深呼吸 12


 初めて寺島と会話をしたのは、多分一年前の新入生歓迎会のときだ。大した話はしていない。そのときにはもう隣部屋だった西山とは知り合いになっていたから、彼を通してほんの少し、よろしくとかそんな挨拶をしただけだ。決して愛想がいいという印象は受けなかったが、それでも本当に仲良く出来ればいいと思っていた。
 彼との決定的な壁が出来たのは、「事件」の後だ。




 気づいたら西山の部屋のベッドに寝かされていた。ショックで食欲も気力もなくなっていた野崎のもとへ、朝の料理を運んで来てくれたのは飯田と西山だ。今日は休めと飯田に諭されて、ベッドを貸してくれた西山の部屋でそのまま一日を過ごすことになったのだ。
 野崎はトイレのほかにはほとんど部屋から出ずに、テレビを掛けっぱなしにしながら横になっていた。寝ようとはしたが、目を瞑ると昨夜の出来事が瞼の裏に蘇ってきて、とても眠れる状態ではない。
 結局ぼうっとしたまま日は落ち始めて、そろそろ夕方のニュースが始まるかといったとき、部屋にノックの音が響いた。思わずびくりと肩を震わせてドアを凝視する。西山だろうか。しかし、自分の部屋に入るのにノックなどしないだろう。飯田かもしれない。野崎がゆっくりと体を起こすと、ドアの向こうから聞こえてきたのは意外な声だった。
「西山君、いる?」
 一瞬あっけに取られてしまったが、この声には微かにだが聞き覚えがある。西山と同じ高校から来たと言っていた、寺島雄太郎だ。もちろんこの一件を知らない男である。
「西山君?」
 もちろんだが、西山はまだ大学から帰ってきていない。何となく落ち着かない気分になって野崎はもう一度布団にもぐりこんだ。しばらくノックの音が響いていたが、やがてそれも聞こえなくなりドアの向こうは静まり返る。ようやく去ったのだろうか。野崎は安堵して、窓の方に寝返りをうった。
 ガチャリと、静かにノブが回る音が響いたのはそのときだ。どきりと心臓が跳ね上がる。
「西山君……?」
 寺島だ。部屋の中へ入ってくる音がして、野崎はぎゅっと目を瞑った。どう言い訳をすればいい。昨日の出来事を思い返すだけでも吐きそうなのに、うまい説明など出来るわけが無い。
「……誰だお前っ!」
 実際、言い訳などと考えている暇も無かった。布団を凄い勢いで剥ぎ取られ、肩を思いがけない力でベッドに押し付けられる。野崎はその手から逃れられないまま、寺島と対峙していた。ふつ、と昨日の恐怖が蘇ってきて体が硬直する。
「何で西山君のベッドにお前が寝てるんだよ!」
 寺島は必死の形相で睨みつけてくる。野崎は口を開けたが、何も考えることが出来ずに、そのまま荒い呼吸を繰り返した。視線を逸らすこともできずに、ただそのぎらついた目を見つめ返す。
「何か変だと思ってたんだよな」
 寺島は野崎の肩を押さえつける手に体重を掛けながら、口の端だけを不自然に吊り上げた。
「俺、知ってんだぜ。昨日の夜、飯田と一緒にコソコソ風呂入ってただろ」
 野崎は何も言わなかった。公園で発見されてから、しきりに風呂に入りたがった野崎の希望を聞いてくれたのは飯田だが、正確に言うと一緒に入ったわけではない。飯田は脱衣所で、人が来ないか見張ってくれていたのだ。
 どうやって寺島がその情報を耳にしたのかは知らないが、恐らくそれが正しい情報であるかどうかは、この男にとってさほど重要ではないのだろう。野崎の沈黙をいいようにとったのか、寺島は反対の手で野崎の腕を掴んだ。容赦なくそこに爪を立てられて、痛みに顔をゆがめる。
「野崎とかいったよな。お前、ホモなんだろ」
 ぞわりと、背筋から嫌な感覚が伝わった。寺島の下卑た笑いに、あの男の姿が重なる。思うように息が吸えずに汗が浮かんでくる。体は、動かない。
「西山君をたぶらかすつもりだったんだろ、なあ!」
 ぐい、と肩を押されて、野崎はようやく首を振った。声も出なければ、力も入らない。極度の緊張状態ではりつめていた糸がそろそろ途切れてしまいそうだ。
「ならなんでここに寝てんだ、答えろよ!」
「何してんだ!」
 寺島の怒声に被るようにして、今度こそ聞きなれた声が響いた。ドアを勢いよく開けて入ってきた人物は、驚いている寺島の肩を掴んで野崎から引き剥がす。
「飯田……」
 暴れる寺島の腕をしっかりと掴みながら、飯田は野崎に顔を向けた。
「大丈夫か?」
 どっと肩の力が抜けて、野崎はそのままごろんとベッドに転がる。緊張し続けていた筋肉が弛緩して、疲れと汗が一気に吹き出てきた。
「ん……」
 返事をしようと口を開けたが、掠れたような声しか出ない。口の中はからからに乾ききっていた。
「許さないからな……野崎!」
 寺島は野崎を睨みつけてそう叫んだかと思うと、緩んでいた飯田の拘束からするりと抜けて走り去っていった。開けっ放しのドアが揺れている。飯田はそれをきちんと閉め、冷蔵庫を開けて中から水の入ったペットボトルを取り出した。
「……ほら、水。飲めよ」
「サンキュ」
 体を起こしてボトルを受け取ると、ひんやりと冷えている。キャップを開けて一口流し込むと、興奮状態だった頭も少しばかり落ち着いた。
「寺島……だよな。なんでここに?」
 飯田はもっともらしい質問をまず先にした。しかし、この答えはもとより野崎も持ち合わせていない。勝手に入ってきたのはあっちの方なのだ。
「西山に用があったみたいだけど」
 そして、恐らくベッドに寝ているのが西山でないと判断した途端、激昂した。思い出して思わず苦い顔をすると、飯田も気を遣うように少し黙って、
「なんで、あんなことに?」
 ごく控えめにそう訊いてきた。野崎は混乱した頭を整理しながら、一つずつ順を追って説明する。聞いている間、飯田は始終難しい顔をして黙っていた。
「……そんなの、あいつの勝手な言いがかりだろ」
 最後まで聞いた飯田がようやく口を開いたかと思うと、吐き捨てるような台詞だ。悔しいというような、そんな表情だった。
「あいつ……西山のこと好きなのかな」
 野崎が自然に、本当に何の疑問もなくそう呟くと、飯田も何か考えるように、ううん、と唸った。あのときの寺島には野崎にそう思わせるほどの気迫があった。憤怒とか哀切とか嫉妬とか憎悪とか、そんなマイナスの感情がごたまぜになったような、そんな目をしていた。
「西山にも言っとかないとな」
「いや」
 飯田の呟きに対して、野崎は首を振って反応した。
「言わないでくれ」
「なんで」
 すぐに切り返されて、野崎は一瞬答えに詰まったが、飯田の目をじっと見つめると、向こうが折れてくれる気配がある。
「別にあいつが何かしたわけじゃねえし。西山のダチ、なんだろ」
「……お前がそういうんだったら、いいけどさ」
 予想通り飯田も諦めのため息を吐いて、それから、「あ、でも」と続けた。
「何」
「その水は言わないと」
 飯田は野崎の手中にあるペットボトルを指差す。
「それ、西山のだから」
「勝手に取ったのかよ!」
 野崎が呆れ半分で突っ込むと、飯田はにこりと笑った。
「ここ、西山の部屋だしな」
 床に飯田のバッグと一緒に転がっていたビニール袋を拾いあげて、野崎に差し出す。
「晩飯辛かったら食っとけ」
「飯田……」
 野崎はコンビニの袋の中から覗くナポリタンロールを見て、目頭にこみ上げてくる熱いものをこらえるのに必死だった。




 思い出して、またため息がこぼれる。寺島とはあの一件以来、殆ど会話をしていない。しかし、気を遣うのは皆で話している場面だ。ことあるごとに野崎に突っかかってくる寺島を、飯田も西山も、野崎自身もどう対応していいのか分からない。寺島は野崎が西山と仲良くしているのが気に入らない様子だが、因縁をつけられるわけでもない。ただじっと睨まれる。それだけだ。
 それなのに、高橋は何を勘繰っているんだろう。一年前のことを、暴きたいとでも思っているのだろうか。背筋が震える。もう掘り起こさないで欲しい。今年の新入生歓迎会の買出しで出会った白いワゴンの男。あれが本当に本物だとしたら。イメージは悪い方向へどんどんと膨らんでいく。
 一年前が、再び野崎の目の前に現れようとしている。何かが起こりそうな予感が、ドクドクと鼓動を動かしていた。



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