところがある。説明できることと、できないこともある。野崎は堂々巡りの思考と高橋の態度にいらついて、飲みかけのチューハイを乱暴に置いた。 「……色々、あんだよ」 ようやく苦し紛れに出てきたのが、そんな台詞だった。高橋は無論、納得していないだろう。どこをどう説明してうまく切り抜ければいいか、いい案がまったく浮かんでこなかった。というより、酒のおかげで鈍った思考がうまく動いてくれないせいだ。もしかしてこれが高橋の狙いではないのかと考えて、思わず舌打ちした。 「色々、ねえ……」 やはり、納得していないようだ。高橋はしばし考えるように顎に指を当てる。その仕草が妙に艶めいていて、野崎は背筋が震えた。 「ね、先輩」 そして座ったまま、ぐいと体ごと近づいてくる。野崎も体を僅かにのけぞらせた。 「男同士って、ドコ遣うか知ってますか」 にやりと笑って、じりじりとにじり寄ってくる。まるで獲物を見つけたヒョウだ。野崎は後退したが、それもベッドにぶつかって止まってしまう。 「知らねーよ、くっつくな」 蹴り出そうとした足を見事に掴まれ、パニックに陥る。高橋はもう片方の腕で野崎の手を取ると、強引に床に引き倒した。ドン、という音と共に背中に衝撃が走って息が詰まる。 「やっぱり、酔ってましたね」 近づいてくるのは高橋のはずだったが、逆光のせいでその顔は暗く塗りつぶされている。記憶の中のあの男がふとその影にダブって見えた。 「はっ……放せよ! 放せ!」 えもいわれぬ強い恐怖を感じて、野崎は全力で暴れていた。逃げなければ、ここから逃げなければ。それだけが頭の中を占領している。 「っ……!」 思わぬ抵抗に油断したのか、高橋の頬に野崎の爪が掠めた。血がにじみ出す。高橋はそれを鬱陶しそうに確認すると、さっと野崎から離れて立ち上がった。 「ハイ、そこまで」 両手を挙げて降参のポーズだ。野崎は荒い息を吐き出しながら、高橋を見た。これは、後輩だ。あの男ではない――。そう言い聞かせて、心を落ち着かせる。 「そんな本気で拒否らなくても。――冗談でも、傷つきますよ、野崎さん」 「……」 たとえ冗談だとしても、謝る余裕はもはやなかった。興奮と安心とがない交ぜになって、野崎は息をつくのに精一杯だ。 「今日はもう帰りますけど。――何かあるのはわかったし」 そう言って、にこりと笑う。 「お前は、ホモなのかよ」 背を向けた高橋に向けてそう放つと、躊躇する暇もなく、こちらを振り返って口を動かした。 「冗談じゃない。……キモチ悪いっしょ」 その声は驚くほど冷徹で、はっきりと軽蔑の色を含んでいた。野崎はばくばく鳴る心臓の辺りに手を置いて、ぎゅっと握った。 高橋は、今度は振り返ることなく、部屋を出て行った。残されたテーブルの上の酒の缶が、唐突に意味のないものに思えてくる。テレビはいつの間にか消えていた。消したのか、それともリモコンを踏んだのかは分からない。 「何も、ねえよ……。お前が思ってるようなことは、何にも」 野崎は床に座り込んだまま、顔をベッドに埋めた。驚くほど、静かだった。 *** 隣の部屋から悲鳴に近い声が聞こえてきたのは、ちょうど西山が彼女の理香におやすみのメールをうっていたときだった。 「野崎……?」 ドタドタと、物音も聞こえる。飯田と喧嘩でもしているのだろうか。妙に気になって、少し迷った末、作りかけのメールをそのままに携帯電話を閉じた。 「俺もたいがい、心配性だよなぁ」 飯田に過保護だなんだと言っているが、やはり自分も同じだ。野崎のことになると、どうも放っておけない。 西山がしんと静まり返った廊下へと踏み出すと、反対側の端の部屋のドアが、ちょうど閉まったところだった。野崎の斜め向かい――確か、一年生だった気がする。 コンコン。軽くノックをしたが、中から反応はなかった。仕方なくドアを開けると、ドアチェーンはかかっていない。部屋の中は明るく、しかし物音一つしなかった。 「野崎?」 勝手に靴を脱いで上がりこむ。少し進むと、ミニテーブルに溢れるほどの酒が置かれていて、西山は思わず眉をひそめた。ベッドのほうを覗き込むと、床に座り込んでいた野崎と目が合う。 「西山、か……」 野崎は安心したように息をついた。その様子を一瞬見ただけで、何かあったのだと分かってしまう。西山はすぐに明るい顔を作ると、野崎の前にしゃがみこんだ。 「すげー物音聞こえてさ。どうした?」 「あ、ちょっと、酒飲んで、暴れた……?」 その返答はあまりにぎこちなく、怪しい。視線も泳いでいる。野崎は酒を飲むと特に、思っていることが表情に表れやすいのだ。野崎自身がそれを知っているのか分からないが――西山はそれに気づかないふりをして、テーブルの上の酒を一本持ち上げた。中身は空だ。 「誰と飲んでた?」 「えーっと……」 その質問に、野崎は言葉を濁した。聞かれたくないのかもしれない。 「一年?」 さっき見た光景を思い出す。あの部屋の持ち主と野崎が揉めたとなれば、納得がいく。野崎の目をじっと見つめると、ようやく観念したように彼は口を開いた。 「ん……と、高橋」 高橋。すぐに顔を思い出す。 「あー、あの飯田のヒヨコな」 「ヒヨコって……」 「なんか、むかつくな」 口をついて、そんなことが出てきた。嘘はなかった。本当にそう思ったのだ。 「え? ……って、おい、西山」 西山は部屋の隅にある冷蔵庫をためらいなく開ける。案の定、中にはまだ未開封の酒が残っていた。 「な、飲もうぜ」 取り出すと、野崎はあからさまに嫌そうな顔をして手を振った。 「俺飲み過ぎたから、ムリ」 「いいよ、お前は寝てても」 勝手にプルタブをあけて飲み始めると、野崎は呆れたようにため息をついた。 「寝れるかよ……」 そして、テーブルを挟んで向かい側に座り込む。野崎は本当にそれから一口も飲まなかったが、会話をしているうちにいつもの調子を取り戻していた。内心ほっとしたせいか、ますます酒が進む。 作りかけのメールのことは、結局一度も思い出さなかった。 |