野崎はその日曜日、ほとんど部屋から出ずに机の前に向かっていた。月曜日提出のレポートにまったく手をつけていないことに気づいたからだ。文章を書くのは元からあまり得意ではない。自分の思っていることを的確に文字にすることが苦手なのだ。この日も、キーボードを気まぐれに叩いては消し、また叩いては消し、を繰り返していた。 「あー、くそ」 煮詰まってきて一度ノートパソコンを閉じる。すると、ちょうどそのタイミングでドアのノック音が聞こえてきた。 「はい」 誰でもいい、少しは気晴らしになるかもしれない。しかしドアを開けると、そこにいたのは焦燥を顔に浮かべた石川だった。 「あの、野崎さん!」 そう必死の形相で詰め寄ってきて、野崎は思わず一歩引いてしまう。何が意外って、全部だ。石川が尋ねてくるというのも、こんなに深刻そうな表情をしているのも。 「どうしたんだよ?」 とりあえず落ち着かせようと思って訊ねると、石川は取り乱している自分に気づいたのか、ようやく呼吸を整えた。僅かに落ち着いたようで、真剣な表情で野崎に告げる。 「大森が……いや、とにかく来てください」 「大森?」 「いいから、早く来てください! じゃないと、部屋が」 言っていることが理解できない。石川にせかされてわけも分からず靴を履くと、野崎は石川に続いて走った。静まり返った西山の部屋を通り過ぎる。行き先は、大森の部屋だった。 「何、どうしたんだよ」 少しでも状況が知りたくてもう一度説明を求めると、今度は振り返って答えてくれた。 「大森が、暴れてるんです」 「はあ?」 全然説明になっていない。言いながら石川は部屋のドアを思い切り開けると、靴を適当に脱いで中に入っていった。野崎も部屋の中に入る。中を見た瞬間、これは地獄かと錯覚した。足元には漫画や服、ゴミが散乱し、以前酒盛りをしたミニテーブルの足は一本折れて傾いている。ベッドの上もシーツが滅茶苦茶に丸まっていたが、その真ん中を陣取っている部屋の主が一番厄介そうだ。 「うるせーよ!」 いきなりその大森が叫んだので、野崎は帰りたくてたまらなくなる。嫌な予感しかしない。 「帰れ!」 今度は石川に何かを投げつけた……と思っている暇も無く、それは野崎の頬を掠めて後ろへ飛んでいった。石川が上手く避けたのだ。後ろのことも考えてくれなんて、もちろん言う隙も無い。 「野崎さん、大丈夫ですか?」 はっとして石川が振り返る。 「俺は大丈夫だけど……なに、大森、何かあったの」 正直聞きたくなかったが、聞かねばならないだろう。だいいち、話を進めなければ帰れない。 「野崎さん……?」 そこではじめて、大森が全身から怒気を抜いた。ベッドから立ち上がると、ふらふらと足元に突っかかりながらこちらへ歩いてくる。 「の、野崎さーんっ!」 予想はしていたが、予想以上に物凄い力で抱きしめられて野崎は思わず呻いた。ここまでくるとよく分かるが、酒臭い。相当の量を飲んでいたのだろう。見ると、ベッドの周辺には酒の空き缶や空き瓶が転がっていた。 「とりあえず、落ち着け」 ぐずぐずと鼻を啜る音が聞こえるので、泣いているのかもしれない。背中をぽんぽんと叩いて、目が合った石川にベッドをの場所を空けるよう指示する。 「話聞くから。な、座ろうぜ」 「ううー……」 そういえば一昨日の金曜会でも元気が無いようだったから、何か悩み事でもあるのかもしれない。背中を丸めた熊みたいな大森をベッドに座らせると、その横に腰掛ける。しばらく待って落ち着いた大森は、ぽつりぽつりと事の起こりを話し始めた。 「…………それで、ヤケ酒ってわけか」 「だって、どうすりゃいいっていうんですかぁ!」 まあまあと宥めながら、野崎は隣人の顔を思い浮かべてため息を吐いた。 話は、実に単純だ。大森は最近彼女と上手くいっていないらしく、むしゃくしゃしていたときに見てしまったのは、――よりによって――西山の部屋から出てくる彼女の姿だったらしい。その場面でひと悶着、只今絶賛喧嘩中、というわけだ。 「西山とは話したのかよ?」 大森は黙って首を振る。そんなこと恐ろしくて聞けない、という表情だ。 「彼女は、西山となんかあるって言ってたの?」 また首を振る。しかし、今度は悲痛な表情だ。面倒くさくはあるが、ここまで聞いた以上放ってはおけないだろう。 「……おい石川、ちょっと西山呼んできてくれよ」 「や、やややめてくださいよ!」 散らかり放題の部屋を片付けていた石川が振り返るのと同時に、隣から猛抗議される。 「だって、本当に何も無かったかも知れないじゃん」 「もしあったらどうするんすかぁ!」 そのときは……と言葉を濁して、思いつかなくて目をそらす。ドンマイ、という言葉はすんでのところで飲み込んだ。 「ともかく、さ。彼女といっぺん話してみろよ。本当に誤解かもしれないし」 「でも、本当に何かあったら……」 金曜会での「彼女取られないようにな」という忠告は大森の想像によからぬものを付加してしまったかもしれない。確かに西山は彼女と別れたばかりだが、さすがにいきなり手を出すような男ではない。彼と大森の仲がギクシャクしてしまうのはやぶさかではないし、やはり後で聞いておかねばなるまい。 「ううう……俺が悪いのかなあ、なかなか会ってやれなかったから……」 長引きそうな雰囲気を感じ取って、助けを求めるように石川を見る。彼はちょうど、テーブルや床に散らばったゴミを拾っているところだった。大分片付いてきてはいるが、割れた皿の破片が散らばっている辺り、凄惨な様子が垣間見えている。 「……野崎さんは彼女、いないんすかぁ」 石川がすっと目を逸らしたのを確認して、野崎は大森に向き直った。 「いねえよ」 「モテそうなのに……」 「ま、俺はサークルも入ってないし、知り合う機会がまずないからな」 「……あ、あの、ひとついいっすか」 大森が急にそっぽを向いて野崎から離れる。訝しげに見ながら頷くと、大森はさっきまでとは全く違う表情でもごもごしていた。 「……野崎さん、いいニオイがします」 「は?」 この男は酔うと意味の分からないことを言い出す癖があるらしい。脈絡もなにもあったものではない。 「シャンプーじゃね?」 といっても、野崎が寮の共同浴場に持っていっているシャンプーはごくごく一般的なものだ。母が選んだものを、そのまま買い足して使っている。 「そうじゃなくって、なんか野崎さんのニオイっていうか」 言いながら、今度はくんくんと嗅ぎ始める。さすがに居心地が悪くなって再び石川を見たが、彼は知らないふりで黙々と雑誌を集めている。 「あ、俺レポート途中だったんだよ。そろそろ帰るな」 慌てて立ち上がると大森が不満そうな顔をした。しかし、嘘をついているわけではないので後ろめたさは無い。 「あの、野崎さん、ありがとうございました。俺、頑張ってみるっす!」 「おう、じゃあな」 元気な返事をする大森を尻目に、野崎は部屋を後にした。廊下に出た途端、気分転換どころか労力をたっぷり消費してしまったことにげんなりする。 ふと思い出して、自分がどんな匂いがしているのか気になったが、確認の仕様が無い。あとで飯田にでも聞いてみよう。 野崎は何処となく浮かない気分のまま、西山の部屋の前を通り過ぎた。 |