西山がいよいよ酔い始めた。 野崎は彼のスキンシップが一段と激しくなってきたのを確認して、その処置を委ねようと飯田を探した。部屋はいくつもの会話が飛び交い、騒然としている。 「なあ大森、このシャツ畳んじゃっていいか?」 その声に反応してソファの上を見上げると、飯田が部屋の隅に置かれたダンボールの中を覗き込んでいた。そこから、皺くちゃの衣服の数々を取り出す。どうやら入っているのは衣類だけではないようで、折れ曲がった週間雑誌やルーズリーフの端切れも姿を見せている。野崎が思わず感心してしまうほど、ダンボールからは大量の物が出てきた。 「わー、いいっすよ!」 大森が慌てたような声を上げて立ち上がりかけたが、その拍子にテーブルの淵にどこかぶつけたのか、がたんと大きな音が鳴ってすぐに蹲る。相当痛そうだ。想像して、野崎も思わず顔を顰めた。 「大丈夫……?」 石川が心配そうに訊ねる。大森は引き攣った笑顔を石川に向けると、諦めたようにすねをさすりながら座り直した。その様子に飯田も苦笑を浮かべている。 「悪いな大森、なんかこういうの見ると、放って置けなくてさ」 「……飯田さん、お袋みたいっすね」 大森が感心したように呟く。確かに飯田は、生まれつきの性分か身についた性質かは分からないが、家事の類が趣味に出来るほど好きらしく、彼の部屋は野崎の部屋の何倍も整理整頓が徹底されている。それも、神経質すぎることもなくちょうどいい加減なのだ。 「いーだは俺らのオカーサンだもんなっ」 「うわっ、引っぱんなって!」 ぐい、と西山に肩を引っ張られて、野崎の持っていたグラスの中身が大きく波打つ。そうだ、この男をどうにかしてもらおうと思っていたのだ。このまま酔い潰れて部屋で吐かれたりしては、たまったものではない。 「飯田、それはあとでいいからさ、コイツ何とかしてくれよ」 「あー……西山、ね」 飯田はこれ見よがしにため息をついてみせる。しかし当の本人は今度は大森に絡み始めていて、聞いていないようだ。 「おい、にし……あ、ちょっと待って」 言葉を途中で止めると、飯田はテーブルの上で不細工な振動音を響かせ始めた携帯電話を取った。 「電話?」 「ん」 二つ折りの本体を開きながら、飯田は向こうを向いてなにやら首をかしげている。 「あ、じゃあ西山君は俺に任せろよ」 そう言って立ち上がったのは、ソファの上で石川と話していた寺島だった。自然と野崎と場所を変わる形になり、缶を持ったまま立ち上がってソファへ腰掛ける。隣で飯田が電話している。 「親父、どうしたんだよ?」 その声が耳に入ってきて、思わず飯田の後姿を盗み見てしまう。飯田の親は随分前に離婚していて、一人っ子だった彼は母親に引き取られたのだという話を以前聞いたことがある。それでも、父親との仲は決して悪いわけではなく、今でもたまにメールや電話が来るらしい。 「え? うん。……えーっと、茶色いのが西山、黒いのが野崎だよ」 自分の名前が出たせいで、逸らそうとした目が再び吸い寄せられてしまった。何の会話をしているのだろう。茶色と黒ということは、髪の色の話だろうか。 「あの、野崎さん」 そのとき、背後から声が聞こえてきて、振り向くと石川がつまみの小袋を差し出していた。 「そっちから回ってきました。どうぞ」 「サンキュ」 受け取ると、石川は手に持ったもう一つの袋を所在なさげに見つめていた。飯田の分なのだろう。野崎がもう一度飯田を振り向こうと上半身を捻りかけたとき、 「わりーな」 横から電話を終えた飯田の手が伸びてきて、それを石川の手の上からさらった。 「何の電話だったんだ?」 それとなく聞いてみると、飯田は考えるような素振りを見せて黙り込む。もしや、聞いてはいけないような話題だったのだろうか。 「なんの話だったんだろう」 「は?」 どうやら、話したくなくて誤魔化している様子では無い。飯田は野崎の隣に座ると、携帯電話を弄りながらそれに続けた。 「この前、ほら、お前の誕生日のとき。部屋で飲んだじゃん」 西山を含めて三人で行ったパーティーともいえぬ誕生日のバカ騒ぎのことだろう。ケーキは無かったが、腹が膨れるほど酒を飲んだ覚えがある。 「あのときさ、俺の親父に写メ送ったの覚えてる?」 「あー、あのふざけて撮ったやつだろ」 確か、宴会の最中に飯田の父から『元気か』という趣旨のメールが来たのだ。そのときはもう既に皆酔っていたし、ちょっとしたノリで記念撮影をして、その写真をメールに添付して送ったのだった。今思えば恥ずかしいが、それよりその写真がどうしたのだろう。 「なんか、あの写真の友達がどんな奴かって聞かれた」 「ふうん……で、何て答えたんだよ?」 些か気になるところである。聞いてから、西山も呼ぼうとしてテーブルの方を向いたが、彼は寺島の制止も聞かずに、あからさまに嫌そうな顔をしている高橋に絡みはじめていた。その高橋が視線に気づいてこっちを向く。思わず笑いそうになったのは、「ちょっとこの人、どうにかしてくださいよ」という心の声がありありと顔に浮かんでいたからだ。その表情が妙に年相応に見えて、少し安心する。つい先日、漠然とした脅威に感じていたその存在と同一人物だとは、とても思えなかった。 とにかく、ざまあみろと心の中で呟いて、飯田の方に向き直る。気づけば、石川も興味津々と言った様子で飯田を見ていた。 「えー、見た目どおりの奴らだっていっといたよ」 「何だよそれ、面白くねー」 「見た目どおりって、一体どんな写真送ったんですか」 「俺も見たいっす、飯田さん!」 石川の問いかけにここぞとばかりに食いついてきたのは、飯田から最も遠い位置にいる高橋だった。恐らく、西山の執拗な絡みから抜け出すための苦肉の策だったのだろう。 「いいけど、ちょっと待てよ……ああ、これ」 飯田が閉じた携帯電話ごと高橋に投げて渡すと、テーブルを囲むようにして皆が画面を覗き込む。 「あ? ああ、これ、懐かしいなー!」 西山がオーバーリアクションで大声を上げ、次いで何が面白いのか笑い出す。 「懐かしいって、まだ一月も経ってねーよ」 突っ込みつつも、野崎もあまり覚えていないその写真が気になって、テーブルの方へ歩いていく。一人ひとり回されているそれを、今は大森が見ているところだった。後ろから覗き込むと、画面にはやけに笑顔の三人が写っている。酔っているのがありありと分かるテンションの高さだ。 「うわ、こんなんだっけ」 思わず苦笑すると、大森が画面から目を離して、こちらをちらりと見て、再びそれに目を落とす。 いったいなんだ。野崎がきょとんとしていると、 「野崎さん、なんか可愛い……」 目の前の男が、訳のわからない感想を、ぼそりともらした。 「はあ?」 自分のことだが、二十歳を超えたオニイサンに向かって「可愛い」と評する大森の心理が分からない。携帯電話を貸してもらいまじまじと写真を見るが、テンションの他はいつもと変わり無いように見える。 「あ、いや、別に変な意味じゃなくて、笑顔が可愛いっていう意味でっ」 「そんな、必死にならなくても分かってるよ」 妙な弁解をする大森が可笑しくて笑う。 「大森には彼女いるもんな」 高橋が空いたグラスに烏龍茶を注ぎながら、からかう様に口を出す。途端に、その場が俄かに色めきたった。 「え、お前マジかよ!」 と、これは西山だ。それを先頭に、「可愛い?」「大学同じ?」などと、次々に質問が浴びせられる。大森はその勢いに圧倒されながらも、恥ずかしそうに頭をかきながら律儀に返事を返していた。 「あ、プリクラありますよ」 すっかり惚気モードに突入した大森が、頬を緩ませながら自分の携帯電話を裏返し、電池パックの蓋を外す。 「うわー、そんなとこに貼ってんの」 寺島が蓋の裏を見て驚嘆の声を上げた。野崎もプリクラを覗き込むと、それにはキラキラの縁取りに覆われた大森とその彼女が、やけに色白に写りこんでいた。お互いの手でハートを作っているそのポーズだけで目を覆いたくなるが、問題は下の方にでかでかと書かれた可愛らしい手書きの文字だ。『大好き』の文字の後に大きなハート。あまりの恥ずかしさに思わず赤面する。 「……」 「どーしたの、野崎」 ソファでビールを傾けていた飯田が野崎の妙な沈黙に気づいて怪訝そうな顔をする。野崎はそれを誤魔化すように三本目の缶を空にした。 「……や、なんか、恥ずかしーな、と」 「カーワイイ」 西山がにやにやと笑う。おまけに手でがしがしと頭を撫でられて、寺島の視線が痛い。 「うっせ」 手早くそれから逃れると、野崎は高橋のところにあったグラスを奪ってぐいと飲んだ。 「あ、」 「ん?」 声を上げたのは二人同時だった。中身は、ただの烏龍茶だった。酒は入っていない。高橋を見ると、それほど酔っていないように見える。――これは不本意にも、前回に比べて、ということだ。 「何お前、もうやめんの?」 今日は、というニュアンスを含ませて言うと、高橋はやけににこやかな笑顔を浮かべた。 「俺、酒あんま強くないんで」 うそつけ、という言葉は喉の奥で飲み込んだ。あっそ、と適当に流して、小さな戸棚から未使用のグラスを取り出す。野崎はその中に、焼酎と炭酸レモンジュースを交互に注いだ。 「そういえば、野崎さんの誕生日会でさっきの写メ撮ったんすよね」 大森が、彼女についての下世話な質問攻めから抜け出すように野崎に問いかける。 「誕生会っていうか……ま、そうだな」 「寺島さんは行かなかったんですか?」 「それは……」 「あー」 その質問には自分が答えるとばかりに、西山が声を上げた。野崎が口ごもったからだろう。別に、のけ者にしたとか、そういう後ろめたい理由は無い。が、しかし……、野崎はそのときのことをぼんやりと思い出してひっそりとため息をついた。宴会には寺島も誘った。誘ったのだが、結構こっぴどくお断りされてしまったのだ。 「寺島は用事があったんだよな!」 「違うよ、西山君」 西山の明るい言葉に対し、寺島は酒で頬を赤らめながら即座に否定する。 「あ、次の日が一限からだったんだっけ?」 「違う」 西山が必死に誤魔化そうとしているのは、きっとこの後彼がどんなことを言うか予想がついているからだろう。 「野崎の部屋に行ったら、ホモがうつるからな」 馬鹿にするように言ったその言葉が本心なのか冗談なのか計りかねて、その場は一瞬だけしんと静まる。 そしてガタンと大きな音がしたかと思うと、隣で高橋が立ち上がっていた。大森のように、すねをぶつけた様子も無い。少しして皆の視線が集中しているのを本人も感じ取ったのか、 「トイレっす」 一言、ぼそりと呟いた。 |