がちゃりとドアが開いて、野崎と正面に向き合った高橋は驚いたように目を瞠った。 「……野崎さん……?」 目が合うが、何を言っていいかわからない。頭も口も上手く回らないのだ。わけのわからない焦りだけが感情を動かしている。その様子を訝しげに感じたのか、高橋の表情はすぐに真剣なものに変わった。野崎の腕を引いて、中に入るよう促す。 「とにかく座ってください。話はそれから」 「高橋、あの、さ、さっきの……」 「落ち着いてください」 高橋は驚くほど冷静だった。急に訊ねるのが怖くなって口ごもる野崎を半ば強引に誘導して、ベッドに座らせる。青い布団が敷いてある。思えば、高橋の部屋に入るのは初めてだ。 「……で、どうしたんですか」 高橋は言いながら、机に備え付けられている椅子に腰を下ろした。ごくりとつばを飲む。少しだけ落ち着いたせいか、頭は幾分整理できてきた。 「し……CDが、あっただろ」 「CDって、さっきの?」 高橋は少々面食らったようにそう繰り返した。 「あ……あの、中身」 「中身?」 高橋が首をかしげる。 「……まだ、見てない?」 「……見るようなモンは、入ってませんでした。聴きましたけど」 「聴いた?」 高橋は振り返って机の上に置かれていたパソコンを開いた。スタンバイ状態になっていたようで、すぐに明るくなった画面上には、ミュージックプレイヤーが起動されている。 「何の曲かわかんないですけど。クラシック? これが、どうかしたんですか?」 「嘘……」 立ち上がって画面を食い入るように見つめると、高橋が黙って再生ボタンを押す。トラックは10まであって、順々に聞かせてくれた音楽はどれもクラシックのようだった。野崎が聞いたことのある有名な曲も混ざっている。 「CDには、これだけ……?」 「ファイルまで見てみましたけど、これだけです」 「メモは……?」 呆然と呟く野崎を高橋はちらりとだけ見て、首を横に振る。 「……そんなの、入ってませんでした」 「うそ……だろ」 脱力感が襲ってきて、膝から力が抜けた。ふらついた体を高橋が支えてくれる。 「だって……じゃあ、あれはなんだったんだよ」 「あれって」 「撮られてたんだ。……でもそれだけじゃない。俺のことも知ってる。俺がここに住んでることも、名前も、部屋の番号まで知られてる。またって……なんだよ。また会おうなんて」 「野崎さん、落ち着いて」 思考がある一点にたどり着いて、今度は怒りからか恐れからか、指先が小刻みに震え始める。 「もし逃げたら、今度こそ皆に配るってことかよ……!」 「野崎さん!」 ようやくはっとして、目に映っている高橋を認識する。高橋はわざとらしく溜め息をついて、野崎をぐいと引き寄せた。抱きしめられる格好になって、背中をぽんぽんと叩かれる。 「何があったかは知らないけど、落ち着いて」 「……」 ここで始めて、ああ変なことを口走ってしまったと、野崎は後悔した。言葉って言うものはやはりきちんと脳で吟味してから使わないと駄目だ。それより、背中を叩かれるのは結構気持ちがいいものだとぼんやり思う。高橋には迷惑をかけてしまった。そして、そこまで考えが及ぶのも大分落ち着いたからだ、という結論に達する。 「悪かった……」 「いいっすよ、別に。……あーあ、これで俺も同罪」 「え?」 「なんか、飯田さんの気持ちわかる気がする」 高橋は気が抜けたような声でそう呟くと、溜め息をついた。どうやら本当に怒っているわけではないようだ。しかし、飯田と同罪とはどういうことだろう。いまいち引っかかって思い出せないが、そういえば最初の頃はもっと刺々しい態度だった気がする。少しは丸くなったと喜ぶべきだろうか。 ただし、あの動画がもし見られていたとしたら。そうしたら、高橋は今と同じ態度を取っただろうか? 大体、飯田も西山も、実際にあれを見ていたとしたら。懐疑的になる自分に嫌気が差す。あんな、安物のポルノ動画のような映像に、こんなにも振り回されている。 「……」 「泣かないでくださいよ」 高橋が突然そう言ったので、野崎は思わず耳を疑った。 「泣いてねーよ」 本当だった。涙なんてどこかに置き忘れてきてしまったようで、一滴も出てこない。それなのに、この男は何を言っているのか。 「同じようなもんです。……いや、そっちのほうがまだいい」 後半は、ほとんど聞こえないくらいの声量だった。高橋はようやく野崎の背中に回していた手を解くと、パソコンのCDトレイに手をかける。 「CD、持ってくならあげますけど」 「いや……いい、サンキュ」 結局、高橋に慰められに来たような形になってしまって、どうにも情けない。野崎がさっきよりも確かな足取りでドアのほうへ歩くと、高橋も付いてきた。 「なに、送ってくれるとか?」 「ハイ」 冗談に真顔で返されて、野崎は言葉を失った。いつもの高橋なら、軽く皮肉の一つでも言ってくるはずだ。……いや、「はず」という言葉を使うには、自分は彼のことを知らなすぎる。 「あのさ、このことは……」 「言いませんよ。……誰の得にもならないし」 「そっか。……そうだよな」 靴を履くのにやたらと手間取った。部屋には、野崎が飛び出した時そのままの状態が残っている。帰れば嫌でも現実を見なければならない。それを無意識に自覚しているのかもしれなかった。 「……野崎さん」 「ん?」 「やっぱり、送りません」 「……」 「気が変わりました。もう少しここにいてくださいよ」 野崎は思わず振り返った。その瞬間、自分がどんな顔をしていたのかはわからない。ただ、高橋はそっぽを向いていて、それが彼なりの照れ隠しだとわかるのに、そう時間はかからなかった。心を読まれたのかどうかはわからないが、ともかく自分に気を配ってくれているのだ。 「……お前、俺のこと嫌いじゃなかったのかよ」 ぼそりと訊ねると、高橋はおもむろに椅子に座って、パソコンを閉じた。 「別に、そんなこと言ってないっすよ」 「だって、この前……」 「あれは……まあ、ちょっとありまして」 「……便利な言葉だな」 「先輩に言われたくないです」 そうだ、こんな具合だったと野崎は思い出す。礼を言うべきだろうが、この調子では後回しになりそうだ。 履きかけた靴を脱いで、もう一度ベッドの上に座る。ふと棚を見ると、あるのはバスケットものの漫画ばかりだ。見事な揃い様に少し笑うと、高橋はしばし目をぱちくりさせて、それから自慢げに微笑んだ。 「読んでもいいっすよ。俺の珠玉のコレクション」 「全部バスケじゃねーかよ」 まさか高橋と、こんなに普通の会話が出来るとは思っていなかった。野崎はいろいろなことを後回しにするのを今日だけは許して、大量にある漫画の物色に専念した。 |