寮への帰り道を歩いている野崎の後ろから、全く同じペースの足音が聞こえている。さっきから、ずっとだ。何度も振り返ろうと思ったが、そんなことをする自分のほうが怪しいかもしれないと思い直し、そのまま玄関のところまできていた。ここまで来るということは、寮生なのだろう。――そう結論付け、野崎は意を決して後ろを振り返った。 「…………高橋?」 そこにいたのは、今最も会いたくないと思っていた高橋だった。先日の金曜会で思い切り睨まれてから、どうも苦手意識が付きまとっているようだ。 「先輩も今帰りですか」 しかし、この日の高橋はやけに笑顔だった。まるで、睨まれたことが嘘のように。 やはり、気のせいだったのかもしれない。野崎も笑顔を浮かべて、高橋にしっかりと向き合った。 「そんなとこかな」 「あの、野崎さん。……今夜、一緒に飲みません?」 そして、高橋が爽やかな笑顔のままそんなことを言い出したものだから、もう訳が分からなくなってしまう。 「いいけど……そうだ、飯田も呼ぶか」 「いや、できれば二人で。……俺、野崎さんにちょっと聞きたいことがあるんです」 妙案だと思った提案もすぐに却下されてしまう。かといって、ここで無下に断るわけにもいかない。何かがおかしい。正体不明の違和感を胸に感じたまま、野崎は途方にくれていた。 「酒は俺が持っていきますから。それじゃ、また夜に」 そして、言うことだけ言うと、すぐに歩き出してしまう。止める隙もなかった。 学生の部屋は二階と三階に分かれている。高橋も野崎も二階の部屋なので、行くところは同じなのだが……やはりさきほどの高橋の態度に煮え切らなさを覚えてか、後を追う足が重い。嫌な予感は収まらないまま、むしろ肥大して、野崎にのしかかっているようだった。 *** 高橋は九時ちょうどに、野崎の部屋を訪ねてきた。 「なに、そんなに驚いた顔してんすか」 「いや……。入れよ」 高橋は、特に躊躇のないまま部屋に上がりこんできた。手には、缶がゴロゴロ入ったコンビニの袋をぶら下げている。中身が酒だというのは、確認せずともすぐに分かった。 「よく買えたな……俺でもたまに確認されるのに」 恨めしそうな目を向けると、高橋は僅かに首をすくめて、その袋をミニテーブルにゴトリと置いた。 「先輩も未成年じゃないですか」 床に放ったクッションの上に座るよう指示すると、高橋はやはり遠慮することなくそこに腰を下ろす。 「残念でした、俺はもう二十歳」 野崎の誕生日はちょうど入学式の日だった。その日は飯田と西山と三人で、ささやかなお祝い(といっても、酒を飲みながらゲームをやったりしただけだ)をしたのだった。高橋は不服そうにふうんと相槌を打つと、早速袋から缶チューハイを二本取り出す。 「それにしても、何もない部屋ですね」 「そうか? 必要なものは、あるだろ」 野崎がテレビをつけると、バラエティ番組が妙な雰囲気の部屋を華やかに賑わせた。チューハイの残りを袋ごと冷蔵庫に突っ込むと、庫内をほとんど占領されてしまった。いくらなんでも買いすぎだ。 「漫画とかは?」 「あー、実家に置いてきちゃったんだよな」 ようやく野崎も高橋の向かいのクッションに落ち着くと、高橋に改めて向き直った。 「悪いな、何もなくて」 「いや、いきなり押しかけた俺のほうが悪いっすから」 高橋の笑顔に、まだ違和感が拭いきれない野崎だったが、ここまで愛想よく振舞われると、やはり睨まれたというのは気のせいだったのかもしれないと思えてくる。いや、そうであって欲しいという希望かもしれない。 二人で缶のプルタブを開けると、そのまま軽く乾杯をして、一気に喉に流し込んだ。冷たい液体がビリビリいいながら体内に入っていく。 「……そういや、お前俺に聞きたいことがあるって言ってなかったっけ」 頃合を見てそう切り出すと、高橋はしばし考え込むようなしぐさをして、ごまかすように満面の笑みを浮かべた。 「飲んでからで。……ちょっと、シラフじゃ話しにくいことなんです」 「ふうん……いいけど」 それにしても、大学に入ったばかりだというのに、まるで飲むことに慣れているような言い方だ。 「強いの、酒」 「普通だと思いますけど……何で?」 「なんとなく……」 その返答からすると、やはり慣れているようだ。野崎もそれほど弱い方ではないが、これは気をつけなければならないだろうとひっそり思う。明日は一コマ目から講義が入ってるので、飲みすぎて寝坊でもしたら大変だ。 「そういえば、高橋は大学でバスケやらないのか?」 野崎はちらちらとテレビに目を向けながら、高橋に問いかける。高校の頃バスケットをやっていたようだし、金曜会でバスケットをやることは稀だと記憶している。そもそも試合になるような人数が集まらないからだ。 「やりますよ」 その言い方はまるで、誰かに向かって挑発しているような、そんな挑戦的な色を含ませていた。 「じゃあ、掛け持ち?」 「サークルですけど、ね」 高橋は一瞬のうちに興味がなさそうな顔に戻ると、缶の残りをあおった。 「そっか、さすがに部はな。……飯田も、サークル入れば良かったのに」 テレビを見ながらぼそりと一人ごちると、視界の端でぴくりと高橋が反応した。目を向けると、その顔が先ほどとは違い神妙な様子になっている。 「飯田さん、本当にうまかったんっすよ」 「そーなんだ」 「本当に!」 声を荒げて、高橋は立ち上がった。突然の変貌に野崎が目を丸くしていると、高橋はそのまま歩き出し、冷蔵庫から新しくチューハイを二本取り出してきた。 「どーぞ」 「あ、どうも……」 ひやりとした感覚のおかげで我に返った野崎は、渡された缶を見つめ、再びもとの位置についた高橋を盗み見る。彼は先ほどの激昂は何処へ行ったのやら、平然と酒を飲み始めていた。 「……」 何となく、無言になる。高橋の様子が引っかかって、テレビを見てはいるものの微妙な緊張感が続いていた。「本当に」の後に、何か言いたい言葉があったのではないだろうか。 「野崎さん」 「なに?」 名前を呼ばれて、野崎はゆっくりと高橋の方を振り向いた。 「飯田さんに初めて会ったのいつっすか」 見ると、高橋の顔は綻んでいる。よく分からないやつだなと思いつつも、野崎は少し安心して、記憶を手繰り寄せた。もしかしたら、飯田の話ならば間がもつかもしれないと思ったのだ。 「あー、去年、入学式の前の日かな」 「それって、ここで?」 「そ。ちょうど入寮日が同じでさ。あいつは三階で俺は二階だったけど、それで話したのが最初かな」 思い起こしてみると、随分懐かしい。あの頃はお互いにまだ遠慮があって、ぎこちなかった。あのあと西山が隣の部屋で思いっきり彼女と修羅場を繰り広げていたところを野崎が偶然見てしまってから、よく三人でつるむようになったのだ。 「懐かしいな」 「ふうん……」 高橋は自分から聞いてきたくせに、さして興味なさ気に相槌をうった。 「俺は三年前っすよ」 そして、高橋は妙に自信満々にそう告げる。今度は、野崎が「ふうん」と返す番だった。 「それって、バスケで?」 「そういうこと。あれ、先輩もうやめるんですか」 野崎が二本飲んだところでやめようとしているのを、この後輩はすぐに気がついて指摘してきた。高橋は至極不満そうな顔をしている。 「明日一コマからだからな」 「もうちょっとだけ、飲みましょうよ」 そうねだる高橋の顔は、はじめから全く変わっていない。やはり強いのかと思いながら、野崎は困ったようにため息をついた。正直、酒のせいで眠くなってきていたのだ。 「でもな……もう五百ミリ二本あけてるんだぜ?」 「お願いです、もうちょっとだけ、付き合ってください」 高橋はなおも食い下がり、とうとう頭まで下げ始めた。野崎は、只今絶賛冷蔵中――もとい、絶賛庫内占領中――の酒たちを思って、諦めたように立ち上がると、そこから新たな缶を取り出したのだった。 |