深呼吸 5


 
 金曜日の午後5時から、金曜会の活動は始まる。といっても、5限目の講義が入っている者は三十分ほど遅れてくるので、この時間に集まるものはごく僅かだ。この日も、寮の裏口のところへ集まったのは野崎と飯田、そして三年生の久世太一だけだった。しかもこの久世という男、つい昨日の新入生歓迎会を欠席したただ一人の寮生である。
 野崎は軽くストレッチをしながら久世を見た。いつものようにだるそうに頭をかきながら、ジャージの襟をつかんで―――そのまま、静止した。
 一秒、二秒、三秒……。すると、久世が急にこっちを向いて、
「何」
 と言った。見ていることに気づかれたらしい。
「あ……あの、なんでそこで止まってるんですか」
 思わず思ったことをそのまま口にすると、
「んー……脱ごうか着てようか迷ってた」
 正直どうでもいいことだった。
「……そうですか」
 久しぶりに久世と会話した気がするが、そういえば彼はこんな人だったと思い出す。野崎の横で飯田がぐい、と伸びをして、そのまま久世のほうを向いた。
「そういえば久世さん、昨日の歓迎会なんで来なかったんすか?」
 それは野崎も気になるところではある。それに―――どんな集まりにも来ないのに、なぜ金曜会にだけ顔を出すのかということも。
「あー……だって、別に興味ないし、眠かったし」
 久世らしい答えだ。野崎がそう思ったのとほぼ同時に、飯田が、
「久世さんらしいっすね」
 と言う。つい笑うと飯田が変な顔をしたので、手を振ってごまかした。
「で、」
「ん?」
「着るんですか、それ」
 野崎が久世のジャージを指差すと、久世は数秒思案して、
「じゃあ着る」
「じゃあって」
 ともかく、着ることにしたようだ。動けば暑くなるのだろうが、寒いくらい涼しい風が吹いている。今夜も冷えそうだ。
「悪い悪い、遅れた!」
 声の方向を振り向くと、久世と同じく三年生の阿部学がジャージも着ずに息を切らしていた。
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
 野崎が不思議そうに言うと、阿部は逆に驚いたような顔をして、
「あれ? だって、今日は新入生が来るって……」
 そう独り言のようにつぶやいた。
「俺らそんな話聞いてませんけど……」
「あー」
 飯田の言葉をさえぎって、久世がだるそうな声を上げた。
「亮平が言ってた。カモ」
「カモ。じゃねーよ、久世ぇ」
 阿部が呆れたように息をついた。
「でも、その鈴木さんが来てませんよね」
「そーなのか?」
 野崎の言葉に今度は困ったような顔になった阿部は、はっとしたように携帯電話を取り出した。
「あー、メール来てた。6時ごろに行くって……」
 そして何を思ったか乱暴にそれを閉じると、鞄に放って豪快に服を脱ぎ始めた。
「ったくよー……」
 阿部は運動系サークルを何個かかけもちしているらしく、体には筋肉がしっかりとついていてる。さわやかなスポーツマンという風体に、相変わらずうらやましいなあと思ってしまう。
「新入生……誰だと思う?」
 飯田はわくわくしているようだ。今年入寮した一年生は三人だったから、あのうちの誰かなのだろうが、まだ昨日の時点では未知数だ。
「お前の後輩は?」
「後輩? って、ああ……高橋な。バスケサークル入るだろ」
 昨日見た高橋の顔を思い出す。きつい目に機嫌の悪いような顔。その後の飯田に対するきらきらした瞳。
「うまかったのか、あいつ」
 バスケ、と付け足すと、飯田は間髪要れずに、ああ、とうなずいた。
「そうか」
 それ以上言うことも無い。野崎は屈伸をするふりをして、そっと飯田から目をそらした。
「ここが裏庭? すげー、こんな広いんすね!」
 その時、落ち着いた雰囲気を一気にぶち壊す声がそこに響いた。声の主を確認するため振り向こうとすると、その前に、どん、と、背中になにかがぶつかる。
「わっ、」
 いきなりのことに踏ん張りきれず、前のめりに倒れこんだ。地面に倒れた衝撃でがあんと頭が鳴る。気がついたときには、冷たい草の感覚が頬に当たっていた。
「野崎っ」
「す……すみません! 俺、前見てなくて……」
 飯田に支えられて起き上がると、そこには真っ青になった男がいた。昨日見た顔だが、名前が思い出せない。ちらりとジャージを見ると、『大森』の刺繍があった。おそらく高校のものなのだろう。背の高い体を縮こませて震える姿は、なんとも見るに耐えない。
「いいけど、気をつけろよ」
 立ち上がると、飯田が心配そうな顔でこちらを見ていることに気づく。特に昨日のことがあってから、この男は野崎のことがが心配でたまらないらしい。このままでは大森を睨み付けそうな勢いだ。
「飯田、骨なんて折れてねーぞ」
「……ならいーけどよ」
 思わず苦笑がもれる。改めて正面に向き直ると、昨日の新入生三人と、その後ろで申し訳なさそうに手を上げる鈴木の姿があった。
「ごめん皆、なんかこっちもばたばたしてて……」
 結局高橋も来たようだ。ちらりと見ると、まさかのタイミングでばっちり目が合ってしまう。しかし、焦る間もなく、野崎はある違和感に気づく。―――睨まれている?
「結局皆入るんだ。あ、見学?」
 阿部が人のいい笑みを浮かべている一方で、久世は後ろのほうで黙ったままだ。
「まあそんなとこだな。一年の皆も、もう一回自己紹介してくれ」
「何でまたやるんすか」
 飯田が口を出すと、
「……昨日来てない奴が一人いるんでな」
 鈴木が恨みがましそうに久世を見ながら、ため息をついた。


***


 この日の活動は、軽く準備運動をした後キャッチボールやテニスなどを軽くやって、一年生のためか早めにお開きになった。
「なんか今日はいつにも増して楽だったな」
 飯田がこっそりと呟く。野崎は苦笑しながらもその言葉に同意した。
「さすがに一年の前でいきなり走ったりなんかしないだろうな」
 実は野崎が一番得意なのは小細工のいらないマラソンなのだが、こと金曜会のなかでは嫌われている活動の一つである。どうも走るだけというのは楽しみが無いというのが主な理由のようだ。
「そういや、結局高橋は入るんかな」
 飯田の言葉に、高橋を目線で探した。さっきはなぜか睨まれていたように感じたが、気のせいかもしれない。というか、睨まれる理由など見当もつかない。まだ一言も会話したことが無いのだ。
「さあ……」
 視界の中で高橋を見つけた。大森となにやら話しているようだ。と、野崎の視線に気づいたのか大森がこちらに駆けて来る。高橋もこちらを向き――思い切り睨まれた。今度は間違いない。二回目なのだ。困った問題の出現に胃がきりきりと痛む。
「あの、野崎さん、飯田さん! 俺、入ります金曜会!」
 相変わらずの大声でまくし立てられて大森のほうに視線を戻すと、彼はきらきらと瞳を輝かせながら笑顔を作っていた。飯田が隣でにやにやしている。活動のオイシイところだけかじって決めてしまうとは安直な奴――とでも言いたいのだろう。
「じゃ、これからよろしくな、大森」
「よろしく」
「ハイ! よろしくおねがいします!」
 ところでさあ、と飯田は切り出した。
「高橋はどうするって言ってた?」
「高橋すか?」
 大森は一瞬怪訝そうな顔をした。それも、なんでそんなことを聞くのかと言うくらい当たり前に。
「入るって言ってましたけど」
「まじか!」
 なんとなく、嫌な予感がする。野崎はそう予感したが、それがこのことなのか、これから先に起こるであろう事なのかはまだ分からなかった。


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