先日の金曜会からどうも、高橋と顔を合わせるのが気まずくてかなわない。姿を見ても何となく避けてしまうので、挨拶すらも交わしていない状況だ。それにさりげなく気づいた飯田が協力してくれているということもあり、とりあえず今は穏やかに日々を迎えられている。 しかし、こんなことをしても時間の問題だということはよく分かっていた。彼は彼自身の好奇心が鎮まるまで、野崎への追及を続けるだろう。ずけずけとした物言いや行動からは、「触れないで置こう」という遠慮がまるで感じられない。 ガタン。野崎が二〇二号室の鍵を開けようとしたちょうどその時、隣の部屋から物凄い物音が響いてきた。まるで、テーブルを丸ごとひっくり返したような、そんな音だ。続いて、ばさばさと何かが落ちる音も聞こえてくる。 「西山、どーした?」 何でもなければそれでいい。隣室をノックすると、ドアは案外すぐに開けられた。 「ちょうどよかった」 「は?」 出てきた西山は野崎の腕をがっしり掴むと、そのまま部屋の中に引きずりこんだ。肩からかけていたバッグがずり落ちる。それに引っかかって、ドアは中途半端に開いたままだ。 「なによ、そんな……誰」 部屋の奥から聞きなれない高い声がして、顔を上げるとそこには見知らぬ女が立っていた。誰、と女の台詞を小声で反芻する。聞きたいのはこっちのほうだ。茶髪で長い髪にゆるくパーマをかけている。恐らく、西山の彼女なのだろうが……なぜだろう、嫌な予感がする。 「おい、にしや、……っ」 その先を言わせまいとするように、いきなり唇を塞がれた。野崎はまず思考が停止して、ついでに息も止めた。そして、前にも同じようなことがあったのを思い出す。調子に乗って舌を入れようとしてきたので、とりあえず足を思い切り踏んづけてやった。 「……わりーな理香、今はコイツに夢中だから」 唇を離すと、いけしゃあしゃあと西山はそう言ってのけた。野崎は怖くて理香と呼ばれた彼女の顔をまともに見れない。少しの間沈黙が流れて、 「ちーちゃんの、バカ!」 理香は涙まじりの大声で、そう叫んだ。野崎が肩を縮こめている間に、バッグを掴んで走ってくる。野崎のすぐ横を通り過ぎてドアを押し、脱兎のごとく走り去っていった。 「やー、助かったわ」 女の子を泣かせたにもかかわらず、西山に悪びれる様子は無い。野崎が咎めるようにじとっと睨むと、ごめんともう一度手を合わせてきた。 「今の、彼女だろ」 「や、元カノ」 どっちでもいい。野崎は力が抜けてため息を吐いた。 「あのなあ、いい加減俺をダシに使うのやめろよな」 「だって、飯田じゃサマになんないだろ」 「今だってなってねえよ」 「なんなら、今カノになる?」 「死にてーか?」 「いやん、こわい」 反省の色は全く無い。野崎は怒りを通り越して呆れてきた。心配してノックなんてしなければ良かったと考えて、ドアに引っかかったままのバッグを持ち上げる。 「飯田に話しとくから」 ぼそりと呟くと、この文句は効果てきめんだったようで、西山はさっと顔色を変えた。 「おいおい、それはやめろよ。アイツ説教なげーんだよ」 食い下がる西山の眼前でドアをばたりと閉める。廊下はひんやりとしていた。唇をそっと指でなぞってみる。キスは嫌いではない。あの男が、キスだけはしてこなかったからかもしれない。 息を吐いて横を向くと、大きな人影がドアの前に突っ立っていた。野崎は驚いて踏み出そうとした足を止める。 「……」 高橋だ。彼は野崎の方に顔を向けて、無表情のままふう、と息を吐いた。 「なんか用?」 ついつい態度も硬くなってしまう。 「用事が無けりゃ来ちゃダメなんですか」 「なるべく」 「……野崎さんが誰と何をしようと勝手ですけど」 高橋はそこで言葉を切って、野崎の腕を掴んで引っ張った。素早い動きにたたらを踏んでしまうのを見越したように、高橋の顔がぐっと近くなる。 キスされる、と思った。 「ドアはちゃんと閉めたほうがいいですよ?」 しかし高橋は何かを押し殺したような低い声でそれだけ呟くと、すぐに離れていった。腕も解放され、心臓の音だけが早まったまま、しばし呆然とする。その間に高橋はさっと踵を返して自分の部屋に入ってしまった。廊下に残されて、ようやく高橋の言葉を頭で反芻する。 ドアは、ちゃんと――……。 「……」 見られていたのか。ようやく合点がいって、しかしそこに生じた大きな誤解に頭を悩ませる。これから弁解に行く気にはなれないし、そんな義理も無い。大体にして、ことの原因は全て西山にあるのだ。 今度こそ二〇二の鍵を開けて中に入ると、変わらぬ静けさに安心する。 「なんなんだろ、あいつ……」 顔が近くなったとき、なぜかキスされると思った。さっきのことがあったからかもしれないが、どうも原因はそれだけではないような気がする。じゃあ何なのかと聞かれても、説明すら出来ないのだが。 「あれ……」 電気を着けると、ミニテーブルの上に見慣れぬスーパーの袋が乗っかっているのに気づいた。こんなものは、朝まで無かったはずだ。中を覗いてみると、固そうな緑が顔を出す。 「サボテン?」 鉢に入った小さなそれは、野崎の知識が正しければ『サボテン』と呼ぶもののはずだ。作り物のようだが、針に触れてみると結構鋭い。持ち上げると小さい紙切れがひらりと滑り落ちた。「水はいりません。T.」と殴り書きのような字で書かれている。ますます訳が分からない。 「T……高橋?」 用はないと言っていたが、もしかしたら彼なりに先日の無礼を反省してこれを持って来てくれたのかもしれない。しばらく見つめていたが、野崎は思いついたように机の上の空いたスペースにそれを置いた。朝日が差せばちょうど日光が当たるポジションなので、ちょうどいいだろう。インテリアとしても、このシンプルな部屋にちょうどいいくらいの控えめさだ。 なんとなく、笑みがこぼれる。あんな生意気なやつにも、ちょっとくらいは可愛げがあるじゃないか。 机の上でじっとするサボテンを見ながら、野崎は一度だけ唇を擦った。 |