深呼吸 16


「お前、大森の彼女に手出したらしいな」
 西山の部屋に入ると、野崎は開口一番にそう言った。
 先日の一件を知るものは意外に少ない。一日たった月曜日の今日も、いつもと変わらない日常が過ぎている。しかし残念ながら、知ってしまったことを知らないことにはできない。さすがに頭と良心が痛んで、こうして元凶の部屋を訊ねることに決めたのだ。
 ドアを開けた瞬間にそんなことを言われた部屋の主は、一瞬ぽかんと口を開けてから、慌てたように「しー」と、口に指を当てた。そして、その様子に訝しげな表情を浮かべた野崎に、部屋の中へ入るよう促す。
「それマジ? 野崎」
 部屋の奥から聞こえてきた声に顔を上げると、飯田が備え付けの机に座ってこちらを向いていた。両手は、机の上に置かれたパソコンのキーボードの上だ。
「あー野崎のばか、聞かれたじゃねーか……」
「そういうことね……。飯田、来てたんだ」
「ああ。ちょっとネット、使わせてもらってた」
 飯田はインターネットを利用するとき、だいたい西山の部屋に入り浸っている。インターネット回線は各部屋に通っているが、飯田は契約していない。家庭事情が複雑だから、使用料を節約したいというのが理由なのだろう。
「それよりなんだよ、二股? 彼女はどうした?」
 予想通り、飯田は野崎の発した言葉に既に呆れ気味だ。西山は恨めしそうな顔で野崎を見てから、諦めたようにため息をついた。
「くそ、……別れたよ、ちょっと前に」
「一週間前だろ」
「黙ってろって」
「人巻き込んでおきながら……」
「なに? 何かあったの?」
 飯田の探るような視線を感じてか、西山はわざとらしく笑う。
「ないない、なんもないって!」
 それより、と西山は続けた。
「手は出してないから、そこ誤解な」
 言いながら、参ったというようにベッドに腰を下ろす。まだ一年の付き合いだが、その言葉が嘘ではないことは野崎にもすぐに分かった。
「帰ってきたら、知らない女の子が一人で廊下をうろうろしてたんだよ。ま、男としてそこは放っておけないだろ? それで、ちょっと相談に乗っただけ」
「部屋に連れ込んだわけか」
「見も蓋も無い言い方するなよ、飯田……」
 野崎はこっそりとため息をついた。西山の話が本当なら、大森は実にタイミングの悪い目撃の仕方をしてしまったものだ。
「大変だったんだぜ、昨日」
「あー……もしかして、大森荒れてた?」
「そりゃあもう」
 野崎は彼の酔っ払い具合を思い出して、首をすくめた。
「今日、講義中寝てたのもそのせいか」
 飯田が納得と言うように頷く。確かに、昨夜は色々なものが悶々としてレポートが一向に進まず、結局深夜までかかってしまったのだ。あんなことになるなら、さっさと西山の部屋に押しかけて問題を解決しておいたほうがよかったかもしれない。
「そうだよ、マジ勘弁……次からは飯田が宥めてくれ」
「飯田の介抱はプロ級だからな」
「お前が言うか」
 自信満々に言い放つ西山に突っ込むと、飯田はノートパソコンをぱちんと閉じた。
「で、」
 西山にしっかりと向き直り、そう切り出す。
「西山のおせっかいによって、野崎が多大な迷惑を被ったらしい。そうだよな?」
「まさに、おっしゃる通りで」
 飯田の仰々しい台詞に乗っかって野崎が両手を挙げて見せると、西山はウッと呻きながら表情を歪めた。
「もちろん、この件を円満に解決することは最優先事項だ。ただ、それだけじゃ割に合わない。よな、野崎?」
「そういうことだな」
「おいおいお前ら……」
 西山の嫌な予感は恐らく的中しているだろう。飯田は机の上に置かれていた西山の黒い長財布を手にして、それをおもむろに差し出した。
「最近、近くに焼肉屋が出来たらしい」
「なんだって、それはうまそうだ」
「牛カルビが安いらしい」
「カルビ食いたいなあ」
「と、いうことで」
 飯田は言葉を切ると、得意の爽やかな笑顔を浮かべた。野崎も便乗して西山に詰め寄る。
「奢れ」
「奢れよな」
 西山はすっかり気圧されて、ベッドの墨で唇の端を引き攣らせていた。
「ま、待てよ、ちょっと待て! 野崎は分かるけど、お前は関係ねーだろ、飯田!」
「まあまあ、細かいことは気にすんなよ。半額でいいから」
「今週の土曜なんてどうだ」
 野崎は友情には厚いほうだと自負しているが、こういう悪ノリは結構気に入っていたりする。飯田がオーケーサインを出したことにより、果たしてこの提案は成立した。
「焼肉なんて久々だなあ」
「おいおい、決定事項かよ……」
 西山が自分の財布を飯田から受け取って、中身を確認する。まあどうせ半分くらいは払わされるのだろうが、久しぶりにいい気分転換になるかもしれない。
「大森にも謝っとけよ?」
 飯田がしっかり釘を刺す。これで、この問題は晴れて解決ということになるはずだ。
「はーい……」
「女関係の恨みは怖いからなあ」
 飯田が遠くを見つめるように呟く。過去に何かあったのだろうかと、野崎は密かに思案した。
「それにしてもさ」
 と、西山がお金の憂鬱を打ち切るように切り出す。
「大森、やたらと野崎のこと気に入ってるよなあ」
「そうか?」
 昨日の件は、別に野崎が選ばれたというわけではなく、ただの消去法だろう。西山を呼ぶのは論外だし、飯田と寺島は三階だ。
「それは俺も思うな。飲みのとき、やたら絡んでただろ」
 飯田は同意のようだ。そのことに関しては否定できないが、やはり全員に満遍なく絡んでいたようにも思える。
「……そうだったっけ?」
「お前はすっかり出来上がってたからな……」
 西山のあっけらかんとした様子に飯田はため息をついた。こうして後から飯田にぐちぐち言われるのが分かっているから、酔いに任せておかしなことは出来ないのだ。それでも全く懲りない西山も西山だと思うが……彼に関しては飯田も殆ど諦めている節がある。
「あ、そういえば昨日、大森に変なこと言われたような……」
 ふと思い出して野崎が切り出す。
「なになに」
 西山は興味津々と言った様子だ。思い出しはしたが、なんとなく言いづらい。
「あー、何だったかな……ニオイが……」
「匂い?」
 やはり言いづらい。「俺って良い匂いするらしいぜ」なんて、どんな奴の言う台詞だ。野崎は大森の発言ををそのまま復唱するのはやめて、飯田に向き直った。
「俺って、なんかニオイする?」
「は?」
 まあ、普通の反応なんてこんなもんだろう。どう説明するべきか首を捻っていると、飯田に髪を掴まれた。
「お、おい……」
 どうやら匂いを嗅がれているようだ。なんだかくすぐったい。
「んー……野崎の匂いだよな」
 飯田はさも自然というように、そう感想を漏らした。自分で嗅ぎようが無いから、余計に気になる。
「でも、俺は好きだぜ。なんか落ち着く」
 西山が飾り気の無い言葉で表現した。正直なのは西山のいいところだが、面と向かって言われると恥ずかしい。その様子を見て、飯田がにっと笑った。
「変な匂いじゃないから安心しろよ。……まあ、いつもは西山の匂いで気づかないからな」
 言いながら、横目で西山を見やる。
「おいおい、俺の髪はいい匂いだぜ?」
「整髪料だろうが。ワックスの匂い」
「ばか、コロンもつけてるだろ」
 言われてみると、西山の部屋はいつもなんともいえない香りで満ちている。棚にずらりと並んだスプレーやクリームの類は、野崎からしてみるとどう使い分けているのかまったく分からない。
「西山は論外だけど、まあ変な匂いじゃないんだったらいいか」
「大森に何て言われたんだよ?」
 飯田に訊ねられたが、野崎は曖昧に笑って誤魔化した。西山は自慢の茶髪を弄りながら自分の匂いを確認している。野崎はそれをぼんやり見ながら、世の中には「フェチ」なんて言葉もあるな、と思いついていた。




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