玄関にある集合ポストには、まれに広告やチラシが入っている他は、ほとんどカラの状態だ。大きな荷物が届いたときはさくらが管理人室兼事務室で預かってくれるので、あまり利用することがないのだ。 だから、野崎はいつものように、ちらりと中身を確認して通り過ぎようとした。 「……あれ」 しかし、中から白い封筒が覗いているのが見え、足を止める。 「……誰だろ?」 取り出してみると、そこには差出人の名前どころか、宛名すらかかれていなかった。切手も貼られていないので、誰かが直接このポストに投函したのだろう。周囲を見回してみるが、人影すらない。バッグを肩に掛け直して、野崎は部屋に向かって歩き始めた。 「あ、野崎君!」 と、そこで横から制止の言葉がかかる。見ると、手に何冊かファイルを持ったさくらが管理人室から顔を出していた。片手に封筒を持ったまま近づくと、さくらは僅かに額に皺を寄せた。 「なんですか?」 なにやら説教の予感がするが、特に覚えは無い。この間、風呂の電気をちゃんと消さなかったことだろうか。いや、でもそれだったら寝ぼけて手洗い場の水を出しっぱなしにした西山の方が悪いはずだ。 「野崎君ねえ、鍵借りたんならちゃんと言いなさいよ」 「鍵?」 ぐるぐると頭の中で巡っていた説教候補は、さくらのその一言でぱっと消えた。鍵? 何のことだろう。 「知らないふりしてもだめよ。失くしたんなら鍵ごと交換しなきゃならないんだから」 「だから、何のことですか」 「この前、あたしの部屋から鍵借りたでしょう」 さくらのいる管理人室には、それぞれの部屋の合鍵が全て揃っている。もちろん、それらは簡単に持ち出されないように部屋の中の引き出しの中にしまってあるのだが、在処が寮生にばれているので、さくらが鍵を掛け忘れて部屋を出たときなどにコッソリ借りる人もいるらしい。 もちろん、野崎にそんなことをした覚えは全く無い。 「借りてませんよ。鍵、ありますし」 バッグの内ポケットからシンプルな鍵を取り出してさくらに見せる。しかし、彼女はまだ納得していないようだ。 「いつだったかな、夕食がカレーだった日だから……そうそう、先週の月曜日」 「はあ。でもほんと、違いますから」 とにかく、やってもいない泥棒扱いされるのはかなわない。野崎の必死の抗議が少しは効いたのか、さくらは「でもねえ」とぶつぶつ言いながら考え込んでいる。 「……そうよね、野崎君は真面目だからねえ。ごめんね、あとで西山君にも聞いてみるわ」 真面目と言っても、この寮生のなかで「比較的」ということだろう。微妙な気分だが、それにしても、西山は随分とさくらから信用が無いらしい。 「鍵、戻ってきたんですか」 「ええ、すぐにね。まったく、ちょっと急いでて鍵閉め忘れちゃったのが悪かったわ」 さくらは悔しそうな顔をしてから、ふうとため息をついた。続けて、「でもしょうがないわよね」と一人ごちる。 「何かあったんですか?」 「お風呂にハトが出たっていうのよ」 「ハト?」 「いったいどこから入ってきたのかしらね」 浴室にハトがでたなんて、そんな覚えは野崎には無い。 「それって何時のことですか」 「六時よ」 「ああ、小塚さんですか」 「そう」 四年生の小塚英介は、潔癖症のためかいつも一番先に風呂に入っている。金葉荘では、何となく上級生が先に入るという流れはあるものの、そこまできっちりした規律は無い。ただ、その時間に入っているのは彼以外いないだろう。寮の中では結構有名な話だ。 「で、どうやって出したんですか、ハト」 「蜘蛛の巣取る棒、あるじゃない? あれでつっついたら下の方に降りてきたから、こう、がしっと」 「手づかみ……ですか」 随分興奮してて大変だったのよ、と続けるさくらをなんともいえない眼差しで見やる。しかし彼女がいなければ、ハトも寮生も困ってしまっていたわけだから、やはり尊敬である。 「まあとにかく……多分大丈夫だと思うけど、何か盗まれたとかあったらすぐ言ってね」 「はい、ありがとうございます」 軽く会釈してから改めて階段を登る。金もたいしてあるわけじゃないのに、いったい何を盗むと言うのだろう。少し気になるところだが、自分の鍵を持っていこうとして間違えた、という可能性だってある。悩むのは被害が出てからにしようと頭を切り替えると、不意に左手にもったままの封筒の存在を思い出した。中は硬くて、CDかなにかが入っているようだ。鍵より、こっちのほうが気になる。妙な予感が胸の中でもやもやと渦巻いている。 「野崎さん」 部屋の鍵を開けていると後ろから声をかけられて、野崎は振り返った。 「高橋」 「それ、俺んとこにも入ってました」 すかさず指差されて、野崎は左手を持ち上げる。真っ白な封筒。それと全く同じものを、高橋も片手で持ち上げていた。 「中身、見た?」 「見てないっすよ。CDっぽいけど」 「皆のポストに入ってんのか」 独り言のように呟いて、野崎は手元の封筒に目を落とした。安堵のような不安のようなものが押し寄せてきて、止めていた右手を回して鍵を開ける。 「イタズラですかね」 その言葉には答えずに、野崎は「じゃあ」と挨拶だけ返して部屋に入った。高橋と悠長に会話している余裕が無いほど、何かに急き立てられていた。真っ直ぐに部屋の奥まで行くと、机の上のノートパソコンを起動させる。 「……」 少しためらってから、封筒の端を破った。中から出てきたのは予想通り真っ白なCD-ROMの入った不織布と、一枚の紙きれだ。 「…………なん、だよ」 『野崎君』……メモ用紙程度の紙切れには、そう切り出されたメッセージがつづってあった。変な汗が噴き出してきて、落ち着かなくなる。パソコンが起動しきるのを待たずに、トレイにCDを挿入する。心臓の音が頭に響いている。ドクン、ドクンと、耳までじいんとしてくる。熱いのか寒いのか分からない。音がうるさい。 ――CD-Rの自動再生。起動したのは、動画再生ソフト。真っ暗な画面に、ざらざらとノイズが入る。ぼんやりとした街灯。ピンボケのような映像が徐々に鮮明になる。人の声も聞こえてくる。声……いや、これは叫び声だ。やめろよ、はなせよ。聞き覚えがある。当たり前だ、だって、これは――。 「…………!」 戦慄して、バチンと勢いよくノートパソコンを閉じた。訳も分からず周りを見回す。コンセントも抜いてしまってから、白い封筒が目に入った。その横には、小さなメモ。 「……ま、さか、皆に……」 足を動かそうとしたら膝に力が入らない。よろよろとした足取りで、自分が何をしているかもよくわからないまま、野崎は玄関に向かった。パニックになっているんだ、とどこかで客観的な自分が判断する。それなら、どうすればいいっていうんだ。その自問に答えてくれる人はいない。頭が熱い。 無意識に袖をまくって、部屋を出た。斜め向かいの二〇五号室。ドアを乱暴に叩く。早く。早く。 メモに書かれた、無機質なコンピュータの文字が脳裏に浮かぶ。 『野崎君 また会えることを、楽しみにしているよ T.』 憤りなのか恐怖なのかわからない激情がわきあがってきて、また汗が噴き出す。そうだ。なんで忘れていたんだ。カメラ。あのとき、確かにカメラが回っていた。暗闇の中に浮かぶ赤い点を、確かに自分は見ていた。見ていたのに。 |