翌日の金曜会は、一年生が入って初めての活動だというのにもかかわらず、野崎と飯田のほかには一年生の二人しかいなかった。飯田を見ると、ちょうど欠伸をかみ殺している。上級生が誰もいないと、やはりどこか締まらないものだ。 「なんかさ、人少なくないか?」 「いや、言われなくてもわかってるよ」 飯田に突っ込みを入れられながら軽くストレッチをしていると、同じく屈伸をしていた高橋が顔を向けた。 「鈴木さんが今朝、就職ガイダンスがあるとか言ってましたけど、それじゃないですか」 「ああ、なるほどね」 「俺らもあと一年でそうなるんだな」 「怖いこと言うなよ……」 のうのうとしていられるのは今のうち、と言うことだろう。野崎は先のことを考えるのを早々に打ち切って、大森に視線を移した。 「三年生は分かったけど、石川は?」 問いかけに大森は曖昧な苦笑いを浮かべる。 「いやあ……ちょっと、具合が悪いって」 「二日酔いだな」 飯田が同じく苦笑する。宴会の席で、石川がやけに大人しいと思っていたが、どうやら酒に弱い性質だったようだ。それでも、西山のように周りにやたら絡むよりは随分可愛いものである。 「誰だ? 飲ませたの」 「西山さんですね」 それ以外に考えられない、とばかりに高橋が断言した。思えば、彼も西山による被害者の一人だ。哀れみの視線を送ると、ちょうど目が合う。 「西山のはさ、まあいつものことだから」 彼の酒癖の悪さは今更どうにかなるものではないと野崎も飯田も諦めてしまっているのだが、入ったばかりの新入生にすぐ慣れろと言うのは酷かもしれない。 しかし、大森はその話題に対して首を軽くかしげて問うた。 「そんなに酷かったっすか?」 「……お前も相当酔ってたからな」 飯田の言葉に、野崎は考えるまでも無く頷いた。散々騒ぎ散らした挙句テーブルを占拠して眠り始めたのは他でもない、大森だ。 「そうでしたっけ」 恥ずかしそうに頭をかきながら大森はだらしなく笑った。酒の席で悪気はないだろうから怒るのもおかしいが、どうにも理不尽なものを感じずにはいられない。 「俺たちはまだいいけど、三年生の前であれはまずいと思うぞ?」 冗談交じりに言うと、これは効果があったのか、大森が大げさにうなだれた。後ろに流していた前髪が顔にかかって目をすっかり隠してしまい、ぎょっとする。 「わ、お前……髪切れよな」 「……伸ばすつもりなんですけど」 大森はしょぼくれたまま、毛先をじりじりと捩りはじめた。その様子を横目で見た高橋が、ふと思いついたように顔を上げる。 「そういえば、この寮で髪染めてるのって西山さんだけですよね」 「まあ、三年は就活だし……俺らは、なあ?」 「なにが、なあ? なんだよ」 飯田の言葉に問い返す。西山が髪を染めたのは大学生になってからだということは聞いているが、正直黒髪の頃の彼を見たことが無いため想像が難しい。 「ま、俺はそんな柄じゃねえし。野崎は単に染めたいとか思わないからだろ」 「……何でお前に説明されなきゃいけないんだ」 間違ってはいないが、少々複雑な気分だ。口を尖らせて抗議すると、さっきまでしんみりムードだった大森が突然顔を上げて前のめりになった。 「俺、染めたいんすけど! 西山さん、どこでやったとか言ってました?」 「ちょ、唾飛んだ」 高橋が顔を顰めるが、大森は全く聞いていない様子で目を輝かせている。この長身で髪を染めたら、とにかく目立ちそうだ。 「んー、後で西山に聞いてみな? メアド知ってんだろ」 「うおー、キンキョーします!」 「せんでいいせんでいい」 漫才のようなやり取りに野崎も笑いがこぼれる。あの飲み会の席で、一通り全員とメールアドレスを交換したのだ。ちなみに不本意にも――高橋のアドレスも、入っている。 「でもさ、染めると髪痛むぞ?」 「西山の髪は毛先痛んでボロボロだもんな」 野崎と飯田で、大森に忠告する。すぐ近くに恰好の事例がいるので、その信憑性は確かだ。野崎が髪を染めたくない理由の一つも、そこにある。 「禿げるのも早いぞ」 「そういうのは隔世遺伝って言うけどな」 大森に脅しを掛けようとした矢先、飯田に笑顔で突っ込まれた。彼の話が真実ならば野崎もまずい気がするが、だからこそ余計な不安要素をつけたしたくないと言うのが本音だ。 「俺も髪染めようか迷ってるんすけど、野崎さんどう思います?」 高橋が野崎に意見を求める。高橋は健全なスポーツマンらしく(中身はどうだか知らないが)清潔な長さの黒髪だが、染めたらどうなるのだろう。ふと、興味がわく。 「遊べるの今のうちだけだし、染めたら?」 「じゃ、染めません」 「え」 高橋は楽しそうににこにこしながら、さっさとストレッチを再開している。相変わらずよく分からない奴だが、からかわれたようで少し悔しい。 「はは、高橋に遊ばれてんなよ」 飯田は笑っていたが、どうも釈然としない。野崎はぶすっとしたまま、地べたに座って膝裏を伸ばし始めた。 「あ、そうだ……!」 大森が小さく叫ぶ。そして野崎と飯田のほうに目を向けると、やけに深刻そうな顔で声を潜めた。 「……寺島さんて、何者なんですか」 「あ?」 何者、と訊かれてどう答えればいいのだろう。野崎は何となく飯田を見る。飯田もまた野崎を見たため、二人の視線はばっちりかみ合ってしまった。 「何者って、大げさな」 飯田が苦笑する。しかし大森は真剣な顔を崩そうとせずに、慎重に言葉を続けた。 「さっき、見ちゃったんすよ、俺。……あの人が、西山さんのロッカー探ってたの」 「……あー」 「あー……」 野崎と飯田がほぼ同時に反応する。笑い飛ばすことが出来なかったのは、残念ながら、その行為に大いに心当たりがあるからだ。 「何ですか二人とも! その反応はないでしょ!」 「……あのさあ、これを話すと長いんだけど」 飯田がそう前置きする。質問者である大森だけでなく、高橋もこの話に興味があるようで、黙って耳を傾けていた。 「寺島は高校んとき、西山に助けてもらったことがあるらしくて……」 野崎と飯田、西山は全て別々の高校出身だが、寺島は西山と同じ学校だった。……それだけで、特に接点も無かったそうなのだが、一度、寺島が上級生に殴られているところを助けたのがきっかけでやたらと懐かれてしまったという。 西山本人は嫌がっているわけではないようだったが、高校卒業の辺りは結構酷かったらしい。最初はパシリを自ら引き受けたり、荷物を持ったりする程度だったようだが、それがだんだんエスカレートして、西山に何かしようとする奴は男女問わず追い払うようになったという。西山自身、慕ってくれている彼を無下にすることも出来ずに、困り果てているようだ。 「ああ、だから西山さんにだけ君づけなんですね」 高橋が納得したように言う。一方、大森は目をぱちくりさせて高橋の顔を見つめた。凡そ、彼はそんな細かいところには気づいていなかったのだろう。かなり酔っていたので当たり前といえば当たり前だが、この男の場合、素面でも気づけたかどうかは微妙である。 「そういうこと。で、西山に送られてくる手紙の類は例外なく寺島の検閲を食らうわけだ」 「……それ、西山さんは許してるんですか?」 大森が不可解と言うように食いついた。野崎は飯田と目を合わせると、僅かに首を捻った。 「うーん……。一回問い詰めたときにしらを切られてそれっきり、だな」 飯田も野崎の回答に概ね賛成といったように頷く。 「あいつも、ちょっと寺島には甘いところあるからなあ」 「大丈夫なんですか? ダイレクトメールならまだしも、大事な書類とかだったら」 上級生二人のやけにのんびりとした考えに苛立ちを覚えたのか、高橋の表情は厳しい。飯田はそれに合わせるようにきりりと真面目な表情になると、うん、と相槌をうった。 「あいつも、むやみやたらに捨てるわけじゃないから。ただ、通販で何か買うときは、大体野崎の部屋番号で送るんだ」 「野崎さんの……ですか?」 大森は少し考えて、「隣だから?」と独り言のようにもらす。 「そんなとこ。……あ、勿論だけど、この話は他の人には内緒だからな」 「分かってます」 大森が静かにため息を吐いたとき、高橋がすっと片手を上げた。 「最後にひとつ、いいっすか?」 「ん、何だ?」 立ち上がってウインドブレーカーについた草を払いながら、飯田が答える。野崎も立ち上がろうと地面に手をついた。 「野崎さんは何で寺島さんに嫌われてるんすか?」 「…………」 たっぷり十数秒の沈黙が流れる。高橋の顔は、さっき野崎をからかったときの悪戯顔ではない。無表情とも取れるほどの、真剣な瞳だった。笑い飛ばす機会を逸してしまって飯田を見ると、迷っているように視線を彷徨わせている。彼が何を思案しているのか、野崎にはすぐ分かった。 「俺が西山と仲いいからな。それだけだよ」 「仲がいいのは飯田さんだって、」 「今日はここまでにしようぜ」 高橋の反論をわざと押し留めるように、飯田がやけに明るい声を出して手をぱんぱんと叩いた。いつも鈴木がやっている金曜会の締め方だ。ただし、今日のそれには有無を言わせぬ威圧を含ませている。 「飯田さん!」 「悪いな」 中途半端にされて納得できないと言うように高橋が詰め寄るのを、飯田は静かに制した。野崎も、高橋と目は合わせずに、諭すように告げる。 「お前の思ってるようなことはないぜ、多分」 この男は危険だ。封鎖された扉をこじ開けてこちら側を覗こうとする。 しかし、野崎がそのまま歩き出そうとすると、後ろから強い声がかかった。 「あの人も、俺と同じようなこと言ってた」 「……おつかれ」 強引に声を振り切って歩くと、それ以上の言葉は聞こえなかった。代わりに、大森が困惑したような声音で「お疲れさまっす」と言うのが聞こえてくる。 飯田も何も言わなかった。 ――先輩って、ホモなんですか。 否定は肯定の何倍も難しい。野崎は飯田の着いてくる足音を聞きながら、苦々しい一年前のことを、思い出していた。 |