深呼吸 14


 久しぶりに、金曜会のメンバー全員が裏庭に集結した。と、いうのも、この日は大学の創立記念日で全ての講義が休みだったのだ。人数が多くてやりがいがあるのか、鈴木はごほんと一つ咳払いをすると、手をぱんと鳴らした。自然と視線が集中する。
「先週は来れなくて悪かった。一年生が皆入ってくれたから、全部で八人か……。折角揃ったんだから、バスケでもやるか!」
「でも鈴木、ボールもゴールもないぜ」
 やる気満々の鈴木に水を差すように突っ込んだのは、阿部だ。
「たしかに」
 久世も欠伸をしながら同意する。金葉荘に寄り添うようにして建っている古い倉庫は、机や椅子といった備品が殆どを占拠しているが、金曜会で使うスポーツ用具なども一緒に入れさせてもらっている。野崎はその埃っぽく暗い様子を思い出した。確かにバスケットのボールなどは無かった気がする。
「困ったな……。じゃあ皆、何がしたい?」
 鈴木の問いかけに、その場はしばしざわつく。
「ハイ」
 その中、ひときわ凛とした声で手を挙げたのは高橋だ。
「鬼ごっこがしたいです」
 いつの間にか話し声が聞こえなくなっている。同じく口を噤んだ野崎は、隣の飯田と顔を見合わせた。
「鬼ごっこ、ね……」
 鈴木が考え込むように腕組みをする。そして間もなく、うんと頷いた。
「いいじゃないか、それにしよう!」
「久しぶりだな、鬼ごっこなんて」
 阿部が懐かしむように言うと、久世もそれに頷く。
「クリスマス以来だ」
「ああ、クリスマス」
 飯田がげっそりと呟いた。金曜会のクリスマスは地獄の鬼ごっこが毎年の恒例である。例に漏れずその洗礼を受けた野崎と飯田だったが、特に飯田はあまりいい思い出がないらしい。
「じゃあ、鬼は俺と……あともう一人、誰か」
「俺やるよ」
 阿部が挙手し、鬼が決まったところで鈴木は楽しげに屈伸を始める。
「よし、金葉荘の周りが範囲だぞ。捕まったやつは、その木の下に」
 指差した先にあるのは大きな一本桜だ。周りに比べて特に遅咲きのこの花は、桜前線を過ぎてもまだつぼみのままだ。
「はじめ!」
 いつものように軽快に手が鳴り、金曜会の面々は一斉にばらばらの方向へ散らばっていく。野崎も桜に背を向け、走り出した。






「服引っ張んのは無しだろ、なあ」
 数分後、ジャージの袖をまくりながら、野崎は桜の木の傍らに立っていた。その隣ですまなさそうにしゃがみこんでいるのは大森だ。鬼に捕まりそうになった彼にジャージの裾を捕まれたせいで、野崎も道ずれになってしまったのだ。
「すんません……」
 しかし、文句に対する反応はこちらが申し訳なるほど自信なさげだった。大きい体が縮こまっている様子は、やはり目に悪い。野崎は何とかフォローしようと言葉を探す。
「あー……なんだ、大森って案外持久力無いのな」
 違う、これでは逆効果だ。こんなときだけ西山の饒舌さが羨ましくなる。あんなにすらすらと言葉が出てくるのは、やはり根本的に思考回路が違うからだろうか。
「そうなんですよ、俺は体力が無くて……。はあ……」
 大森らしからぬその言葉に、野崎は軽く首をかしげた。たかが鬼ごっこで、こんなに落ち込むことはないだろう。
「なんか、元気ない?」
 何気なく聞いたつもりだったが、大森は更に姿勢を低くして、がっくりとうなだれる。焦ったのは野崎の方だ。
「おい、大丈夫かよ」
「いや、ま、色々……」
 ようやく顔を上げた大森は、情けない顔のまま笑った。その笑顔にもどこか陰がある。この一週間の間に、一体何があったというのだろう。
「おつかれー」
「飯田」
 まだ走り続けているメンバーから離脱して、飯田がこちらに歩いてきた。野崎が近くにあった飯田のタオルを手渡すと、小さく礼を言われる。
「阿部さんの体力、どうなってんだろ」
「あの人とマンツーマンは危険だぜ」
 どうやら飯田は苛酷な一戦を繰り広げてきたようだ。野崎が軽やかに笑うと、恨めしそうな目で見返される。
「お前はこういうの得意だろ。今日はやけに早かったな」
「ああ、それはこいつに……」
 そこまで言ってから大森の落ち込みようを思い出して「なんでもない」と取り消すと、話題を変えようとまだ走っているメンバーに目を向ける。
「久世さんと高橋はともかく、石川は意外と頑張ってるよな」
 目の前では今も息を切らしながら三人が逃げ回っている。まだまだ余裕はありそうだ。
「すばしっこいんだよ。意外に持久力も……なんか大森、元気ない?」
 飯田も彼の様子に気づいたのか、スポーツドリンクを煽りながら問いかける。大森は顔を上げて、げっそりしたまま頷いた。
「まあ、色々……」
「彼女?」
「えっ」
 野崎は思わず顔を背けた。それくらい、大森の反応は明らかだった。先日散々自慢していた彼女と、さしずめ喧嘩でもしたのだろう。
「あー、彼女っていえばさ」
 これ以上大森をいじめることは無いだろう。話を逸らそうと、飯田に話しかける。
「西山がまた別れたよ」
 言ってから、しまった、と心の中で舌打ちした。彼女問題で悩んでいる大森の前で、この話題はまずいかもしれない。ちらと様子を伺ったが、彼は沈黙しているだけで、どんな顔をしているのかも分からない。
「また?」
 飯田は呆れた表情でため息を吐いた。
「今回は結構長かったから、どうにかなると思ったのに」
 先日の出来事が頭に蘇る。彼女の名前はなんだったか。リエ、違うな、リカ……そうだ、リカだ。あのバッチリメイクに甲高い叫び声は、しばらく忘れないだろう。
「隣の部屋で修羅場だぜ。嫌になる」
 野崎のリアルな感想に飯田は苦笑して、その顔を大森に向けた。
「お前も気をつけたほうがいいぜ」
「何がすか」
 飯田の言いたいことが大森にはいまいちわからなかったようだが、野崎はすぐに察して頷いた。
「彼女、取られないよーに」
 ぽんと肩に手を乗せる。顔を覗き込むと、大森は黙って青ざめていた。
「あーもー無理。離脱」
 声が聞こえて前方に向き直ると、汗だくで空を仰ぐ久世の姿があった。歩きに移行してから、両手を挙げて降参のポーズを取る。それから間もなく、実質一対一になった高橋と石川が鬼に捕まり、息を切らしながら集まってきた。
「なかなかすげーじゃん、石川」
「いや、そんなこと無いですよ」
 石川は笑って謙遜しながら、しきりに額をさすっている。誰かとぶつかったのだろうか。
「どうかしたの、頭」
 飯田が代わりに訊ねる。
「あ、玄関のところで出てきた人とぶつかっちゃって……」
「誰?」
「寺島さんです」
「寺島ぁ?」
 野崎と飯田の反応を不思議そうに受け止めながら、石川はもう一度頷いた。
「すごい急いでたみたいで、思いっきりぶつかっちゃいましたよ」
 実に申し訳なさそうな表情だ。飯田は携帯電話で時間を確認して、首を捻った。
「もうそろそろ飯の時間だってのに、どこ行ったんだろうな」
 しかしその呟きも、鈴木の手の音によってかき消される。
「今日はおしまい! 最初に捕まった大森と野崎、あと勝手に抜けた久世は筋トレな」
「げ」
 野崎は顔を曇らせた。久世と大森の顔を順に見たが、抗議の様子は無い。
「ガンバ、野崎」
 飯田までもがにやにやと笑っている。野崎はため息を吐くと、黙ってその場に座り込んだ。




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